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石田友の世界へ ようこそ

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2018-05-03 評論       「民主化のすすめ」  
2018-05-02 評論       「神話について」  
2018-05-01 評論       「戦火の臭い」  



再掲載

    崩壊との遭遇      崩壊後の社会    

   簡単な算数       財務省の推計  


このプログには、次のオリジナル小説があります。

長編小説 「無力」「海の果て1-3部」「理不尽」「陽だまり」「復讐」 「弱き者よ」
短編小説 「不運」 「天軍の藍」「甲子園城」「川面城」
超短編  「すずめ」 「雨」 「算術」 「逃亡者」 「告発」「火球少女」「花火」

・・・ それぞれの小説へは、この下にある目次から飛んでください ・・・

         日記は左の 記事一覧 からお願いします

  >>> 目 次 <<< 




[ あらすじ ]

    1    

[ 無力 ]

    1     2     3     4     5     6     7     8     9      

   10    11    12    13    14    15    16    17      


[ 海の果て・・・ 1部 ]

    1     2     3     4     5     6     7     8     9     

[ 海の果て・・・ 2部 ]

    1     2     3     4         

[ 海の果て・・・ 3部 ]

    1     2     3     4         


[ 不運 ]

    1    


[ 天軍の藍 ]

    1   


[ 理不尽 ]

    1     2     3     4    


[ 陽だまり ]

    1     2     3     4    

[ 復讐 ]

    1     2     3     4     5    


[ 弱き者よ ]

    1     2     3     4    


[ すずめ ]

    1    


[ 雨 ]

    1    


[ 算術 ]

    1    


[ 逃亡者 ]

    1  


[ 甲子園城 ]

    1  



[ 告発 ]

    1  



[ 火球少女 ]

    1  

[ 花火 ]

    1  

[ 川面城 ]

    1  









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民主化のすすめ [評論]



このブログを読んでくださる皆さんの中には、少子高齢化や財政破綻や戦争を防ぐ方法はないのか、という疑問を持つ方もおられるかもしれません。そもそも、少子高齢化や財政破綻や戦争が亡国のシナリオなのだろうか、と思う方もいると思います。仮に、それが亡国のシナリオだとしても、地獄を予測するのではなく、もっと前向きに、建設的に、地獄にならない提案をすべきだと言う方もいるでしょう。
確かに、少子高齢化や財政破綻や戦争が亡国のシナリオにならない可能性もゼロだとは思いませんし、建設的な対策など無い、とは言えません。しかし、これまでの動きと現状を見ている限り、その望みが叶う確率は非常に小さい、いや、ほとんどゼロに近い確率しかないと思っています。
もちろん、建設的な提案があるのであれば、私も聞きたいと思います。
しかし、亡国のシナリオを防ぐ妙案は、実現可能で現実的な提案は、今日まで存在していませんし、将来も誕生することはないと思っています。少子高齢化や財政破綻や戦争というシナリオは、今日、突然、始まったものではなく、すでに私達が日常の風景として見てしまう状態になっています。その間、それに対処する提案はありませんでした。いや、提案はあったのかもしれませんが、実現することはありませんでした。それは、出来ない条件があったからだと思います。これまで、実現可能で現実的で建設的な提案がなかったということは、そんな妙案が存在していないということであり、残念ながら、これが、現実ですし、突然の妙案が出てきて、しかも、それが実行される確率は、限りなく小さなものだと思います。

ただ、実現の可能性があるかどうかは未知数ですが、誰かが「新しい思想」を生み出す可能性は、まだ、残っていると思っています。もちろん、その時は、国家崩壊が起きても民族絶滅につながらないという条件が必要です。国家崩壊は避けられませんが、それでも、生き残る人達がいるのであれば、その人達には可能性はあると思うのです。それは、亡国という過酷な体験をした人達だからこそ、可能性があるのだと思います。ぬるま湯に浸かっている私達に、その可能性はないのではないでしょうか。
たとえ、「新しい思想」という高いハードルを越えられなかったとしても、現在、存在する民主主義という思想を利用することで、回り道にはなりますが、少しはましな国を再建することは可能になるかもしれません。ですから、今日は、生き残る人達へ向けて、「民主化」の提案をしておきたいと思います。これは、お馴染みの「二度と・・・・」ですから、役には立たないのでしょうが、私達に出来ることは、こんなことしかないのではないかと思っています。


簡単に民主化の歴史を振り返りながら、民主化に必要なものを探ってみたいと思います。
日本の民主化の出発点は、明治維新だったと思います。
ただ、残念なことに、失敗してしまいました。
私は、明治維新がクーデターであり、政権交代劇だったと書いてきました。
もちろん、クーデターや政権交代が悪だとは思いません。
下級武士の力が時代を動かしたことに異論はありません。
しかし、残念なことに、人民革命ではありませんでした。
ですから、主権は人民にはなく、一部の権力者にありました。
だからと言って、民主化がゼロであったとは言いません。
確かに、徳川体制からみれば、民主化される方向へと動き出しました。
しかし、明治の自由民権運動の失敗がそれを象徴するように、日本の民主化は別の方向を向いてしまいました。それでも、明治政府は精一杯のことをしたと思います。徳川時代と比較すれば民主化は進んだと言えます。
しかし、民主国家にはなれませんでした。
それは、明治政府が目指したのが民主国家ではなかったからです。
明治政府が目指したのは富国強兵であり、世界列強の仲間に入ることでした。
そのために、民主化は曖昧な場所に着地し、その体制のまま時間が流れました。
多分、ここに、根っ子はあります。
曖昧な決着は、この国では普通ですから、明治の自由民権運動を批判しても意味がありません。それでも、運動の発想理念には問題がありました。それは、自由民権運動を推進した人達も、「形」から民主国家の樹立を目指すという発想を持ったからです。それが、民主国家の土台を軽視するという結果になりました。当時は、明治政府も、世界列強の国家体制を真似ることが、国家目標になっていましたので、「形」が重視されたことは仕方がありません。しかも、日本人は、もともと、形を重視します。「国会開設」をすれば民主国家の完成だと考えたのかもしれません。結果を変えれば何とかなるという思想は、過去も、現在も健在です。紆余曲折の末に国会は開設されましたが、それは明治政府が自由民権運動に屈したからではありません。明治政府も「形」の上で「国会開設」が必要だったからです。当時の列強と互角に付き合うためには、国会は必要な装置の一つだったからに過ぎません。鹿鳴館と同じ発想だったのでしょう。困ったことに、目に見える、形式上の、結果を変えれば、その原因は無視しても良いというこの発想は、アベノミクスでも受け継がれています。
当時も、必要だったのは「国とは何か」「国民とは何か」「民主主義とは何か」という定義だったのだと思います。その三大定義の先には、多くの定義が必要になりますが、その定義も曖昧なまま時は流れました。中でも一番曖昧にされたものが、その根っ子にある「定義とは何か」という定義がされなかったことだと思います。
仮に、民主国家とは、主権者が国民であると定義するのであれば、天皇制は民主国家の定義には合致しません。でも、現実として、日本という国は天皇制という体制で統治されたのです。これを、日本固有の民主主義だと主張する方もいます。でも、それは違います。民主主義風王政並立封建制度と、民主制度は、全くの別物です。曖昧文化の国ですから、この程度のことは許される範囲なのでしょう。形の上で先進国を真似ることが民主主義だと思ったのかもしれません。
確かに、徳川封建体制の中で生きてきた人達に、民主主義なんて言葉だけを伝えたのでは意味不明です。国民は、ほぼ90%以上の人達が、いや、99.9%以上の国民が、民主主義という言葉さえ知らなかったでしょう。言葉を知っていた0.1%の方も、おぼろげな形を知っていただけで、その根っ子は気にしていなかったのかもしれません。もっとも、平成の今でも、どれだけの国民が民主主義を理解しているのかと言われれば、当時と、それほど差があるようには見えません。言葉を知っているという点では大幅な進展がありましたが、中身は理解されていません。
天皇主権という旗印のもとで、日本は近代化を急ピッチで進めました。錦の御旗を立てて進軍した官軍の様子と同じことが行われたのです。それは、明治維新という成功体験に影響されていたからなのかもしれません。世界の列強に蹂躙される前に国力を増強しなければならなかったのですから、明治政府のやり方が全面的に間違っていたとは言えません。
ただ、自由民権運動が勢いを無くし、天皇制が定着したことで、日本は方向転換をする選択肢を失い、そのまま、第二次世界大戦へと進んでしまいました。そういう意味では、明治維新は、第二次大戦敗北の出発点となってしまったのです。日本の民主化にとって、明治維新は大きなチャンスでした。それを敗戦に結びつけてしまったのですから、折角のチャンスを無にしてしまったと言っても過言ではないと思います。
明治維新当初、この第二次大戦の敗北を予測した人は、いなかったのでしょうか。
明治・大正・昭和初期に、予測した人はいなかったのでしょうか。
私は、いた、と思います。
坂本龍馬という人物の実像は知りませんので、伝聞だけで、想像したにすぎませんが、坂本龍馬が、あの若さのまま、生きていれば、予測したのではないかと想像しています。これは、無いものねだりに過ぎませんが、坂本龍馬と同じような思考回路を持つ人間がいなかったとは言えませんので、そのような予測をしていた人は、きっと、いたと思います。
では、第二次大戦の敗北を受けて、日本に民主化運動が再現したのでしょうか。
いいえ、国民は食料の確保に全力を傾けましたので、民衆による民主化運動が起きる環境ではありませんでした。一部の民衆が、共産主義革命を夢見ましたが、多くの国民は同調しませんでした。いい人達ばかりですから、暴力は馴染みません。しかも、1,000年も2,000年も、「お上」のご意向に従ってきた人達ですから、その環境から抜け出すのは至難の業です。直前までは、封建制度の延長線上にある天皇制の国だったのです。昨日まで、天皇を神様だと信じて生きていた人達です。敗戦を機に生まれ変われと言っても無理です。そこで、力を発揮したのが「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。結構、この曖昧状態は気持ちのいいものなのです。日本の社会を表現する時、「ぬるま湯」という言葉が使われます。しかし、その「ぬるま湯」の正体が曖昧文化だという解説はされません。その状態が70年以上も続いて、現在があります。
フランス人ジャーナリストが「日本の民主主義はギフトだった」と言っていました。
フランス人はフランス革命に誇りを持っていますので、フランス人らしい意見だったと思いますが、私も、その意見には賛成です。
リボンをかけた箱の中には民主主義という贈り物が入っていたのは間違いないと思います。でも、その箱を開ける人はいませんでした。
たとえ、贈り物であっても、中身を吟味しなくても、「形」さえ整っていれば、民主国家だと言うことは出来ますし、国民は「我が国は、民主国家なんだ」と思い込みます。「お上が言っているのだから、間違いないだろう」という国民の感覚は、徳川時代でも、明治時代でも、大正・昭和時代でも、平成時代でも、共通しています。日本の場合は、「形」が重要なのです。儀式が執り行われれば、全ては丸く収まるのです。
問題は、第二次大戦の敗北のような惨事は二度と起きないという保証がないことです。
実際に惨事が起きても、ドサクサに紛れて、その惨事を検証する人はいませんし、責任を取る人もいません。第二次世界大戦では、他国の国民が犠牲になっていますので、戦勝国による責任追及が行われましたが、自己崩壊の場合は責任追及を行う人がいません。国家運営者は、ひたすら「国家再建」を叫んでいればいいのです。
「二度と・・・・」の二度目は、必ず、やってきます。
その二度目を、出来限り、先延ばしするためにいろいろな策が考えられますが、先延ばしは先延ばしに過ぎませんので、二度目は、やってくるのです。もちろん、惨事は同じ形でやってくるとは限りません。でも、どんな形で惨事がやってきても、国民が被害を受けるという点では、何も変わりません。
敗戦後の混乱期に民主化運動が国民的運動にならなかったのは、致し方なかったと思いますが、敗戦の20年後に、いや、30年後に、気付くべきでした。そんなのは、後講釈だとして説得力を持っていませんが、この国は、まだ崩壊していないのですから、今からでも民主化運動を始めてもいいのです。もちろん、民主化運動は短期間では終わりません。ですから、手遅れであることに間違いはありませんが、やらないよりはやったほうがいいと思います。それは、国家崩壊が起きても、生き残る国民はいるからです。崩壊当初は、民主化なんて飯の足しにはなりませんので、民主化運動は忘れられたままでしょうが、再建が見え始めた時に思い出す可能性があります。その可能性を残すためだけにでも、やる価値はあると思います。過去にやったことがあるという実績は、決して、無駄にはなりません。
随分前に、小沢一郎氏が「国民生活が第一」というスローガンを掲げましたが、国民の支持は得られませんでした。それは、「国民生活が第一」が国民にとって他人事だったからです。
民主国家の最重要課題は国民生活なのですが、定義が曖昧になっていて、国民がそのことを知らないのですから、どうすることもできません。国家運営者も国民も、「国民生活が第一」が最重要課題だという認識は持っていません。「国民生活が第一」が大切であることは知っていますが、多くの課題の一つに過ぎず、最重要課題という認識がないという意味です。特に、私達の国は「形」重視ですから、中身はあまり気にしません。ですから、その意味を深堀りする必要がないのです。「国民生活が第一」は、本来は、国民が求めるスローガンですが、政治家が選挙のために掲げてしまったのですから、国民にとっては他人事なのです。小沢氏の方向性は間違ってはいませんでしたが、選挙のスローガン第一ではなく、民主主義の定義を作るように国民に訴えることから始める必要があったのではないでしょうか。国民は民主主義が曖昧であることにも、「国民生活が第一」であることにも気付いていません。気付いていないのですから、「国民生活が第一」というスローガンにも反応しません。

誰も言及しませんが、国民には「知る責任」があります。マスコミは「知る権利」を主張するばかりで、「知る責任」には言及しません。
この国では、国民に「知る責任」があることは、ほとんど知られていません。独裁国では「知る責任」も「知る権利」も認められていませんが、民主国家では、その逆です。民主国家では、主権者である国民の責任は大変重いものなのです。民主主義が機能するかどうかは、国民の意識によって決まると思います。私達の国では、国民が、意識的に責任を放棄したわけではないとしても、結果的に、責任を放棄することになってしまいました。それは、自分達に「知る責任」があることを知らなかったからです。国民の責任は、主権者としての責任であり、重いものですから、二度目の惨事がやってきても、その責任は民主主義を知ろうとしなかった国民にありますし、国民が被害者になることは当然の結果なのです。これも、「国民とは」という定義がないことによる、弊害です。国民は、伊達や酔狂で主権者になっているのではありません。
「知る責任」こそが国民の最も重要な責任なのだと思います。何もせずに、手厚く守ってもらえるなんて考えているほうが、勘違いだと思わねばなりません。封建制度の時代に、民は、民に優しい心のある賢君の出現を望みました。例外的に、そのような賢君もいたでしょうが、ほとんどは、夢でした。私達は、その時代から一歩も前に進んでいません。
勝ち取らなければ、手に入らないものは、沢山あります。自分の生活は自分が勝ち取るしかありませんが、民主主義もその一つです。

では、民主国家になれば、私達の未来は薔薇色なのでしょうか。
そうではありません。
いくつかの課題は解決する可能性はありますが、もちろん、可能性にすぎませんが、それでも、全ての課題が解決するわけではありません。ただ、原則が確立していれば、惨事に向けて進む危険がある時に、方向転換かできる可能性はあります。
民主主義は、万能薬ではなく、可能性を生み出す装置だと思います。
なぜ、こんな不確実な方法を選択しなければならないのでしょう。
それは、他に選択肢がないからです。
「何か、他に、もっと、いい方法があるだろう」と言う方は多いと思いますが、そんな方法が存在した事例を知りません。これは、選択肢がない時に使われる言葉であり、方便であり、逃げにすぎません。ただ、選択肢が無いことを証明はできませんので、説得力に欠けていることは確かです。しかし、無いのです。万能薬ではないが、何もしないよりは惨事を回避できる可能性が生まれるということなのだと思います。でも、可能性は、無いよりは、あったほうがいいと思います。
少子高齢化も借金の増加も戦争も、亡国のシナリオです。
そして、亡国の犠牲になるのは国民です。
これだけは、変わりません。
もしも、「国民生活が第一」という視点が国民に共有されていれば、少子高齢化にも借金の増加にも戦争にも対応しなければなりません。その時に重要になるのは、「国民とは」という定義の中の「国民の範囲」だと思います。外国人居住者の取り扱いも大切ですが、そのことよりも重要なことがあります。現在生きている国民が、国民であることは間違いありませんが、まだ誕生していない将来の国民も国民であるという視点です。「国とは」という定義の中でも一番重要な定義は、国は、未来永劫、いつまでも、国民生活を守るシステムであるという定義だと思います。その前提に立って、国としての最重要スローガンを作るとすれば、「子供達の未来を守る国」になるのではないかと思います。今だけ、国民生活を守ればいいのではなく、永遠に国民生活を守らなければならないのが、国の仕事だと思うのです。そう考えると、少子高齢化や借金の増加や戦争は、あってはならないことになります。
もしも、自分の未来が危険なものであれば、自分の子供達の未来が危険に満ちているのであれば、国民は、自分の安全を確保するために抵抗するしか方法はありません。既に、その危険が予見できる事象が数多く起きています。多くの国民が抱いている漠然とした不安感は、その証です。私達に出来ることは、「知ること」と「声を出すこと」しかありませんが、それでも、やったほうがいいと思います。多分、それが民主主義の原点なのではないかと思います。
日本人も人間ですから、得をしたいと思います。人間ですから「自分さえよければ」に徹する人達もいると思います。でも、日本人の大多数は「いい人達」ですから、自分だけが得をしたいとは思わないのです。こんな素晴らしい民族は、地球上には存在していません。本物の民主国家は、日本でしか実現しないのではないかとさえ思います。そんな「いい人達」が、国家運営者の不作為で地獄へ落ちるのは間違っていると思います。もちろん、この地球上に理想の民主国家を実現している国はないでしょう。ですから、日本がお手本になることはあっても、日本人が好むお手本はありませんので、「形」から入ることはできません。
私達に必要なのは、現実を見る力と、将来を予測する力と、方向転換を可能にする柔軟なシステムを持つことだと思います。その前提として「未来の子供達のために」という目標が持てれば、地獄に堕ちることはないと思います。それを可能にするのが民主主義なのではないでしょうか。民主主義を真似るのではなく、民主主義を利用することにより、100%は無理でしょうが、何とか、未来の子供達へ引き継ぐことはできると思うのです。
今生きている崩壊前の日本人に「民主化のすすめ」を提案しても、皆さんの心には届きません。それは、国がここまで壊れているのに、そのような主張や世論は皆無だからです。皆さんは、本気で、「俺には、関係ねぇ」と信じているようです。
この国は、崩壊しますが、崩壊後に生き残る皆さんに、このメッセージが伝わることを願っています。回り道になりますが、ぜひ、民主化を実現して欲しいと思います。
念のために書いておきますが、民主主義風王政並立封建制度は、民主制度ではありません。
「民主化のすすめ」と題しましたが、民主国家になることが、目標ではありません。
民主主義を利用して、国民生活を守るシステムを作ることが目標です。
その為には、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義から出発するしかないと思います。


2018-05-03



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神話について [評論]



少子高齢化と借金の増加は、これまでも何度となく書いてきましたので、耳にタコかもしれませんが、戦争という条件を加味し、財政安全神話の検証をしてみます。話を分かりやすくするために、独断と偏見が入りますが、どうか勘弁してください。

財政破綻の危機という風聞は、財務省による国論操作に過ぎないという意見があります。
「このままでは、日本財政は破綻しますよ」と言う財務省の主張の中には、国論操作の意図が含まれていることは否定しません。ただ、その割合は、2割から3割程度だと思っています。残りの7割から8割は、実際にその危険があります。最近の財務省の言動を見ていると、財務省の言うことを鵜呑みにすることはできませんが、その中に多くの真実が含まれていることも事実です。それは、過去の実績値と個人による独自の予測を基に計算すると、財務省が発表している数値と近い数値が得られるからです。
財務省の発表によれば、2060年代の債務残高は8,000兆円になるそうです。この数値は財務省のホームページからは消えたようですが、消しているだけだと思います。
私の試算でも、近い数値が出ました。
もちろん、50年後の予測ですから、実際の数値がどうなるのかは、誰にもわかりません。これは、あくまでも、予測値であり、実現することはないと思いますが、何らかの数値がないと計算が出来ませんので仕方がありません。ただ、個人的には、8,000兆円という数値は、少し甘いと思っています。
でも、ここでは、話をわかりやすくするために、この数値を使ってみたいと思います。
数値に疑念のある方は、是非、試算してみてください。
借金は返済しなければなりません。仮に、返済しないとしても、利息は支払わねばなりません。それがルールです。ここでは、元本の返済は諦めて、いや、諦めるという選択肢しかありませんので、利息の話をします。元本の返済をしないのですから、利息の支払い義務は永遠に続くという条件があることは、承知しておかねばなりません。今年だけ乗り切れば何とかなるという条件はありません。
利息の計算は、元本に利率を掛けて算出します。
予測した元本は、8,000兆円です。
予想できる利率は、1%から20%だとしてみます。
仮に、長期金利が1%だとすると、利息は80兆円、3%だとすると、240兆円、5%であれば400兆円、10%であれば800兆円、20%であれば1,600兆円になります。
では、次に、利息を支払う資金はどこから調達するのでしょう。
税収です。
将来の税収は、どうやって予測するのでしょう。
過去の数字を参照すると、税収はGDPの約10%です。
では、50年後のGDPは、どのくらいになるでしょう。
政府は、2%~3%の成長率を掲げます。目標ですから、高く設定することは妥当です。ただ、現実は、そのような理想が実現するとは限りません。先進国の経済成長率は、アメリカを除き、1%前後が妥当だと言われています。ただし、その数値を維持するためには、環境が変化しないという前提条件があります。その環境の大きな変動要因に、人口があります。既に、日本の人口は減少トレンドに入りました。この先は、人口減少が続きます。50年後の人口は、現在の人口よりもかなり少なく、8,800万人だと言われています。約3割減です。生産人口という観点からだと、4割減になるそうです。この4割減という数字は、英国の全生産人口を上回る数字だそうですから、国が一つなくなるようなものです。
当たり前のことですが、人口が少なくなれば、GDPは減少し、GDPが減少すれば、税収も減少します。50年後の話ですから、単純計算では算出できませんが、GDPの大幅な減少は避けられそうにありません。
それでも、ここでは、あえて、50年後のGDPを500兆円だと仮定してみましょう。500兆円を維持できるとは思えませんが、独断と偏見で、500兆円という数字を使います。それは、GDPが300兆円であっても500兆円であっても800兆円であっても、計算結果にそれほど影響しないからです。
500兆円のGDPから算出される税収は、50兆円です。
今後、増税は何度となく繰り返されると思いますので、対GDP比の税収率を12%にすると、税収は60兆円、15%にすると75兆円です。
「これでもか !」というほどの増税をしても、税収は75兆円です。
これでは、税収を、全額(75兆円)、利息の支払いに充てたとしても、1%の利息(80兆円)でさえ支払うことができません。3%の利息(240兆円)は、逆立ちしても払えません。もちろん、税収を、全額、利息の支払いに充てるわけにはいきません。行政機能を維持しなければ、利息を支払うという業務すら出来ません。仮に、50年後の国家運営費用には200兆円~300兆円必要だとすると、利息支払いに充当できる資金がないだけではなく、国家運営費用でさえ不足する状態が続くということです。私達の国は、今でも借金で運営されていますが、国家運営者にこの状況から抜け出す意思は見受けられませんので、50年後でも、同じ構造が続いていると確信しています。50年後でも、借金で利息支払いの資金と国家運営費用を捻出しているものと思います。もちろん、借金を、未来永劫、続けることが可能であれば、何の問題もありません。そんなこと、可能なのでしょうか。毎年、400兆円から500兆円の資金が必要です。どこに、そんな莫大な資金があるのでしょう。
利息の支払いができない状態をデフォルトと呼びます。
長期金利に正常値という概念は当てはまらないと思いますが、過去の数値から類推すると、何事もなければ、3%~5%が想定範囲内なのではないかと思います。異常事態があれば、0%の可能性も、25%の可能性もあります。仮に、長期金利が6.5%になれば、利息はGDP総額(500兆円)を越えてしまいます。支払利息だけで、GDPより大きな資金が必要になりますが、そんな資金はどこにあるのでしょう。国民が必死になって働いた結果が、GDPです。どうすれば、GDP以上の働きが出来るのでしょう。
そこにあるのは、物理的な限界です。
どう転んでも、日本財政は、デフォルトが約束されているのです。
50年後の債務残高と50年後の人口の予測値は多くの方が知っています。本来であれば、50年という時間をかけて、債務残高の元本を減らす必要があります。でも、国は元本を減らすという目標は持っていません。国が財政再建という言葉を使う時、それは、借金に関するものを除外したプライマリーバランスという計算式を使います。元本を減らすという発想は、そもそも、存在していないのです。
確かに、今は、50年後の話をしていますが、ご心配はいりません。なぜなら、50年も待つ必要はなく、5年後でも、10年後でも、デフォルトの可能性はあるのです。

さて、ここで、「日本の財政は破綻しない」という神話について書きます。
財政破綻も少子高齢化も戦争も、「俺には関係ねぇ」と思っている多くの皆さんを除外すれば、神話のおかげで、国民の99.9%の皆さんが安心しています。私には、8,000兆円もの借金が神話でクリア出来るとは思えないのですが、何と言っても、日本国民は「いい人達」ばかりですから、どうすることも出来ません。とても、心配です。

巷で、最も多く語られる神話は、「日本には、大きな資産があるのだから、何の心配もない」という資産神話です。
では、その資産には、どんな資産があるのでしょう。
森友問題で有名になった国有地があります。
国会議事堂や国立図書館という建物もあります。
アメリカ国債もあります。
他国に対する債権もあります。
年金積立金もあるでしょう。
地方自治体への貸付金もあります。
国が利息の支払いに窮する状態を想像してみてください。好景気を予測する人はいないでしょう。そんな不景気の中で、土地を買って商売をする民間人がいるのでしょうか。人口減少が続き、不動産の需要は減少します。都市部でも空き家はさらに増えるでしょう。国有地を買って家を建てても売れない時代になります。土地を買って何を建てるのでしょう。森友学園のような私立の学校が増えるのですか。少子化が進みますから、現在でも私立大学の3割が倒産予備軍だと言われている今の傾向は、さらに悪化します。
それとも、中国の資産家に売るのでしょうか。
国会議事堂や国立図書館が売れますか。
国が資金不足に陥った時に、民間経済が大きく成長しているとは思えません。少子高齢化社会で、突然、子供達の数が増えるなんてこともありません。
ですから、国有地や国有の建築物は、実際には売れません。帳簿の上に資産という名前で記載されているだけの飾り物なのです。
では、アメリカ国債は売れるでしょうか。日本の安全保障の基軸は日米安保にあるのですから、アメリカ様の嫌がることをするわけにいきません。アメリカ国債を売れば、日米安保は廃棄されるかもしれませんし、運が悪ければ国交断絶もあり得ます。ですから、アメリカ国債も帳簿上に置いておくしかありません。
日本は、多くの国に資金を貸しています。その元本の取り立てが可能なのでしょうか。そんなことは出来ません。では、利息はどうでしょう。世界大戦が始まれば、利息でさえ入って来ません。
年金積立金は、減少トレンドに入っていて、いつまでもあるわけではありません。そもそも、年金積立金で借金の利息を支払えば、年金の支払いが出来なくなります。
財政に余裕のある地方自治体などありません。東京都の財政さえ逼迫します。どこの自治体でも資金不足なのです。国から貸付金の返済を迫られれば、地方自治体は国の交付金を頼らなければなりませんが、同じように資金不足になっている国から交付金を貰って返済するということができるとは思えません。国にとっても、交付金と貸付金のバーターをしても、状況は変わりません。これも、帳簿上の数字にすぎません。
資産という言葉を、現金と勘違いする方がいますが、換金できなければ、それは帳簿上の数字に過ぎないのです。なぜ換金が必要なのか。利息の支払いには、現金が必要だからです。なぜ、こんな勘違いが起きるのか。それは、資金繰りの話を、貸借対照表で説明するという理屈に合わないことをやっているからです。
不思議なことに、この資産神話は広い支持を得ています。それが、なぜなのか、私にはわかりません。信じられない、という感想しかありません。
そもそも、8,000兆円の借金に対して、600兆円の資産を持っていたとして、それが何か役に立つのでしょうか。焼け石に水ですし、換金できなければ、水にもなりません。

次に、「日本国債は、90%以上が国内で消化されていて、日本円で発行されているのだから、破綻などしない」という国内消化神話があります。
そもそも、この8,000兆円もの借金を実現する資金は、どこにあるのでしょう。借金は、それを貸してくれる相手が存在しなければ成立しません。今までは、国民の金融資産を金融機関が国債に投資していました。良し悪しは別にして、資金はありました。それでも、国民金融資産は1,500兆円しかありません。時間の問題で、無い袖は振れない状況になります。それでも、借金をしなければなりませんので、海外の投資家に日本国債を買ってもらわなければなりません。ドル建ての国債も要求されます。ただ、デフォルトするかもしれない危険な日本国債を買ってくれる、そんな投資家がいるのかどうかはわかりませんが、少なくとも、国内の資金供給能力は限界を迎えます。とても、8,000兆円もの資金は国内にありません。
今ある「国内消化神話」は、続きません。それがわかっているから、金融緩和政策という名を利用して、日銀が国債の購入をしたのです。日銀が500兆円の国債を塩漬けにしてしまえば、その分だけ、先送りができるのです。

では、「日本の長期金利は0%だから、いくら借金をしても、心配いらない」というゼロパーセント神話はどうでしょう。
本来、長期金利は金融市場が決めます。ですから、中央銀行に長期金利の制御は出来ないと言われていますが、日銀は力技でそれを実現しようとしています。今は、コントロールされていますが、これがこの先も出来るのでしょうか。無理だと思います。それには、巨額の資金が必要になるからです。
現在の長期金利の数字は、瞬間風速みたいなもので、未来永劫続く数字ではありません。
国が借金経営を続ける場合、国内資金の枯渇という条件を加味すれば、海外投資家の資金が必要になりますが、そうなれば、簡単に、長期金利は上昇します。なぜなら、高い金利を提示しなければ、誰も買ってくれないからです。アメリカ国債を買えば3%の利息が手に入り、日本国債を買えば0.1%の利息しか手に入らないとすると、あなたなら、どちらに投資しますか。
今は、今だけは、心配ない、という気休めにすぎません。

「日本は、世界一の債権国だから、財政が破綻することなどない」という債権国神話は、大丈夫でしょうか。
国だけではなく、民間も大きな債権を持っているのは事実です。でも、戦争になっても債権は保全されるのでしょうか。仮に、中国が敵国になったとしたら、中国へ投資した資金は、全て、没収されると考えるほうが自然なのではないでしょうか。
たとえ、戦争にならなかったとしても、日本円が暴落する危険はかなり高いと思います。貿易収支は大幅な赤字となり、国際収支も赤字転落すると思われます。そうなれば、ここにも資金不足の現象が生まれます。
何よりも、8,000兆円もの借金に耐えられるほどの債権は存在しません。
この神話も、「今は」有効だという期間限定の神話なのです。

「日銀が、財政をファイナンスすれば、何の問題もない」という日銀神話は、どうなのでしょう。
政府も日銀も、現在の国債購入は財政ファイナンスではないと言っています。と言うことは、財政ファイナンスが禁じ手であることを承知しているということです。実際にやっていることは財政ファイナンスなのですから、何の問題もないのであれば、堂々と財政ファイナンスという政策だと言い切ればいいのですが、それが出来ません。なぜ、できないのでしょう。それは、国際的な通貨の信認を毀損するからです。グローバル時代に、通貨の信認を無くすということは、自殺行為に等しいことです。貿易でも金融でも、致命傷を受ける行為です。
また、日本は、アメリカによる為替操作国というレッテルを貼られたままです。アメリカは、日本が金融政策という名目で為替操作をしていると思っているのです。結果だけで判定すれば、アメリカの主張は間違っていません。自分の国が為替操作をする時は平然とやるのに、他国には注文を付ける。アメリカの悪い癖です。でも、これが、現実です。金融正常化へ向かわなければ、バッシングを受けることになるかもしれません。国債購入額をゼロには出来ないとしても、現在の購入枠は1/100にしなければなりません。
今の状態を、この先も続けることは不可能なのです。


どの神話も、前提条件が「変わらなければ」、という「れば、たら」の上に成り立っています。中でも「今の状態のままであれば」という「れば」は「時計が止まれば」という「れば」です。それは、時間という物理的な条件を否定することになり、それだけで、前提条件が成り立たないことを証明することになるのですが、そこは、都合よく、無視することになります。「時よ止まれ」という呪文が現実世界でも有効な呪文になるとは、思えません。
神話はフィクションであり、時間を超越しても許されるものですが、現実社会に生きる私達が時間から逃れることは不可能です。なぜ、こんな、当たり前の現実が認識されないのか、不思議です。ほんとに、とても、不思議です。
神話は、どんな神話でも、人の手によって作られたものです。人為的に作られるものですから、為政者に利用されることもしばしばありました。いや、大半の神話がそうだったのだと思います。中には、民の信仰によって作られた神話もありましたが、それは、その地方限定の神話でした。
過去の神話をみてみましょう。
日本には、神国日本という神話がありました。日本は神の国なのだから、戦争に負けるはずがないという神話です。実に多くの方が、本気で信じていました。信じていない人でも、神話に異を唱えることはしませんでした。異を唱えたりすれば、自分の身が危険になるのですから仕方がありません。今から振り返って見れば、なぜ、「神の国」なんてトリックを信じてしまったのか、不思議ですが、当時は信じられていたのです。その結果は、当たり前のことですが、第二次大戦の敗北という現実によって神話のほうが否定されたのです。現実と神話が戦えば、現実が百戦百勝するのです。
かつて、原子力安全神話というものもありました。真実と嘘を巧みに織り込んで作られた、利益誘導のための神話でしたが、あの原発事故で神話は吹き飛んでしまいました。当時は、民主党政権でしたが、政権は「メルトダウンは起きていない」と言い続けました。でも、実際には、メルトダウンだったことは今や常識です。原発事故の時、私も数多くの予測をしましたが、政府の発表とは違っていました。しかし、今では、私の予測のほうが現実に近いものだったと思っています。あの事故が起きる前に、原子力安全神話に警告を出していた人がいたそうです。しかし、皆で、その警告を無視しました。
敗戦も原発事故も、後になって考えてみると「なぜ、こんな神話を信じてしまったのだろう」と思うのですが、惨事が起きるまでは気付きません。実に不思議です。
でも、敗戦も予測できましたし、原発事故も予測できたのです。そして、敗戦も原発事故も、実際に警告を出していた人はいたのです。多分、神話が危険であることに気付いていた人は、それなりに、いたと思うのですが、流れに逆らえば碌なことにはならないと思って黙っていた人も多かったと思います。曖昧文化も神話も、権力者の支配のためのツールですが、庶民はそのことに気付くことなく、責任だけを取らされている状況は公平だとは思えません。
それなのに。
今、また、私達は財政安全神話を信じ、将来起きるであろう現実を無視するやり方を採用しています。
なぜ、同じ轍を踏もうとするのでしょう。
財政破綻だって、予測できるのです。
実に、不思議です。
戦争に負けたいと思う人はいませんから、神国日本神話が成り立ち、原子力発電は危険を伴うけれど、危険だと思いたくないから、原子力安全神話が成立し、財政破綻など起きて欲しくないと思うから、財政安全神話は成り立つのです。被害を避けたいという人間の助平根性に乗じて、人の弱みにつけこんで、繁殖するのが神話なのかもしれません。
ま、神話を信じる気持ちもわからなくもありません。波風は立ちませんし、大勢に逆らって非難されることもありませんし、ともかく、楽です。現実直視よりも現実逃避のほうがはるかに楽です。人間ですから、楽なほうに流れるのは仕方ありません。
でも、神話に支配されていれば、惨事は起きるのです。
楽な方法を選択するのか、甘んじて惨事を耐え忍ぶのか。望ましい二択ではありませんが、これが現実というものなのでしょう。
しかし、現実世界に生きる私達には、時空を超えることが出来ないことも事実です。
神話は、フィクションの中でこそ輝けるのであり、現実世界に持ち込むべきものではないと思います。
それを証明する手段は、その手段として適切かどうかは、いろいろな意見があると思いますが、歴史から学ぶことくらいしかないのではないでしょうか。


2018-05-02



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戦火の臭い [評論]



朝鮮半島の南北首脳会談が行われました。
金正恩が、テレビ中継画面の中で動き、発言する様子を世界が見ました。
大変、貴重な映像だと思います。
アメリカの諜報機関の職員は、あの画面を見飽きるほど見ていたと思います。
でも、多くの人にとって、彼が極悪人には見えなかったのではないかと思います。
場慣れをしていない若者の顔はありましたが、決して、韓国大統領に負けているようには見えませんでした。
いや、逆に、文在寅の必死のアプローチが目立ちました。
私には、お願いをしているのは文在寅であり、金正恩は、どっしりと構えているように見えました。中継映像を見ている限り、金正恩が、藁にも縋る立場の人間のように見えなかったのは、なぜなのでしょう。実際に窮地に陥っているのは金正恩であり、窮地の大きさだけで比較すれば、金正恩のほうが切羽詰まっているはずです。しかし、あの会談には、そんな空気は感じられませんでした。あったのは、朝鮮半島の団結だったと思います。当たり前のことですが、団結は一人ではできません。複数の者の利害が一致した時に生まれます。これまでは、アメリカと韓国が団結して、北朝鮮を説得するという図式でしたが、今は、北朝鮮と韓国が団結して、アメリカを説得しようとしているように見えます。
金正恩には、自信があったのかもしれません。
文在寅は、アメリカの軍事行動による、韓国側の被害を大変恐れている。いや、自分が恐れているよりも、文在寅のほうが恐れている。自分は、中国との関係も修復した。ここは、韓国の恐怖心と中国の利益を利用する時だとすれば、自分は決して崖っぷちにいるわけではないだろう、という自信です。
あの若さで、よくやったと思います。
共同宣言が調印され、共同発表が行われたことに、文在寅は胸をなでおろしているのではないでしょうか。しかし、その内容は、これまでの北朝鮮の主張から進展していませんでした。少なくとも、金正恩の共同発表では、「核」や「ミサイル」という言葉は含まれていません。朝鮮民族による、自主的な、平和構築が主題でした。共同宣言に書き込まれた核放棄に関しても、核放棄はあくまでも目標であり、核放棄が平和構築の前提ではありませんでした。それでもいいのです。文在寅の願いは、朝鮮半島での武力衝突を回避することですから、核兵器の廃棄は喫緊の課題ではありません。南北の交流や、南北間の交渉を続け、アメリカの軍事介入を阻止することが目的ですから、「延々と交渉を続けましょう」と提案したのではないでしょうか。交渉が続いている間は、アメリカも無茶なことはできないと思ったのです。文在寅の判断も、金正恩の判断も、間違っているとは思いません。アメリカの国益のために、なぜ、朝鮮民族が犠牲にならねばならないのだ、という意識は共有できたと思います。その点では、北朝鮮にとっても、韓国にとっても、今回の会談は成功だったと言えます。
では、アメリカがゴリ押しをすることはないのでしょうか。
これは、わかりません。
何と言っても、相手は、アメリカであり、あのトランプです。
ただ、希望がないわけではありません。
それは、トランプが、イランの核合意にクレームをつけたからです。フランスのマクロン大統領がアメリカを訪問し、トランプと会談しましたが、トランプを説得できなかっただけではなく、トランプの主張を受け入れた提案をしました。ドイツのメルケル首相もアメリカを訪問し、会談をするようですが、トランプを説得できるのかどうか疑問です。イランは、アメリカの要求は受け入れられないと言っています。イランでは、再び、経済制裁が始まると予想されていて、ドルの両替商の店には長蛇の列ができ、イラン政府は両替商を閉鎖しました。アメリカとイランが衝突する可能性が出てきたのです。しかし、今のアメリカには、二正面作戦を遂行する力はありません。韓国と北朝鮮が、このまま、時間稼ぎをしていれば、アメリカの矛先はイランに向かう可能性もあります。中東は、今、グチャグチャです。あらゆる場所で戦火の火種が燃えています。アメリカとイランが戦争状態になれば、中東全域が大混乱に陥ります。また、その混乱は短期間では収束しません。そうなれば、アメリカは東アジアでの軍事行動なんてできません。
中東だけではなく、中国やロシアとの戦いもあり、中間選挙で共和党が負ければ、大統領弾劾の可能性もあります。北朝鮮と韓国にとって、今は、時間稼ぎが必要な時です。

平時では、世界を動かす役目は外交が担います。
しかし、少しずつ、諜報機関の役割が増えています。今回の南北会談を設定したのも、米朝会談をお膳立てしたのも、韓国と北朝鮮の諜報機関です。アメリカでも、CIA長官が国務長官に就任しました。中国でもロシアでもイスラエルでも、諜報機関は活発に動き始めていると思います。これは、戦時体制に移行していることを証明しているのではないでしょうか。日本にも諜報機関はありますが、世界レベルで活動できる組織ではありません。北朝鮮問題で、日本は蚊帳の外に置かれているという批判がありますが、それは、諜報機関の質の差から生じる、必然的な結果なのだと思います。安全保障の議論をせず、「戦争」という単語を辞書から消し去った国では、諜報機関が仕事をすることは出来ません。



アメリカと中国の貿易戦争が始まったと言う方がいます。
いや、貿易戦争にはならない、と言う人も大勢います。
多分、どちらも正しくて、どちらも間違っているのだろうと思います。
それは、前提となる時間軸の長さを語らないからだと思います。
短期的にみれば、両者が、何らかの妥協をして、とりあえず、収まる。
中期的にみれば、今回の対立は、第一期貿易戦争であり、第二期、第三期と続くであろうから、貿易戦争は始まっている、という見方も出来ます。
では、長期的には、どうなるのでしょう。
私の独断と偏見によれば、これは、貿易戦争ではなく、第三次世界大戦の序章だと思っています。私だけではなく、世界各地に、そういう意見の方がおられます。スキャンダルで盛り上がっている日本に住んでいると、感じないのかもしれませんが、世界大戦という空気は少しずつ世界を覆い始めています。
今、始まろうとしている争いは、最終的に、アメリカと中国のどちらが世界覇権を握るのか、という闘いです。
それは、戦争でしか決着がつきません。
私達は、有史以来、そういう決着のつけ方しか体験していません。何か、他にもっと良い方法があれば、と願う気持ちは誰もが持っていると思いますが、そういう願いが叶ったことはありません。特に、人間の「欲」が介在した時には、殺し合いをして、物理的な優劣を競うしかありません。私達は、やはり、動物なんです。仮に、戦争が回避されたとしても、それは一時的なものになると思います。
なぜ、戦争でしか決着がつけられないのでしょう。
そうです。人間は欲の塊だからです。
人によって、欲の大きさは違いますが、欲のない人間はいません。
大多数の人達は戦争なんて望んでいませんが、それでも、人間から欲が無くならない限り、戦争は起きるのです。
「戦争なんて、やめてくれ」と言う人でも、「じゃあ、お前の財産も、人権も、いや、命もいらないと言うのか」と問われれば、「それは、困る」と答えるでしょう。自分が被害者になることは認められないが、戦争も認められないというのが、多くの方の本音です。これでは、答えのない、成り立たない数式を前に、立ちすくむしかありません。
私達は「戦争」を曖昧という空間に置き去りにしていますので気付きませんが、現実は曖昧ではありません。「自分だけは、そんな理不尽に出会わない」という思い込みが、現実世界で実現するとは限らないのです。
実際に、第二次世界大戦の時、全ての国民が戦争に巻き込まれました。
それが、現実なのです。
大きな利益を享受している権力者は、失うものが大きいために、どんな犠牲を払ってでも、自分を守ろうとします。一番大きな損失を受ける権力者が、開戦の権利を持っているのですから、戦争を防ぐことは不可能なのです。
持っていた利益を失うだけではなく、新たな損失が生まれるのであれば、それを防ぎたいと思うのは自然です。たとえ少ない資産しかなくても、その全財産を失い、人権を失い、その上、ウイグルにあるような絶望収容所に収容されるのであれば、抵抗したくなります。私に限って、自分だけは、そんな酷い目に遭うことはないだろうと思っていても、実際に、絶望収容所はこの世に存在しているのです。
身も蓋もない話ですが、これが現実です。
戦争で勝つしか自分を守る方法はありません。
ひどい話ですが、これが、世界常識です。
日本人以外の人達は、そのことを知っています。特に、白人は、そのことを肝に銘じているようにみえます。それは、自分達が勝者になってきた歴史を知っているからです。白人達は、自分達が征服される側の民族になりたいとは思っていません。
人類史上、軍拡競争が無くなった時代はありません。多くの国が大金を投じて軍拡競争をするのは、戦争に負けたくないからです。地球上では、ごく自然な行動です。世界史でも日本史でも、歴史とは戦争の歴史でもあり、戦争こそが、人間の歴史でもあるのです。
白人の闘争心の強さは年季が入っています。白人は、相手に勝つことでしか自分を守れないことを知っています。ですから、どんな手段を使ってでも勝ちに行きます。過去に、武力で他国を屈服させ、植民地にして、利益を貪ったのも白人ですし、核兵器を初めて使ったのも白人です。彼等のDNAには「征服」という二文字が組み込まれていると思うしかありません。
地球はお花畑なんかではありません。弱肉強食が当たり前の世界なのです。
19世紀、20世紀と白人による世界制覇が続いてきました。21世紀になって、中国が人口という強みを生かして、台頭してきました。トランプがアメリカファーストを得意げに宣伝していますが、自国ファーストであれば、中国のほうが大先輩です。いや、中国の自国ファーストは政策レベルの問題ではありません。中国そのものであり、中国人という民族が自分ファーストだということです。彼等は、自分の利益になるのであれば、何をやってもいいと思っています。政府も人民も、同じ理念で行動します。中国が、一党独裁という強権をもって統治しなければ国として成り立たないのは、中国人という人民を統治するためには、強権政治が必要なのです。中国は、民主主義では統治できません。そのことを、権力者は、自分も中国人なのですから、承知しています。文化大革命で、民主化を制圧したのは、当然のことです。香港での雨傘革命が弾圧され、息の根を止められようとしているのも、必然的な措置です。香港を、蟻の一穴にするわけにはいきません。中国は人口が多くて、国土が広いから、民主主義では統治できないと言われますが、それは違います。中国人民を野放しにすれば、全員が自分ファーストを優先してしまうのですから、強力な独裁政権でなければ統治できないのです。その中国人民の頂点に立っているのが習近平です。彼にとって、中国ファーストは当たり前のことなのです。特に、最近、中国は自分達のやり方に自信を持ち始めています。一帯一路を妨げる者はいませんし、南シナ海でのゴリ押しも出来ました。将来的には、中華思想によるネットでの世界標準を手に入れるという目標も掲げました。中国のネット社会の規制は有名ですが、それを世界に広めたいと思っているようです。悪名高きネット規制を世界標準にすることを、アメリカも、アメリカ国民も、容認するのでしょうか。私には、想像できません。従って、中国の理想や目標を実現するためには、どこかで、アメリカを力で屈服させねばなりません。AIIBの創設時に、世界の多くの国が参加したことが中国の自信となったのでしょうが、中国だけに責任があるのではなく、世界の国々が「欲」を優先させたことにも責任はあります。
アメリカは、自分達の価値観だけで中国に対応してきました。中国を自由貿易の仲間に入れてやれば、彼等も、仲間として相応しい行動をしてくれるはずだという思い込みによるものです。西側諸国も、そのアメリカの考え方に賛同しました。もちろん、13億人という消費者の存在が、西側諸国の助平根性を刺激したという部分のほうが大きかったと思いますが、そこには、ソ連の崩壊による西側諸国の優越感や驕りもあったでしょう。結果を変えれば、原因も変えることが出来るだろうという甘い考えもあったでしょう。しかし、アメリカの目論見とは違った形で、中国は力を付けてしまいました。
「もしかして、これ、ヤバいかも」と気が付いたのです。
もっとも、それは、アメリカが世界覇者であったから気付いた、いや、アメリカファーストのトランプだから気付いたのかもしれません。
欧州諸国の中でも、中国に一番深く食い込んでいるドイツは、少しだけ気付き始めているのかもしれませんが、他の西側諸国に危機感は見られません。もう少し、中国の影響力が深刻な影響を与えるまで、時間がかかるのかもしれません。特に、欧州の国々にとっては、ロシアや中近東の問題のほうが身近にありますので、中国は、一つの市場としての価値しかないのかもしれません。中国の目標が世界制覇であることを、知ってはいるでしょうが、まだ実感はしていないと思います。
アメリカは二番手に甘んじるつもりはありません。彼等は、それを誇りだと思っているでしょう。いつでも、ナンバーワンでいたい国です。その中には、感情的な理由もあります。その感情が表面化した現象が、人種差別です。アメリカ国内での白人至上主義はよく知られていますが、国際関係ではその感情を封印できているのでしょうか。いいえ、彼等は、有色人種である中国人の風下に立つつもりはありません。これは、感情ですから、理屈では説明がつきません。しかし、人間の判断は、いつでも、感情に大きく左右されるのです。
欧州列強の大航海時代から始まった白人による地球支配は、20世紀まで続きました。その頂点に立ったのがアメリカです。白人支配のイギリスがアメリカに挑戦状を突きつけたのであれば、妥協の余地はあったかもしれませんが、相手が中国では、その要求を飲むことはできません。表には出しませんが、黒人は「ブラック」であり、日本人も中国人も、彼等にとっては「イエローモンキー」に過ぎないのです。「イエローモンキー」などという発想は100年前のものだと思う方がいるかもしれませんが、だったら、なぜ、今でも、アメリカ国内で人種による紛争が起きているのでしょう。白人は、白人至上主義者は、白人以外の人間を、同列の人間とは認めていません。白人以外は、人間以下の動物なのです。ヒットラーがユダヤ人を排斥したのも、白人至上主義の一つの表現だったと思います。アメリカが日本に原子爆弾を投下したのも、人間以下の存在である猿を殺すためであるという理由で容認出来たのです。
中国は、これまでの地球規模の白人支配構造に刃を突きつけたことになります。
このままでは、済みません。
アメリカが、世界覇権競争に名乗りを挙げた中国を意識したのは、つい最近です。
中国が、世界覇権という言葉を出すようになったのも、つい最近です。
時代は、新しいフェーズに入ったと考えるべきです。
決着をつける手段は戦争しかありません。
もちろん、戦争を奨励しているのではありませんし、明日から戦争が始まるという意味ではありません。いろいろ、紆余曲折を経て、最終的には、残念なことに、戦争で決着をつける時が来るという意味です。

では、この新時代は、日本にどんな影響を与えるのでしょう。
覇権戦争では、どちらかが覇権を手にするまで終わりません。ですから、その手段として行われる貿易戦争に終わりはありません。中国が譲歩したり、アメリカが譲歩したり、お互いに譲歩しなかったり、「ああでもない、こうでもない」と言いながら続きます。貿易戦争を続ければ続けるほど、アメリカも中国も痛手を受けます。
中国との貿易戦争で得られる利益が少なければ、アメリカは、日本だけではなく、多くの国を標的にします。アメリカは、他国が漁夫の利を得ているとして、当たり散らすでしょう。アメリカファーストなのですから、何としても利益を得ようとします。でも、トランプが選挙公約に忠実であろうとすればするほど、アメリカも、世界も、痛手を受けます。
争いが常態化すれば、世界経済が縮小することは避けられません。
世界経済が縮小すれば、日本経済も縮小します。
これまでも、リーマンショックのように、対岸の火事だと言われていたことでも、日本経済は大きな影響を受けてきました。日本経済は、アメリカ経済に、中国経済に、アメリカや中国の経済に依存している多くの国の経済に、依存しています。今度は、世界規模での経済戦争なのですから、その影響は大きいものになると思わねばなりません。仮に、アメリカ経済が5%の痛手を受け、中国経済が5%の、その他の国が5%の痛手を受けたとすると、日本経済の痛手は、15%になる可能性があります。さらに、その時の為替相場次第では、それ以上の痛手になることもあります。
国の最重要課題は経済です。
トランプは、アメリカで中間層が減り、中国で中間層が増えている、この現状を変えたいと思っています。それが、トランプの選挙公約です。もちろん、それは間違った判断ではありませんが、簡単なことではありません。今は、一発逆転を狙う場面ではなく、地道な努力が必要な時です。しかし、トランプが狙っているのは、その一発逆転劇です。トランプの部屋を見ても、彼が派手好みであることは明白ですから、この傾向は続くと思います。政権のメンバー構成も、その方向へ向かっているようにみえます。彼等は、自国が繁栄するためには、他国の繁栄を犠牲にする必要があるとさえ思っているようです。矛先が中国に向けられていると安心していてはいけません。トランプは、たとえ、世界を敵に回してでも、勝ちたいと思っているようです。自国の繁栄のためであれば、日本に、安倍に、配慮するなんてことはあり得ません。
少し先の話になりますが、アメリカが仕掛けた貿易戦争で日本経済が縮小しているにもかかわらず、アメリカは、経済的にも軍事的にも多くの要求を日本に突き付けてくるでしょう。
多分、踏んだり蹴ったりの状態になります。
国内に目を向けても、財政再建目標は先送りされます。社会保障費の急激な増加は目の前に迫っています。国際問題だけではなく、国内でも国力衰退に向かう課題が山積しているのです。経済の縮小は、国民生活を直撃することになると思います。
武力衝突は、いつ起きても不思議ではない状態になり、実際に武力衝突が起これば、アメリカは戦費を出せと強要するでしょう。金がないのなら、自衛隊を出せと言ってくるでしょう。いや、金も自衛隊も出せと言ってくるのでしょう。もちろん、後方支援部隊という意味ではありません。前戦に立てという意味です。
日本は、対応できるのでしょうか。
無理です。
でも、無理だからと言って、それで済むという話ではありません。
国は、自衛隊員に、国民に、犠牲を強いることになります。
自衛隊員の生命を犠牲にし、国民生活を犠牲にしなければなりません。
もう、この国には余力がありませんので、向かう先は自己崩壊です。
米中貿易戦争だと言っていられるのは、今の内です。
最初に書いたように、これは、第三次世界大戦の序章です。
第三次世界大戦は、第二次世界大戦の数倍の被害を世界にもたらすだろうと言われています。日本は、その第三次世界大戦の最前線の場所にいるのです。とても、数倍の被害で済むとは思えません。その認識が国家運営者にあるようには見えませんし、国民は「俺には関係ねぇ」と思い込んでいます。仮に、10倍の被害だとすると、3,500万人が死にます。20倍だとすると7,000万人が死にます。でも、そんな空気は、どこにもありません。日本にあるのは、「スキャンダルで盛り上がろうぜ」というお祭りの空気だけです。
時々、平和という御旗を立てて、日本が世界をリードすべきだという意見を聞きます。
どこまで、いつまで、世間知らずの「夢見る少女」をやるのだろうと不思議に思います。日本にそんな力がないだけではなく、平和という御旗では平和は手に入りません。
日本の国家運営者にとって、日本の国民は「いい人達」ですが、世界から見れば、日本という国は、「いい国」です。「いい国」というのは、日本の国家運営者が国民をうまく料理しているように、どうにでも料理できる「いい国」という意味です。
世間が世知辛いのは、定番なのです。それは、世界も同じです。


2018-05-01



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出口戦略 [評論]



毎回、夢のない話ばかり書いています。申し訳ありません。このブログは地獄の話しか書きません。そのことを前提にして、読んでくださいますよう、お願いいたします。
残念ながら、このブログを読んで下さる皆さんは、石田のことを信用していないと思います。その判断は間違っていません。信用しないでください。
そもそも、評論を書く奴なんて、信用できません。しかも、フィクション好きな評論家なんて最悪です。ですから、遊び感覚で読んでいただけると助かります。
ただ、いつの日か、思い当たる現実にぶつかる日がやってくるかもしれません。いや、必ず、その日はやってきます。その時は「そう言えば、昔、聞いたことがある話だな」と思い出していただければ幸いです。

日銀の黒田総裁が再任されました。
黒田さんご本人は、どう思っているのでしょう。
5年間の職と報酬を得られたことを喜んでいるのでしょうか。
それとも、「厄介なことになった」と思っているのでしょうか。
私は、「お気の毒なことになりましたね」と同情したいと思います。
これは、私だけの感想ではなく、多くの方が、同情していると思います。
世界景気は、2019年に後退期に入ると言われています。
アメリカは、今年秋の中間選挙が景気のピークになると予測されていますし、日本も2020年のオリンピックの1年前がピークになると予測されています。中国もアメリカとの貿易戦争が始まれば、景気は後退すると予測されます。
しかし、黒田さんの任期は2023年まであるのです。
仮に、景気の後退がなくても、日銀に出来ることは、もう、ありません。
逆に、出口戦略を示せという風当たりは強くなります。ロイターの企業調査によると、7割の企業が、出口戦略が必要だと回答しています。それは、景気後退期に金融政策が打てるだけの体力を日銀に求めているからです。
でも、今更、2%のインフレターゲットを撤回することもできません。ベストシナリオとしては、2019年前半に2%の目標を達成し、出口へ向かうことが出来ればいいのですが、思惑通りになるのでしょうか。経済構造が変わったわけでもなく、成長戦略が実現し景気拡大局面に入った訳でもありませんので、景気後退が始まれば、またデフレに逆戻りです。金融政策は、もう、使い果たしていますので、指を咥えて見ているしかありません。日銀がレームダック状態になれば、地方の金融機関の倒産もあり得ます。企業倒産は、どんな時代でもあるものですが、金融機関の倒産が与える影響は他の企業の倒産とは違います。メガバンクのリストラも始まっていますし、不況業種の大規模リストラも始まっています。経済の構造改革が出来なかったことで、世界景気の悪化は、古くなった日本企業に引退を求めてきます。日本企業の神話は、どんどん崩れています。
これまでの5年間と違い、これからの5年間は不安材料のほうが大きいのです。
来年の秋には消費税増税があります。教育費無償化を選挙で公約しましたので、来年の増税延期は難しいと思います。自民党は、既に、来年夏の補正予算を言い始めています。増税後の消費の冷え込みを小さくするために、増税前に補正予算を組み、増税後にも補正予算を組むことを目指しているようです。仮に、消費税増税の前後で、10兆円~15兆円の補正予算を組むとすると、教育費無償化に要する1.7兆円の財源を捻出するために、その7倍の出費をすることになります。7倍の出費をしても、消費税は毎年入って来るのだから、7年経てば元が取れると考えているのかもしれませんが、その計算は7年間補正予算を組まないという前提でしか成り立ちません。今や、補正予算は、恒例のようになっているのですから、補正などではなく、一般予算と変わりません。消費増税による増収分を教育費無償化に充てざるを得ないということは、他に財源がないということなので、補正予算は全額が赤字国債による借金で賄うことになります。増税をして、借金をして、また、増税をして借金をする。いつになったらこの悪循環から解放されるのでしょう。これって、モラルハザードが起きているということなのではありませんか。「なに、足りなければ、国債を売ればいいじゃないか」というモラルハザードです。「それでも、足りなければ、増税をすればいい。なに、社会保障費という立派な言い訳があるじゃないか」という理屈で、消費税は15%へと動き始めます。
借金を増やすことは簡単ですが、減らすことは容易なことではありません。2019年以降、世界景気が減速するのであれば、日本のGDPも減少します。GDPが減少するということは税収が減少するということです。しかし、社会保障費は、まだまだ、伸び続けます。
増税するから借金が増える。
景気が悪いから借金が増える。
財政出動の言い訳を作っては借金をする。
とりあえず、何らかの理屈を作って借金をする。
政府は、借金をすることが仕事だと考えているのかもしれません。これこそ、モラルハザードなのではありませんか。
最後は、借金の利払いのために借金をするという借金地獄へ向かいます。
例えば、2,000兆円の借金の利率が3%だとすると、利息は60兆円になります。60兆円という数字は税収を全額利息支払いに充当したとしても、払いきれる金額ではありません。
最近の自民党では、統合政府という言い訳が流行しています。政府と日銀が一体になれば、いや、日銀は政府機関であり、元々一体なのだから、借金は借金ではなくなる。「財政ファイナンスのどこが悪いのだ」という言い訳です。統合政府という考え方が成り立つのであれば、財政破綻をする国はありません。でも、過去には、財政破綻をした国が数多く存在しています。これからも、財政破綻する国は出てくるでしょう。ベネズエラなどは、財政破綻寸前にあります。ベネズエラにも中央銀行はあります。統合政府にして、借金をしまくれば、国民も救われますし、国外の債権国も投資家も助かります。どうして、そうしないのでしょう。世の中に「うまい話」なんてものは存在していません。「うまい話」は、最後には「あれは、詐欺だった」という結果になります。
そのカラクリは、通貨にあるのではないでしょうか。
お金には二種類あります。実質通貨と架空通貨の二つです。これは、ビットコインの話ではありません。現物通貨とデジタル通貨という二つでもありません。通貨とは、富の流通のために生まれた尺度であり、富の裏付けのある実質通貨と、富の裏打ちのない架空通貨の二つが存在していると考えられます。
国家を運営する経費は、国民や企業から徴収した税金で賄われます。国民や企業が税金を払えるのは、国民や企業に収入があるからです。つまり、国民や企業が汗水たらして富を作り出し、その一部を国家運営に充てているのですから、その資金には富の裏付けがあるのです。これが、実質通貨です。
しかし、日銀ファイナンスには、富の裏付けがありません。日銀が輪転機を回して印刷しただけの紙切れには富の裏付けがないのです。日銀が投資をして、100兆円の利益を出しているのであれば、それは立派な富ですから、政府に融通しても問題はありません。
日銀が持っているのは通貨発行権という権利だけです。富に応じた通貨を発行するのであれば、問題はありませんが、富の裏付けのない架空通貨を発行すれば、貨幣価値を落とすだけです。現在の日銀は、GDPに匹敵するような、富の裏付けのない通貨を金融政策という名目で発行しています。これは、架空通貨と呼ぶべきもので、実質通貨とは全く別のものです。景気が良くなれば、架空通貨は減少させていく性質のものです。架空通貨は、一時的な経過措置として認められているに過ぎません。
もしも、実質通貨と架空通貨を同じ通貨として扱えば、貨幣価値を下げ、インフレになるはずです。でも、インフレにはなっていません。それは、国債を金融機関から買い取って、市中に放出したはずの通貨が、そっくり日銀の当座預金口座にプールされているからです。私は、日銀当座預金口座はマグマだと思っています。その場所にとどまっていれば、マグマのままですが、一旦、爆発すると急激なインフレが発生します。今は、ハイパーインフレのエネルギーが日銀当座預金口座に貯まり続けている状態だと思います。富の裏付けのない架空通貨であっても、実質通貨と同じ外見をしています。私達が持っている1万円札と日銀当座預金口座にある架空通貨の1万円札は同じ顔をしているのです。これを長期間放置したり、民間に流通させてしまったら、経済の大混乱が生まれます。それを見ているのが、世界の金融市場です。この状態を正常と見るか異常と見るか、海外の判断がトリガーになるのでないかと思っています。そのきっかけは、戦争なのかもしれません。世界恐慌かもしれません。架空通貨が流通している国の通貨を信用してくれる人はいるのでしょうか。最初にやって来るのは、日本円の暴落になるかもしれません。1ドル100円が1,000円になるような暴落でも大変ですが、ドルと交換が出来ない通貨になるような暴落だとすると、致命傷になります。
では、日本円の暴落は私達の生活にどんな影響があるのでしょう。
1ドル1,000円になるということは、光熱費、ガソリン代、交通費、物流費が10倍になるということです。身近な例であれば、1リッター130円のガソリンを40リッター買ったとします。今なら5,200円ですが、それが52,000円になります。レジャーなどで車が使えなくなるだけではなく、業務用の車も使えません。毎月10,000円だった電気代が、100,000円になります。電気のない生活をしなければなりません。もちろん、冷暖房器具は使えません。インフラの価格が上がるということは、当然、あらゆる商品が値上げされます。
貧乏人は自然淘汰されますが、生き残る人もいるでしょう。
でも、ドルと円の交換が出来なくなると、輸入ができません。生活必需品が手に入りませんし、インフラも機能しません。何が起きるのか。ハイパーインフレになるしかありません。ハイパーインフレになれば、庶民は草や木の実に頼るしかありません。
私達は為替動向なんて意識せずに生活していますが、実は、国民生活に直結しているのです。
いつでも、犠牲になるのは国民です。

日銀の黒田総裁の話に戻します。
「出口戦略」という言葉が使われますが、具体的には、何をするのでしょう。
大量発行した架空通貨を金融政策発動前の状態に戻すための工程表を示すことです。
5年で500兆円の架空通貨を発行したのだから、5年で500兆円を処分するという工程にはなりません。多分、50年懸けて減らしていくことになります。でも、将来、何が起きるのかはわかりません。実際には、空の証文になる確率が高いと思いますが、姿勢だけは示さなければなりません。つまり、日本は危険と隣り合わせの架空通貨と共に生きて行かなくてはならないということです。
姿勢を示すと言っても、最初から実行しないというわけにもいきませんので、数年間は工程表に従い実行しなければなりません。
先ず、架空通貨の新たな発行を減らすことから始まります。
それは、国債購入枠の減少を意味します。日銀は、現在、80兆円の購入枠を設定していますが、それを、何年で、何兆円にするのかを示さねばなりません。日本の特殊事情がその工程表を決めることになるのでしょう。黒田さんは「財政ファイナンス」はしていないと言っていますが、誰もが、実質的な「財政ファイナンス」だと思っています。いや、日銀がやっている金融政策が財政ファイナンスかどうかの判定をするのは、日銀ではなく、世界の金融市場です。日銀も日本政府も、被告人席に座っているのです。被告人が「自分は無罪だ」と主張することは自由ですが、判定を出すのは被告人である日銀ではありません。ただし、日銀の事情も理解できます。財政を無視した工程表など作れません。50年の工程表だとすると、購入枠の削減を50年かけてやっていけばいいのかというと、そうではありません。購入済みの国債を減らしていくことのほうが、はるかに時間がかかるのです。購入枠をゼロにしなければ、毎年、日銀の国債残高は増えていくのですから、出来る限り短い期間で削減をする必要があります。仮に、毎年、10兆円減額していくとすると、実行できるのは3年か4年になります。購入枠を40兆円から50兆円残しておかなければ、財政のファイナンスが出来なくなるからです。3年程度で、世間が忘れてくれることを願うしかありません。
次に、日銀内部に積みあがった国債を処分しなければなりません。償還日を迎える国債もあるでしょうから、ほんの少しだけでも減るように思う方もいるかもしれませんが、国債の購入をゼロにするわけではありませんので、増え続けます。市中から買い上げた国債ですから、市中に戻すのが筋ですが、そんなことはできません。日銀は償還日まで国債を持ち続けなければなりません。先程書きましたように、日銀は財政をファイナンスするために、国債の購入を永久に続けなければなりませんので、日銀が保有する国債は増えることはあっても、減ることはありません。500兆円の架空通貨と500兆円の国債は封印されることになります。喉元過ぎれば熱さは感じなくなりますので、いつもの「なし崩し」方式が使えます。ただ、貨幣価値を決めるのは私達ではなく、世界の金融市場です。
50年計画の出口戦略を、3年間だけ実行して、それ以上のことが出来ないとすると、先程書いた日本円の暴落という危険は、ずっと続くということです。
その状態が5年続けば、世界は日本の金融政策は財政ファイナンスだと判断する可能性が高くなります。架空通貨を発行するような国の通貨が信用されるのかどうか。それは、為替市場が決めます。日本政府の力は及びません。グローバル化ということは、国内事情だけで物事が決まるという時代ではないということです。
姿勢を示すだけだとしても、3年間しか実行しないとしても、金融緩和政策を終了するということは、長期金利をゼロパーセントに張り付けておくことが出来なくなるということです。80兆円の枠があったとしても金利制御は難しいのですから、購入枠を減らしてしまえば、日銀による金利制御は不可能になります。長期金利という名の怪物が動き始めることになります。長期金利が上昇すれば、当然、利息の支払い金額が増加します。その財源を確保する手段は、やはり、借金です。悪循環はそう簡単には断ち切れません。

さて、もう少し視野を広げてみます。
日本財政の借金は、将来的に減少するのでしょうか。
参考までに、財務省の試算によると、50年後の国債残高は8,000兆円です。
ただ、いつかは減少します。右肩上がりのチャートが永遠に続くことはない、という鉄則があるからです。ただし、それは、この国が破綻する時です。
私達の国は、借金をしなければ国家運営ができないのですから、それが否定しようのない事実ですから、借金は増えると考えるほうが自然です。今までも、そうやって、借金は増えてきたのです。減少する条件はどこにもありません。
補正予算が補正ではなくなったと書きましたが、この傾向は今後も継続され、補正予算の金額も増加します。それは、社会保障費が増え続けるために、一般予算で賄っていた国家運営費用が押し出されることになるからです。一般予算と補正予算を合計した金額が国家予算になるのです。話がややこしくなりますので、特別会計予算は考えないことにしますが、国家予算が増え続けるということは、税収が増加しない限り、借金は増える計算になります。景気が後退し、人口が減少するということは、GDPが減少するということであり、GDPが減少するということは税収が減少するということです。増税をするか、借金を増やすかの二択しかありません。多分、増税もし、借金も増やすことになるのでしょう。
大変残念ですが、日本の出口はどこにもありません。
いや、一つだけ、出口があります。それが、日本崩壊です。
財政破綻で崩壊するのか、インフレで崩壊するのか、大量の餓死者が出て崩壊するのか、戦争に巻き込まれて崩壊するのかはわかりません。はっきりしていることは、日本に残されている道は、崩壊しかないということです。
国債にまつわる神話は、いろいろとあります。
日本は、債権国だから、借金ごときで破綻するわけがない。
日本国債は、90%以上が国内で消化されていて、日本円で発行されているのだから、破綻などしない。
日本では、国が大きな資産を持っていて、借金なんて、いつでも返済できる。
日本の長期金利はゼロパーセントだから、借金をしても心配いらない。
これらの神話が100%嘘だとは言いません。それぞれの神話には事実も含まれています。でも、その神話が成立するためには条件が満たされる必要があります。条件が満たされない場合は、単なる気休めにしかならない、神話なのです。長くなるので、今日は書きませんが、破綻した後から振り返って見れば、誰にでもわかることばかりです。
私達国民は、今日の延長線上に明日があると信じていますし、「何とかなる」と高をくくっていますし、「俺には関係ねぇ」と思っています。でも、これらの信仰や願いが、叶うとは限らないのです。
日銀には、財政ファイナンスをしなければならないという絶対条件があるのですから、出口戦略を立案することは出来ても、実行することは出来ません。
黒田さんは、日本を破綻へと導いた日銀総裁という歴史を残すことになります。


ここで、ウォールストリートジャーナル紙の記事を抜粋します。

 危機がいつどこで起きるのか、何がきっかけになるのかはほとんど分からない。危機がサプライズなのは、ある前提があまりに分かりやすいために全員がそれに基づいて動き、破滅の種をまくからだ。82年の危機についてはメキシコのような国はデフォルトしないとの前提、97年の危機ではアジアの固定為替相場は崩壊しないとの前提、07年の危機前は全米で住宅価格が下落することはないとの前提、11年についてはユーロ加盟国のデフォルトはないとの前提だ。シカゴで金融調査会社を経営するジェームズ・ビアンコ氏は、現在ではそれが「インフレ高進も成長加速も起きない」との前提だと考えている。どちらかが現実になれば、家計で可処分所得と比べた証券・不動産の価値を押し上げてきた低金利が維持不可能になる。
 ロゴフ氏は「実質ただで借金ができ、借り換えを続けられるときには、危機に陥る確率がずっと低い」と同意している。ロゴフ氏の想定に反して実質金利が1.5~2ポイント上がれば、歴史的には小幅な上昇だが、イタリアやポルトガルの債務は維持不可能になるかもしれない。

日本にも「日本財政は破綻しない」という前提(神話)があります。
神話こそが危険の源なのではないでしょうか。


2018-04-05



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日常業務 [評論]



昨日の「日韓戦争」とは直接の関係はありませんが、根っ子は同じ場所にありますので、森友公文書改竄事件について、書いておきます。
日本政府が得意とする「なし崩し方式」とは、少し意味合いは違いますが、「国民不在」という根っ子の部分では、森友事件から派生した文書改竄事件の「辻褄合わせ手法」はよく似ています。それは、どちらも、曖昧文化から派生したものだからです。
以前に、森友事件は詐欺事件だと書きました。加害者は学園理事長であり、被害者は国でした。国有財産は国民の財産だと言う方がいますが、国民は、そんな認識は持っていませんので、ここにも曖昧が存在しています。
右翼思想を利用した金儲けが学園理事長の目的だったと思っています。詐欺師ですから、利用できるものは、何でも利用する。そして、理事長に利用されたのが、安倍さんであり、安倍夫人であり、財務省だと思います。
理事長と総理をつなぐ糸は右翼思想ですが、この件にどこまで「日本会議」が関係していたのかはわかりません。でも、関係していたと考えるほうが自然だとすると、評判を落としてしまったのですから、結果的に「日本会議」も被害者になってしまったのかもしれません。そういう意味では、学園理事長は詐欺師の鏡みたいな人です。一国の総理大臣も、日本で最強の財務省も、日本最大の右翼団体も、まとめて騙した大物詐欺師です。
政府も、官僚も「じっと我慢の子」を続けていれば、火は消えるはずでした。
しかし、公文書を改竄したことが、不思議なことに、ほんとに不思議なことに、信じ難いことに、バレてしまい、憲法の問題になり、国民の受け取り方も以前とは変わってしまいました。内閣支持率も急落しました。
独断と偏見で文章を書いている私が言うのはどうかと思いますが、私は、自己中心の朝日新聞が大嫌いですが、棚ボタという幸運を差し引いても、今回はいい仕事をしたと思います。ただ、リーク記事の掲載に問題はありませんが、文書改竄は国民の権利に対する犯罪行為だという論調で世論を引っ張っているのは、行き過ぎだと思います。朝日新聞が「国民とは」という確たる定義を持っているとは思えませんし、仮に持っていたとしても、その定義を国民は知りませんから、国民の権利に言及するのはやりすぎだと思います。それは、定義を共有するという土台のない場所に家を建てるようなものだからです。曖昧という大海の中で浮遊している状態では、潮の流れで思わぬ場所へ流されてしまいます。先ずは、曖昧という名の海から抜け出さねばなりません。私達は、政府の洗脳にも染まりますが、マスコミの誘導にも歩調を合わせる性癖を持っていますので、困ったことです。
今回の公文書改竄事件は、麻生大臣が言っているように、「辻褄合わせ」のために行われたものであり、深い意図はなかったと思います。財務省だけではなく、この「辻褄合わせ」の手法は官僚の得意技ですからよく使われますが、普通は、バレないものなのです。都合の悪い結果は、望ましい形に変更する。最後の最後で辻褄を合わせれば、何も問題はない。頭の良い人達にとっては、瑕疵のない文書を残すことは誇りなのかもしれません。これは、霞が関では日常的に行われていることだと思うべきです。特に、今回の改竄は「削除」が主な改竄点ですから、立件するのは難しいと言われています。自民党が、「改竄」と言わずに「書き換え」と言っているのは、立件できないと考えているからでしょう。
決裁文書の改竄なんて「前代未聞」だと言われていますが、そうなのでしょうか。これまでは表面化しなかっただけで、日常的に行われていたと思うほうが自然です。財務省も、日常業務として、淡々と、仕事をしただけだと思います。ま、確かに、量的にあれほどの改竄をしたことは初めてかもしれません。そういう意味では、ほんの少しだけ、良心の呵責はあったのかもしれません。
もしも、文書改竄が犯罪だという認識を持っていれば、その犯罪を実行する時、犯罪者であれば、綿密な計画を立て、完全犯罪を目指し、秘密が漏れないように手を打ち、逃走経路を確かなものにし、万全を期して犯罪に臨むものと思います。しかし、国交省に文書があることを忘れていたり、会計検査院や大阪地検に2種類の文書を提出していたりという、犯罪者らしくない杜撰な行動をしています。日本一優秀な頭脳を集めている財務省の行動とは思えません。リークの心配すらしていなかったようにみえます。つまり、財務省は改竄の事実が外部に漏れることなど微塵も心配していなかったのです。それは、彼等に、犯罪という意識がなかったからだと思います。
誰が朝日新聞にリークしたのかは今後もわからないでしょうが、あの報道がなければ、表面化することはなかったのです。現に、1年間は見事に発覚しませんでした。
今回の「辻褄合わせ手法」も「国民不在」という根っ子から生まれています。
その底流にあるものは「国民は馬鹿だから」という国家運営者共通の認識です。「国民は馬鹿なのだから、何をやっても、問題ない」というこれまでの実績もあます。「馬鹿」という言葉が過激であれば、「いい人達」という言葉に替えてもらってもいいです。
特に、官僚の場合は、最難関の試験と言われるキャリア試験に合格している人達ですから、国民は馬鹿に見えてしまっても仕方ありません。たとえ、馬鹿であっても、主権者なのだから、という結論になればいいのですが、そうはなりません。政治家にも官僚にも「主権者は国民である」という意識はありません。もちろん、建前としては存在しています。でも、国家運営者が得意とする裏の理屈があります。「一応、主権者は国民ということになっているが、例外的に、馬鹿は、主権者として認める必要はない」という判断だと思います。この「例外手法」も国家運営者が度々利用する論理です。定義がないのですから、別に問題にはなりません。もちろん、自分の利益を守るために、口先では「国民が主権者である」と言いますが、それは中身のない常套句に過ぎません。何度も書きますが、「国とは、国民とは」という定義がないことは、国としても国民としても不幸なことだと思います。普段は感じませんが、ドツボに嵌った時には痛感するものです。
国家運営者は、国民が馬鹿だと信じていますので、国民なんて怖くはありません。ですから、国民と向き合う必要もなく、国民に配慮する必要もありません。何をやってもいいのです。もちろん、建前は、常に口にしておく必要があります。仮に、何かがあっても、時間が経てば忘れてくれます。ともかく、いい人達ばかりですから、何の心配もいりません。
現に、国会では国家運営者同士が好き勝手な屁理屈を並べて遊んでいます。官僚は、国民から指一本指される心配はなく、政治家は選挙の時だけ頭を下げていれば、問題ありません。「なし崩し方式」や「辻褄合わせ方式」が有効な手法として使われていることが、その証拠です。この不具合を追求していくと、そこにあるのは「民主主義とは」という定義の欠如という曖昧文化の弊害だと思います。しかし、誰一人、その根っ子には到達していません。
政治家も官僚も、法律を作る人達と法律を運用する人達であり、法律の専門家と呼んでもいいと思います。ですから、法律をすり抜ける方法は常に考えています。自分達が不利にならないような法律の作成を命じ、自分達が不利にならないような運用方法を作り出す。これは、それほど簡単なことではなく、時間も必要ですし、豊富な知識も、緻密な頭脳も、組織の団結も要求されます。もしかすると、それが彼等の仕事の大半を占めているかもしれません。大変な仕事です。それでも、日本の官僚は優秀ですから、うまくやっています。優秀な頭脳をこんなことに使うのはもったいない、と指摘をする人もいません。この国では、今、あらゆる分野で構造改革が求められていますので、そちらの方向に、これらの優秀な頭脳を使えば、日本は生き返ることが出来るかもしれませんが、そうはなっていません。自分の、自分の課の、自分の局の、自分の省の利益が最優先です。何でもやりたい放題に出来るのですから、自分の利益を追求してもいいのです。本来は、それを咎める仕組みがなければならないのですが、この国の仕組みはそのような仕組みになっていません。もちろん、形式的には、それなりの仕組みがあるようになっていますが、きっちりと骨抜きになっています。
日本で最高の頭脳を結集して作られたものですから、不都合なことがあっても、そう簡単に立件できるものではありません。憲法違反なんて、更に、立件できません。安倍総理が強気なのは、違法行為には当たらないという確信があるからです。法律に違反していなければ、何をしてもいいというのが、国家運営者共通の認識です。国家運営者の皆さんは、道義的責任はあっても、法的責任はないように、細心の注意を払って、そのために多くの労力を費やして、国家を運営しているのです。その脱法行為は、国民のためではなく、自分達の利益のためですから、頑張れるという条件もあります。法律をすり抜けるためには、優秀な人材が必要であり、キャリア制度が作られました。官僚はその要望に応えているのです。そこに国民という視点がないことは、大変残念なことです。
公文書を改竄することが「前代未聞」なのではなく、「リークする奴がいたなんて、前代未聞だ」という意味で使われたのであれば、納得です。もちろん、リークしたのは国家運営者集団に属している人ですから、これは内部崩壊現象なのです。内部崩壊が起きていることこそが権力者にとっては「前代未聞」だと認識しなければなりません。
国民なんて馬鹿だと思っている政治家が、国民は馬鹿だと確信している官僚を交えて議論したところで、その根っ子に辿り着くことなどありませんし、空論で終わるしかないのです。これまでも、そうでしたし、これからも変わりません。「このようなことが、二度と起きないように、再発防止のために、文書管理規定を・・・・・」という話になるのでしょうが、二度目だけではなく、三度目も四度目も起きます。それは、新しく作られた規定をすり抜ける方法を必ず見つけ出すからです。それが彼等の仕事なのです。
国民に必要なのは法律ではなく、法律の前提となる定義なのだと思います。そもそも、法律の目的は民を縛ることです。国家運営者に適用される法律はザル法と相場は決まっています。その差を埋めるのは定義しかないと思います。法律は専門家にしかわからないとしても、原則さえわかっていれば、国民でも判別できます。
国会の予算審議からエピソードを一つ。
自民党議員の質問、「あなたは民主党政権時代に野田さんの秘書官をやっていた。だから、安倍政権を貶めるために、いいかげんな答弁をしているのではないか」
財務省理財局長の答弁、「私は公務員として、大臣に誠心誠意お仕えしているのであり、それは、いくら何でも、それは、いくら何でも、それは、いくら何でも、ご容赦ください」
実に程度の低い質疑応答ですが、これ、現実です。確かに、議員の質問は下劣極まりない質問ですが、私は、官僚が「大臣にお仕えしている」と答えた部分に違和感がありました。国会議員は国民の負託を背負っているのだから、大臣に仕えるのは国民に仕えることだと注釈すれば筋は通りますが、そのようには聞こえませんでした。実際に、官僚が議員の後ろにいる国民を意識しているとは思えませんし、そもそも、議員自身も国民の負託に応えているとは思っていないでしょう。もし、議員が国民の負託に本気で応えようとすれば党議拘束に反対しなければなりません。国民は、物価を上げて欲しいとか貧困化を推進して欲しいなどと考えていません。議員は、党の持っている組織票と選挙資金がなければ議員になれませんので、彼等に残された選択肢は、国民を騙す選択肢しかないのです。
理財局長は、かなり怒っていましたので、本音に近い答弁だったのでしょうが、無意識の状態でも辻褄が合うような答弁が出来る官僚の能力は素晴らしいものだと思います。その点では、日本の最高頭脳と呼ばれても、納得です。確かに、国民不在の「証拠を出せ」と言われても、出せません。議員や官僚の本音を証明する方法はありませんから、どうすることもできませんが、定義があれば、少しは判明していたかもしれません。
ただ、野党の皆さんも「国民を、国会を、愚弄する行為だ」と叫んでいますが、国民とか国会という言葉を利用しているだけで、「国民とは」という定義すら持っていません。国会議員にとっての「国民」は自分にとっての「一票」に過ぎないのです。与党議員も野党議員も、その点では一致しています。選挙の時だけ頭を下げ、その「一票」を貰ってしまえば、後は、自分の好き勝手に出来るのです。国民は、何も言いません。現実が、そうなっているのですから、もしかすると、国家運営者が国民を馬鹿だと思っていることは、それほど的外れではないのかもしれません。与党議員、野党議員に関係なく、彼等は「国家・国民のために」という偽の大義を掲げ、莫大な費用を使って、自分の「一票」のために、自分の利益のために、茶番をやっているのです。これでは国民は浮かばれませんが、国民は「ふむ、ふむ」と頷いているだけです。ほんとに、いい人達です。
ま、私達は、自分が「馬鹿」だとは思っていませんが、「無知」も「馬鹿」の範疇に含まれるとすると、「馬鹿」と思われても仕方ありません。国民が、知る努力をしていないことは事実ですから、責任の大半は国民にあります。国民が「俺には関係ねぇ」と思っていたのでは、民主主義は機能しません。ただ、国家運営者の皆さんは、国民に「知る努力をしてくれ」と要請したのでしょうか。国民が知らないことを、知る努力をしなかったことを、是としてきたのではないでしょうか。政治家や官僚がやりたい放題をするためには、国民の「無知」は望ましい環境だったのではないですか。これでは、かつての封建制度と、外見は違いますが、中身は何も変わっていません。私達は、民主主義風王政並立封建制度から抜け出さなくてはなりません。
野党の皆さんは、鬼の首を取ったように振舞っていますが、彼等が改竄の事実を見つけたわけではありません。あのリークがなければ、野党は何もすることがなかったのです。その上、公文書改竄は「民主主義の根幹を破壊する暴挙である」と主張しています。民主主義の定義を共有することもなく、民主主義という言葉を安易に使いたがります。ほんとに、いつも、いつも、言葉が軽くて、困った人達です。
その背景は「民主主義とは・・こんなもん・・だろう」という、曖昧な暗黙の了解の上に築かれています。この「・・こんなもん・・」は、個人によって違います。「・・こんなもん・・」を知らない人も、「・・こんなもん・・」を「俺には関係ねぇ」と思っている人もいるでしょうが、それなりに、自分なりに「・・こんなもん・・」を「・・こんなもん・・」だと勝手に考えている人もいて、この国では、誰一人、その「・・こんなもん・・」を共有していないのです。定義という土台がない場所で、共通の尺度を持っていない人達が、いくら議論をしてみても、それは「お遊び」にしかなりません。佐川氏証人喚問でも、野党の皆さんは、根っ子を探そうともせずに、棚ボタ発言を期待しているだけでした。「人は正しい行動をしてくれるもの」という思い込みに一縷の望みをかける。日本人らしいと言えば日本人らしい行動パターンですが、現実は、そうはならないのが普通です。根っ子が見えていない人は、根っ子に切り込むことができません。どれだけ、枝葉を揺らしてみても、何も変わらないのです。
そもそも、国会議員は、どんな人が、どこから、選出されているのでしょう。国家運営者の皆さんが「馬鹿」だと考えている国民の中から選出されている、国民の一人なのです。「馬鹿」の群れの中から選ばれた「馬鹿」ですから、国会議員も「馬鹿」なのです。中には、私達庶民よりは、多少、頭のいい人もいますが、大きな差はありません。スキャンダルにしか反応しない野党議員。自分の利益しか考えていない与党議員。国民の選択肢は、どこにあるのでしょう。と言っても、議員も「馬鹿」なのですから、どうすることも出来ません。だとすると、私達は自分が「馬鹿」であることを認めるしかないのではないでしょうか。「馬鹿」は「馬鹿」なりに、「馬鹿」に出来ることをするしかないのです。「馬鹿」にでも出来ること、それは「原点に立つ」ことくらいだと思います。
「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義を国家運営者と国民が共有していれば、今のような状況にはならなかったように思います。
それでも、不条理ではありますが、最終的には、国民の責任になります。民主主義国家という統治体制は、そういうものです。大半の国民は「俺は、知らなかった」と言うでしょう。その通りです。国民は知らないのです。責任を放棄してきたのは、国家運営者だけではなく、国民も立派に責任放棄をしているのです。みんなで、責任放棄をやっているのですから、これは、自己責任を取らされても仕方ありません。

たかが詐欺事件の森友問題であっても、その根っ子に気付かないということは、本来は国民生活を守るための議論をしなければならない国会で、与党と野党と官僚が三つ巴になって茶番劇を演じているということは、朝鮮半島連合軍対日本の戦いの危険性など、気付くこともないということです。
政治家の言葉を信用してはいけません、と言っても説得力はありませんが、私達は、せめて根っ子を見つける努力くらいはするべきだと思います。
もしも、朝鮮半島連合軍対日本の戦いが始まってしまうと、これまで、いろいろな場面で、「国民のため」「国民の生命と財産を守るため」と発言してきた政治家の言葉は、全部、嘘八百だったということになります。特に、安倍さんは上手に嘘をつく才能に恵まれています。見事だと思います。もちろん、政治家は、自分達が嘘八百を並べていることを知っています。それが彼等の仕事です。でも、この国の国民は、「いい人達」ばかりですから、その嘘八百を信じてしまう国民なのです。そういう意味では、責任は国民にありますが、願わくば、政治家はそんな国民性を知っているのですから、それを利用するだけではなく、自分の利益だけではなく、国民の利益も考えられる人が政治家になるという矜持は持っていて欲しいものです。実現は出来ないでしょうが、夢としては持ちたいものだと思います。確かに、国民は「無知」ですから「馬鹿」にみえます。でも、「国民が馬鹿だから、国家運営者は何をやっても許される」とは思わないで欲しいのです。やはり、定義を持たずに「なあ、なあ」「まあ、まあ」で誤魔化してしまうという従来のやり方は、大変危険だと思います。
この国は、曖昧という空気の中で、壊れていっていることに気付けていません。
いつ、気付くのでしょうか。
それとも、このまま、壊れてしまうのでしょうか。


2018-04-04



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日韓戦争 2 [評論]



追記
昨日の文章を書いた後に、「韓国と北朝鮮、終戦宣言か」という文章がネットで流れました。私が書いたのはフィクションですが、同じ視点で朝鮮半島を見ている人がいたことに驚きました。
私は、記事紹介の場合は、記事紹介と書くルールを自分に課しています。
ただでさえ価値のない評論ですから、記事や事件の解釈だけはオリジナルに拘りたいと思っているからです。
私の書いたストーリーを削除して、この記事に対する解釈という文章にしようかとも思いましたが、両方とも載せることにしました。
「韓国と北朝鮮、終戦宣言か」という記事を書いたのは、ニューズウィークの編集部ですから、それなりに取材をしたものと思います。韓国と北朝鮮の終戦宣言は、平和条約の前文に当たります。ただ、ニューズウィーク編集部の結論としては、南北対話は「当てにはできない」というものになっていますので、趣旨としては現在の流れに沿ったものです。
その記事の中から、いくつか、抜粋しておきます。詳しくは、ニューズウィーク誌をご覧ください。

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韓国メディアのNEWS1などによると、大統領府の関係者が14日記者団に会った際、「南北首脳会談で終戦宣言や平和条約の締結などについて議論することはあるのか?」という記者からの質問に対し、「大統領の昨年7月の新ベルリン宣言やその他の発言からすると、想定範囲内のことだ」と明らかにしたという。

金根植(キム・グンシク)慶南大学教授は、「文大統領がトランプ米大統領よりも金委員長と先に会って、終戦宣言や平和体制構築のような包括的な内容について対話することで、米朝首脳会談の大きな道筋をつけることができるだろう。先に作っておいた枠組の中にトランプ大統領を囲い込むという狙いもあるようだ」と分析する。

大統領府の関係者は、「これまでの南北の交渉では、制裁緩和しながら段階的に対話をしてきたが、今回もそうなるとは限らない。複雑に絡み合っている問題の結び目を"ゴルディアスの結び目"のように一刀両断で解決する方向にいくことが可能だ」と説明した。

大統領府の南北首脳会談にかける期待とは裏腹に、韓国国民の醒めた視線の方が歴史を学んだ賢人のように思えるのは気のせいだろうか?

>>>>>>----------------------------------------------------<<<<<<

ニューズウィークの編集部が、韓国政府の意向に否定的な解釈をしたのは、多分、アメリカサイドの場所に立っているからなのではないかと思います。もしも、韓国の国益を最優先事項とし、韓国政府に中韓同盟という構想があったとすると、韓国政府はそんな発表は絶対にしませんが、平和条約の締結は、とても現実味を帯びてきます。少なくとも、韓国政府が、トランプを、封じ込めようとしていることは確かなようです。韓国の特使派遣の作戦は、今のところ成功しています。ただ、アメリカとの力関係で、韓国の希望は実らないかもしれません。それでも、文在寅は、可能な限り前に進めたいと思っているはずです。
私は、こんな情報を持っていませんでしたから、この記事を読んで驚きました。私が勝手に5%と予測していた、韓国が向こう側に行ってしまう確率は、7%になったかもしれません。青瓦台は、やる気満々、本気のようです。
もちろん、韓国や北朝鮮が、どんな思惑を持っていたとしても、それが実際に効力を持つためには、中国の協力が不可欠です。中国も、現行のアメリカ主導の世界秩序をひっくり返したいと思っていますので、朝鮮半島情勢はチャンスです。後は、今の時期が適切かどうかを、中国がどう判断するかに懸かっているのではないでしょうか。中国にとって、大きな一歩になる可能性と、ドジを踏む可能性が混在しているのは悩ましいところでしょう。

別の記事です。
トランプ大統領が、駐韓米軍の削減に言及しました。彼の論理は「我々はとても大きな貿易赤字を抱えているのに、彼等を防衛している。貿易で金を失い、軍事でも金を失っている」というものです。
また、アメリカと韓国のFTA条約の再交渉は妥結したようですが、トランプが金正恩と会うまではサインをしないそうです。
韓国を追いつめて、トランプは何を得たいのでしょうか。
文在寅は、どう思っているのでしょう。なんてことを言っても、何の足しにもなりませんが、韓国が窮鼠になる確率を高めるだけなのではないかと思ってしまいます。
トランプの頭の中は想像するしかありませんが、一番目に「カネ」、二番目に「カネ」、三番目に「カネ」、四番目に「支配欲」、五番目に「安全保障」という順番で並んでいるのではないか思います。彼は、企業経営者ですから、「カネ」が権力や支配力を生み出すと信じていても不思議ではありません。習近平や金正恩やプーチンの場合は、一番目に「支配欲」があると思いますが、その点でも異質な権力者だと思います。
今、一番、注意しなければいけないのが韓国の動向だと思わないのでしょうか。トランプ流のハッタリだとは思うのですが、瓢箪から駒が出てくる可能性はないのでしょうか。
もしも、私の推測が当たっているとすると、文在寅は中国に乗り換える口実を探しているものと思います。だとすると、文在寅にとっては「渡りに船」になる可能性があります。これまでも、駐韓米軍の撤退については、何度も言及され、米韓関係が悪化したことが何度もありました。多分、今回のトランプの発言は、トランプ流の商売なのでしょうが、こういう細かな齟齬が積み重なり、タイミングを間違えば、大きな亀裂を生むことになるかもしれません。日本はどんなことを言われても尻尾を振りますが、韓国が同じ対応をするとは限りません。悪い時期に悪い冗談を言って、場の雰囲気を壊してしまう。このトランプ流は、上手くいくのでしょうか。爆弾発言をして、相手国が右往左往しているのを楽しんでいるだけなのではないかと思うこともあります。しかし、日本にも多大な影響がありますので、困ったことです。FTA条約に為替条項が入ったのかどうか知りませんが、いずれ、この条約が破棄されることを韓国が予測していたとすると、トランプの面子は丸潰れになります。
仮に、米朝首脳会談が行われたとすると、トランプは、金正恩の気持ちを掴むために、自分の力を誇示するために、韓国を糞味噌に罵るかもしれません。韓国の言動には、イラついていると思いますので、更に、追いつめてしまうかもしれません。金正恩に駐韓米軍の撤退を約束するかもしれません。北朝鮮が核放棄という偽装約束をし、アメリカ主導で、駐韓米軍の撤退が動き出し、韓国が、仕方なく、中国に擦り寄っていくように見せることは、文在寅にとっては利益になります。中国も、受け入れやすくなります。
トランプは、「なに、文在寅がいなくなっても、晋三がいる。心配ない」と言うかもしれません。いえいえ、お友達の晋三は、今、風前の灯火状態です。
軍事的に日本が対応できるとは、日本人の私でも思いません。
トランプは、身近にあるアメリカ軍やアメリカ国民と、日本の自衛隊や日本国民を、同じだろうという前提で理解しているものと思いますが、日本の自衛隊も日本国民も、全くの別物です。日本人である私にも理解し難いくらいですから、余程の日本通にならなければ、この違いは理解できないと思います。

もう一つ、別の記事です。
26日に、金正恩が習近平と会談をしました。金正恩にとっては、初めての外交でしたが、中国首脳部はどんな印象を持ったのでしょう。とても、知りたいです。
日本では、「経済制裁で疲弊した金正恩が、アメリカの軍事行動を恐れた金正恩が、中国に助けを求めた」という意見の方が多いようです。ただ、皆さんの意見の前提には思い込みがあるように思えてなりません。それは、金正恩だけが悪者であるという思い込みです。確かに、金正恩が悪い指導者であることは認めますが、では、トランプや習近平は悪者ではないのでしょうか。私には、影響力が大きい分だけ、トランプや習近平のほうが悪く見えます。アメリカと中国とロシアを「悪の枢軸」と呼んでもいいくらいだと思います。金正恩だけを極悪人とみるのは公平ではないと思います。ここは、少し、冷静に分析すべきなのではないでしょうか。
中朝首脳会談の映像をみる限り、私には、ただ単に助けを求めて訪中したのでないように思えるのです。確かに、初めての外交ですから、緊張感はみえました。でも、決して、卑屈な態度ではなかったようにみえます。多分、金正恩の腹の中には、北京にでも核ミサイルを撃ち込むことができるという隠された自信があったのでしょう。彼は、核開発が正しい選択だったことを再確認したのではないでしょうか。核を持っていなければ、習近平の足元に縋り付いて助けを求めていたかもしれません。
私は、金正恩の真剣で前向きな表情と習近平の「愛想笑い」に別のものを感じました。習近平の「愛想笑い」映像を観たのは、トランプと初めて会談した時の映像でした。自分の思い通りになってもらいたい相手にであれば、「愛想笑い」をしてもおかしくありません。習近平の本音は、その表情に、特に笑顔に出ると分析している方もいます。許しを請い、助けてくれ、と言っている相手に「愛想笑い」をする必要はありません。安倍総理と会った時のように、そっぽを向いてもよかったのです。しかし、習近平にとって、金正恩を取り込むことが自分の利益になると判断すれば、「愛想笑い」の一つくらい、お安いことです。お互いに利用価値があると納得している会談だったのではないでしょうか。国力が全く違う相手に対して、親子ほどの年齢差がある相手に対して、金正恩は堂々と渡り合っていたと思います。悪と悪が手を結ぶのは最悪ですが、これが現実なのでしょう。
金正恩の目的は、韓国と中国の軍事同盟を促し、北朝鮮と韓国と中国とロシアの4か国による、対米戦略の構築のための訪中だと考えるべきだと思います。中国にとって、前向きな、建設的な提案を持って行ったということだと思います。
なぜなら、昨日も書きましたが、時代の流れは、そういう方向を向いているからです。
南北対話と米朝会談が決まった今、韓国の文在寅が北京へ行くと、角が立ちます。ですから、朝鮮半島を代表して、金正恩が北京へ行ったのではないかと思います。そうであれば、不自然ではありませんし、中国も歓迎してくれます。中国は、中国流資本主義で世界制覇をし、独裁国家連合の頂点に立ちたいと願っています。いつの日か、必ず、アメリカと戦う日がやってきます。北朝鮮も、中国陣営の有力な戦力です。
会談の中で、金正恩は、朝鮮半島の非核化に尽力したいと語ったそうですが、朝鮮半島の非核化が自分の安全を担保してくれるとは思っていないでしょう。朝鮮半島の非核化という提案は、中国へのお土産だったのではないでしょうか。アメリカ軍を、先ず韓国から、次に日本から追い出すことが出来れば、中国にとっての利益になるからです。
金正恩自身の安全を守るためであれば、在韓米軍の撤退だけでは不十分です。
アメリカには、核兵器搭載のICBMもありますし、グゥワムから核兵器搭載の爆撃機も飛んできますし、潜水艦による核攻撃もあります。あれだけ無茶をして核兵器の開発をしたのは、核を抑止できるのは核しかないという当たり前の事実を彼が知っているからです。いや、核兵器は他の兵器に対する抑止にも使えるスーパー兵器なのです。フセインやカダフィが殺されたのは、核武装しなかった結果だと思っているでしょう。
また、アメリカ相手に、どんな平和条約を結んでも、どんな約束をしても、条約も約束も絶対ではありません。双方が、いつでも、破棄できるのです。戦争になる時は、条約も約束も破棄されるものなのです。それが戦争です。崖っぷちを歩いている金正恩が、そんな、あやふやなものに、自分の命をかけるとは思えません。
日本人には想像できないかもしれませんが、力に対抗できるのは力だけです。アメリカが軍事攻撃を躊躇するだけのパワーが自分になければ、彼は安全ではありません。韓国と和平条約を結び、韓国を独裁国家陣営に引き込み、ロシア、中国と連携すれば、アメリカの軍事力を跳ね返すことができるかもしれません。文在寅と話をしたことで、4か国連合という戦略も夢ではないと思ったのではないでしょうか。そう考えると、彼の真剣な表情も理解できるような気がしました。
文在寅から南北平和条約を提案され、足元の危険を除去できる可能性が生まれたとします。そして、中朝首脳会談で、壊れかけていた中朝同盟は再確認されたとします。金正恩は、勝利を確信したのではないでしょうか。
韓国の取り込みには時間が必要ですが、ロシアは仲間に入ってくれるでしょう。これで、トランプの選択肢は非常に少なくなりました。今回の中朝首脳会談後の中国は、朝鮮半島の戦争には、堂々と介入してくると思われます。アメリカの軍事行動は、世界大戦を覚悟しなければ出来ません。ただ、トランプは何もわかっていませんので、アメリカのブレーキにはなっても、トランプのブレーキにはならない可能性があります。それは、トランプを選んだアメリカ国民が責任を取るしかありません。
トランプ政権の側近に力はありませんが、何とかして、米朝首脳会談に出たがるトランプを止めるべきだと思います。なぜなら、アメリカが恥をかくだけで終わる可能性があるからです。トランプは、「何とかしろ」と中国に圧力をかけると思いますが、301条の発表をした後ですから、中国がアメリカの要求に素直に従うとは思えません。逆に、中国から北朝鮮への経済援助が、既に、約束されているかもしれません。
金正恩の訪中は、内容もタイミングも大成功だったのです。
アメリカのテーブルに並んでいた選択肢から、軍事行動という選択肢はなくなりました。一発逆転サヨナラホームランみたいなものです。ただ、自棄になったトランプが、世界へ無理難題を押し付ける心配が出てきました。特に、日本は、格好の標的になる素質があります。この結果は、日本にとっては、大変困った事態になりました。
「同床異夢」という言葉がありますが、トランプはこの言葉を知っていたのでしょうか。アメリカの目的は、北朝鮮の核廃棄を非核化と考えていますが、北朝鮮が言う「朝鮮半島の非核化」は在韓米軍及び在日米軍の撤退を意味しています。トランプは「非核化」という言葉に飛びついて首脳会談に賛成しましたので、「同床異夢」という言葉は知らなかったと思います。トランプは、自分を中心にして世界が回っていると思い込んでいるようですが、現実は、それほど単純ではありません。
私は、金正恩が訪中する決断をしたのは、文在寅からの提案があったからだと、勝手に想像していますが、金正恩訪中のニュースを知った時、「なるほど、この手があったか」と思ってしまいました。随分悩んだと思いますが、よく勇気を出したと感心します。
やはり、世界の流れは、第三次世界大戦の方向へと向かっているように見えます。その流れを見るために、「れば、たら」を並べてみましょう。
トランプが大統領選で負けていれば、金正恩が後継者にならなければ、文在寅が大統領にならなければ、オリンピックがなければ、中国の独裁が進まなければ、ロシアが経済的なダメージを受けていなければ、今のような状況にはなっていなかったと思います。しかし、これらの「れば」は全部実現しています。これが流れだと思うのです。全員がウインウインの関係になることはありません。どこかで行き詰ります。そうなれば、最終的には、力で決着をつけるという選択肢しか残らなくなります。それが第三次世界大戦です。アメリカが総合力で他の国を圧倒していた時代は終わっています。この北朝鮮問題で主導権が取れなくなれば、その衰退は加速すると思います。それは、トランプの「アメリカファースト」が間違った政策だったという証明になります。トランプがやらねばならなかった政策は、西側諸国の結束を固め、中国を潰さなければならなかったのです。私には、上に挙げた「れば」が不幸の連鎖に見えます。ほんとに、不幸の神は群れたがります。

ここで、また、フィクションを書きます。
北朝鮮が、核放棄に応じたと仮定しましょう。
核放棄には、核査察が欠かせません。
では、北朝鮮は、アメリカの要求に、素直に、100%応じるのでしょうか。
そうは、思えません。
同盟国である中国の国益のために、近い将来同盟国になる韓国の安全のために、何よりも金正恩の安全のために、先ず、在韓米軍を追い出さねばなりません。そのための核放棄ですが、それが見せかけの核放棄ではないと、どうやって判断するのでしょうか。
私には、見せかけの核放棄の確率のほうが、はるかに高いように思えます。
では、どうやって、見せかけの核放棄を実現させるのでしょう。
素人でも想像できる方法は、核施設と核兵器の国外逃亡です。
北朝鮮のトンネル技術は優秀だと言われています。
北朝鮮の国土はトンネルだらけだと言われています。
もしも、ロシアとの間にトンネルが存在していたとしましょう。いや、今からトンネルを掘っても構いません。ロシアの地方都市の山間部に、主要な施設と核兵器を隠したとします。アメリカが、IAEAが、ロシア領の査察を要求しても、ロシアは応じないでしよう。
中国、ロシア、韓国、北朝鮮の4か国が協力すれば、アメリカを騙すことなど簡単にできてしまいます。北朝鮮を守ることが、他の3か国の国益にもなるとすれば、喜んで協力してくれるのではないでしょうか。
この程度の戦術は簡単に考えられます。
実際には、もっと、高度な戦術が立てられていると思いますが、直感だけが頼りのトランプは、気付くことができるでしょうか。
中朝首脳会談が成功したことで、金正恩の策略が成功する確率は高くなったのではないかと想像しますが、昨日書いたような無茶なフィクションは、あり得ないことなのでしょうか。ないことを祈るばかりです。
金正恩が北京を訪問した目的は、4か国連合の打診だったのではないかと思いますが、どうなんでしょう。
もちろん、これは素人の想像ですから、信用しないでください。
北朝鮮が核放棄を約束し、核査察が行われていれば、アメリカは軍事行動を起こせません。査察が行われるまでに何年もかかります、査察も年単位の時間が必要です。もしかすると、10年以上の時間が必要かもしれません。10年経てば、世界情勢も変わりますし、中国の力も強くなります。
それでも、「北朝鮮の約束に不審あり」として、無理矢理、軍事行動を起こせば、アメリカに味方をする国はなくなります。
必要だったのは、団結力だったのではないでしょうか。
韓国を追いつめたアメリカ、中国に膝を折ってでも団結を求めた北朝鮮。リーダーとしては、金正恩のほうが上だったということになります。
この部分も、フィクションです。

フィクションに過ぎなかったストーリーでしたし、私の勝手な想像に過ぎないヨタ話の類でしたが、嫌な予感がします。このままでは、朝鮮半島連合軍対日本の戦いになる可能性は、その確率は低いものですが、絶対に無いということではないように思います。
もしも、最悪の事態が起きるとすると、底辺にある「国民不在」の流れこそが、あらゆることを押し流している根っ子だということに、私達は気付かねばなりません。安全保障の議論が出来ない国は、国民を守るつもりのない国だということです。「民主主義とは」という定義はありませんが、民主主義国家は、どんなことよりも、国民生活が優先されなければなりません。国防を語らずに国民を守ることなど出来ません。しかし、この国には、国民という視点が欠けています。
第二次朝鮮戦争を始めないために、という点では、日本に出来ることは限られています。しかし、朝鮮半島連合軍対日本の戦いになることを阻止するのは、日本が主体的にやらねばならないことです。なぜなら、国には、国民生活を守る義務があるからです。しかし、これまでの国家運営者のやり方をみていると、そのような主体的な行動が取れるとは思えません。また、いつもの「なし崩し方式」を利用すれば、「ずるずる」と戦争に突入する危険があります。この国では、「ずるずる」は珍しい現象ではありません。


2018-04-03



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日韓戦争 1 [評論]



今日は、出来の悪い小説を読むつもりで読んでください。
これは、フィクションです。
そのために、少々、いや、かなり、長文になります。

無茶を承知で、日韓戦争のシュミレーションをしてみました。
米朝戦争でも、第二次朝鮮戦争でもなく、日韓戦争です。
「なに、それ」と思われるでしょう。これは、あくまでも、フィクションです。ただ、100%あり得ないと言えないところが、悩ましいと思っています。
実際には、朝鮮半島連合軍(韓国軍と北朝鮮軍)対日本の自衛隊の戦争ですが、本質的には米中代理戦争ですが、日韓戦争と呼んだほうがわかり易いと思いますので、日韓に代表してもらいます。
半年前に、「韓国にとっての最良の選択とは」ということについて書きました。
韓国は、中国陣営に参加することが、他の選択肢よりも優れていると書きました。
今年は、年初から、朝鮮半島で南北融和や南北対話が力を持っています。
北朝鮮が仕掛けた平和攻勢だという意見が主流になっています。
ほんとに、そうなのでしょうか。
私には、韓国が仕掛けた平和攻勢であるように見えます。
と言うよりは、出来レースに見えてなりません。
それは、韓国と北朝鮮の利害が、壊滅的な被害を受ける国という点で一致しているからです。
アメリカの安全のためだけに、北と南に分断されているとはいえ、朝鮮民族が何百万人も犠牲になるのは、割に合いません。北と南が協力するのは自然な流れです。
カードを切ったのは韓国であり、北朝鮮は、棚から落ちてきた牡丹餅にパクリと食いついた結果のように見えます。
韓国の特使と金正恩の会談の映像を見ても、金正恩は自信に満ちています。晩餐会では、終始、笑顔でした。依頼したのが韓国側で、韓国が大胆な条件提示(南北の平和条約締結や軍事同盟のような提案)をしたのであれば頷けます。北朝鮮が「満足できる会談だった」と言っているのは、韓国の平和攻勢だったという意味なのではないでしょうか。
韓国も北朝鮮も、いや、韓国のほうが南北融和を切望しているように見えるのです。
日本の報道では、アメリカの立場に立った意見や、アメリカのポチに徹する日本の立場に立った観測しか流れません。韓国や北朝鮮の意見は反映されているのでしょうか。正義はアメリカにだけあるのでしょうか。私達には、韓国や北朝鮮の本音を知る必要はないのでしょうか。確かに、大国による力の行使が世界の正義になるのですから、小国にはなす術がありませんが、その小国の行動が他の小国である日本に影響する心配はあります。
北朝鮮や韓国の立場に立って、冷静に考えてみましょう。
仮に、北朝鮮が核兵器と長距離弾道ミサイルを廃棄し、朝鮮戦争を終結させ、アメリカや連合国軍の国々と平和条約を結び、米韓同盟を終了させ、駐韓米軍が撤退し、米韓合同軍事演習が無くなれば、北朝鮮、いや、金正恩は枕を高くして眠ることができのでしょうか。
無理だと思います。
アメリカは、民主化を要求してきますし、人権問題を解決しろと強要するでしょう。大国は、いつでも、攻撃の口実を作ることができるのです。折角手に入れた核兵器を放棄しても、金正恩は何も得られません。大量破壊兵器というガセネタだけで、イラクに侵攻した米軍を知らない人はいません。正当化するためなら、どんな理由でも作るのが大国です。
たとえ、北朝鮮が約束をしても、北朝鮮が日本のようなアメリカのポチにならない限り、金正恩の安全は保障されません。そんなことは、金正恩が一番わかっています。アメリカがアメリカである限り、北朝鮮が北朝鮮である限り、両国の平和は実現しないのです。そこにあるのは、強いものが勝つという世界常識だけです。では、金正恩は負けを認めて、アメリカの属国として生きていけるのでしょうか。その確率は、0%ではありませんが、かなり低いと思います。
アメリカのミサイル防衛システムは、敵のミサイルを100%撃ち落とせるわけではありません。以前に、北朝鮮が複数のミサイルを同時発射する映像を公開しました。例えば、連続して50発の通常ミサイルを発射した後に、10発の核弾頭を搭載したミサイルを発射すれば、100%ではなくても、何発かの、いや、かなり高い確率で大半の核兵器がアメリカ本土に落下するでしょう。いや、実際に攻撃をしなくても構いません。その戦略をリークするだけで、アメリカは北朝鮮を核保有国として認めることになります。
どうしても、北朝鮮の核保有を認めたくないのであれば、多分、この数か月か数年が最後のチャンスなのだと思います。北朝鮮が数十発のICBMを実戦配備できるまでに、北朝鮮を焼け野原にしてしまわないと、軍事行動は不可能になると思います。逆に、北朝鮮は、アメリカがそのような決断をするチャンスを潰さねばなりません。トランプは、突然、その決断をしてしまうかもしれませんので、餌をぶら下げておく必要があるのです。それが、米朝首脳会談です。
一方、韓国が生き残るためにも、アメリカの軍事行動だけは、どんなことがあっても阻止しなければなりません。もしも、朝鮮半島で戦争が始まったら、韓国は大打撃を受けます。多くの国民が犠牲になり、多くの都市が破壊され、経済が大損失を出します。どこに、韓国のメリットがあるのでしょう。韓国の国益は考慮されているのでしょうか。私には、アメリカの都合だけしか見えません。
ですから、韓国が自国の国益を守るためには、アメリカと共に北朝鮮と戦うのではなく、北朝鮮と協力してでも、アメリカの軍事行動を阻止しなければなりません。文在寅は、同じ民族なのだから可能だと判断したのでしょう。どんな手段を使ってでも、アメリカの軍事行動だけは避けなければなりません。それこそが、韓国の喫緊の課題なのです。例え、韓国政府がアメリカ軍の軍事攻撃を認めないと言葉で表明しても、アメリカは行動する危険があります。よく言われるように言葉では何も動きません。韓国だって、行動するしかないのです。朝鮮半島で南北戦争を回避する方法は一つしかありません。韓国が中国軍側に立つしかないのです。韓国国民を守るためには、その選択肢しかないと思います。
去年、韓国について書いた、あの時点では、眉唾物のお伽噺であり、1%以下の確率しかありませんでしたが、今年になって、その確率は少し高くなったのではないかと思っています。高くなったと言っても、5%くらいの確率でしかないのでしょうが、ゼロではありません。

日本では、あまり話題になりませんが、韓国の文政権は左翼政権です。日本であれば、共産党政権が誕生したようなものです。
国民のイデオロギー反応度を、勝手に推測すると、日本の場合、左翼指向の国民は5%で、右翼指向の国民は5%、中間層が90%だと思います。中間層は、別名、付和雷同層と呼んでもいいと思います。韓国の場合は、左翼30%右翼30%中間40%だと言われています。日本よりも左翼政権が生まれる確率は高いと思います。そして、現に左翼政権が生まれ、国家としての危機を目の前にしているのですから、社会主義国になるだけの動機はあります。
文政権は、明確に、親北・反日の旗を揚げていますし、親中・反米になっても不思議ではない政権です。
そんな政権が韓国に誕生したおかげで、金正恩は韓国政府の内部事情に精通していると言われます。青瓦台の中は、左翼思想に染まっていて、多くの人が、自ら率先して北朝鮮に情報を渡していると言われています。北朝鮮では「青瓦台は制圧した」とまで言われているそうです。
韓国にとって、今は、南北統一が問題なのではありません。南北統一は夢のままでもいいのです。それよりも、直近の壊滅的な被害を何とかしなければなりません。たとえ、アメリカ軍が北朝鮮軍に勝利したとしても、韓国は立ち上がれません。第二次朝鮮戦争は、韓国にとって何のメリットもないのです。いや、山のようなデメリットしか残りません。
北朝鮮は、核兵器を持っているのだから危険だという方がいるかもしれませんが、北朝鮮と平和条約を結び、同盟国になってしまえば、危険は排除されます。あるいは、韓国が核兵器を開発して装備すればいいのです。韓国では6割以上の国民が核武装に賛成しています。
それ以上に、文在寅大統領には、米韓同盟軍として北朝鮮軍と戦う大義がありません。冷戦時代であれば、イデオロギーという大義がありましたが、今はイデオロギーで戦争をする時代ではありません。文在寅大統領は北朝鮮と同じ思想を持っていると言われています。そんな北朝鮮と、しかも同じ民族である北朝鮮と、戦う大義がありません。第二次朝鮮戦争を始めれば、多くの国民が犠牲になります。大義がないのですから、韓国側に犠牲が出ても、北朝鮮側に犠牲が出ても「国民を殺し、同胞を殺した大統領」という評価をされるかもしれません。戦争をするのであれば、どれほどの犠牲が出ても、渋々であっても、国民が容認してくれる大義が必要なのです。
戦争状態にありながら、あれほど多くの北朝鮮シンパがいるということは、同族意識が非常に強い民族なのだと思います。その朝鮮民族の「情」を納得させるだけの大義があるのでしょうか。
一国のリーダーが、自分にとっても、国民にとっても大義のない戦争で、壊滅的な被害を受けることを容認できるとは思えません。でも、相手はあのトランプですから、何をやるか、わかったものじゃありません。何とかしなければなりません。
文大統領に残されている選択肢は、北朝鮮と独自に平和条約を結び、米韓同盟を破棄し、中韓同盟と韓朝同盟を結ぶことです。すぐに南北統一をする必要はありません。同じ民族ですが、別々の国として平和的な関係を維持するほうが、はるかに利益になります。
歴史的に見ても、朝鮮半島は中国の支配下にあったのです。この60年間が異質な時代だったと思えば、別に問題はありません。

そもそも、なぜ、アメリカは北朝鮮の核兵器を許せないのでしょう。アメリカ本土に届く核兵器であれば、ロシアも中国も持っています。北朝鮮が持つことだけを否定しても、アメリカ本土は守れません。私には、弱い者「いじめ」にしか見えません。金正恩が危険だというのであれば、プーチンも習近平も金正恩に負けないくらい危険です。ま、一番危険なのはトランプ自身ですが、自分の国に向けてボタンは押さないでしょう。プーチンは躊躇なくボタンを押すと宣言しています。「たとえ、世界が終わるとしても、ロシアが存在しない世界など、我々は望んでいない」と言っています。習近平が同じ考えを持っているであろうことは容易に想像できます。
元々、中朝同盟は存在します。仮に、新しく中韓同盟が出来たとして、アメリカ軍は北朝鮮に対して軍事行動を起こせるのでしょうか。相手があのトランプですから、その危険は否定できませんが、事実上の米中戦争の始まりになるのですから、普通の感覚を持っている人間であれば躊躇せざるを得ません。そうなれば、戦争を回避することだって、可能になります。
文大統領は、この数か月の間に、その決断をしなければなりません。
もちろん、中国の協力が必要不可欠です。
中国は、軍事的な米中戦争を始めるのは、まだ、時期尚早だと考えているでしょう。しかし、アメリカの301条も秒読み段階に入っていて、中国の尻にも火が付き始めていますので、自分を守るためにも必要だと決断してくれるかもしれません。ですから、韓国にとっては、北朝鮮との対話よりも中国との対話のほうが重要になります。韓国は、今、アメリカに見放されたら孤立無援になります。しかし、中国が韓国と軍事同盟を結んでくれるならば、孤立無援の韓国も生き残ることが出来ます。そのほうが地政学的に見ても自然ですし、韓国軍という戦力が手に入るのですから、中国がアメリカと本気で対決するのであれば、中国にとっても損にはなりません。ただ、それは、習近平の腹一つです。
中国が軍事同盟を結んでくれなかった場合は、韓国はアメリカの命ずるままに、北朝鮮と戦うことになるでしょう。不条理なことですが、韓国の力だけではどうすることも出来ません。最近の中国は、北朝鮮情勢について目立った反応はしていません。「対話を歓迎する」という発表をしたくらいです。韓国の要請に苦慮しているのかもしれません。

何度も書きましたが、韓国が、朝鮮半島を戦場にしても、何の利益もありません。しかし、このままであれば、そんな不条理がやってくるかもしれません。今回は、そんな韓国に焦点を当てて、韓国の不条理について書いていますが、この不条理は、明日、日本に突きつけられても不思議ではないということに、私達は気付いているのでしょうか。日本の国家運営者の皆さんは、北朝鮮問題を「他山の石」として見るだけの視野の広さを持っているのでしょうか。政治家の皆さんは、口を開くと「日米韓、日米韓」という言葉を呪文のように唱えます。私には、既成概念の延長線しか見えていないようで、大変、心配です。
アメリカは、北朝鮮を「ならず者国家」と呼びます。確かに、北朝鮮は「ならず者国家」だと私も思います。では、アメリカや中国は「ならず者国家」ではないのですか。客観的にみれば、北朝鮮よりもはるかに質の悪い「ならず者国家」がアメリカと中国なのではありませんか。もっとも、国際関係では、自分のことを棚に上げて、白々しいことを平然と主張することは認められていますので、アメリカを非難しても意味がありません。でも、私達は、この現実を承知しておかねばなりません。「ならず者」が横行する地球上で、「夢見る少女」を演じ続けるのは無謀というものです。国家体制の変更は簡単には出来ませんから、韓国が向こう側へ行ってしまう確率は低いかもしれませんが、ゼロではないという前提で考えておく必要があるのではないでしょうか。万が一、韓国が向こう側へ行ってしまうと、アメリカ軍の最前線は韓国ではなく日本になるのです。理念も意識も法律も過去に置き忘れたままのこの国が、そんな事態に、対応できるとは思えません。

アメリカ政府は、いろいろな方々が、次々と、辞めています。トランプちゃん(最近は、トランプがお子ちゃまに見えてしまいます)は自分だけが頼りです。いや、スタッフの助言には耳を傾けず、トランプが全てを決める。大統領就任当初「俺は頭がいいから、ブリーフィングなんて、いらねぇよ」と言っていましたが、その自信に揺らぎはないようです。これが、トランプ政権です。金正恩とよく似ています。そう言えば、トランプや金正恩だけではなく、習近平、プーチン、アサド、ドゥテルテというリーダーも、似ています。もしかすると、21世紀のトレンドは、独裁を好むリーダーの時代なのかもしれません。
トランプは、周囲の反対を無視し、金正恩が提案した米朝首脳会談に賛成しました。韓国特使の持ってきた書類に目を通すこともなく、口頭説明だけで会談を快諾したそうです。確かに、「凄い」と言えば「凄い」ことです。ただ、逆から見れば、「馬鹿丸出し」に見えます。トランプだけではなく、人間の能力は無限ではありません。「イケイケどんどん」で失敗しても、諦めずに「イケイケどんどん」を継続する。「そのうちに、うまくいく」というのがトランプ流なのかもしれませんが、大変、傍迷惑であることは疑う余地がありません。
何よりも、トランプは、自慢がしたかっただけのようです。
「ブッシュにもクリントンにもオバマにも出来なかったことが出来たのは、俺が偉大な指導者だからだ」と自画自賛したと伝えられています。この自己顕示欲の強さは、独裁者に必要な条件ですから、トランプちゃんにしてみれば、「やったぞ」という気分なのでしょう。その演説会場は割れんばかりの歓声でした。我を忘れた民衆の姿を見ていると、「アメリカは壊れてしまうのではないか」と心配しますが、私の目が間違っているのでしょうか。ナチスが台頭してきた時、ドイツ国民は熱狂的にヒットラーを支持したそうですが、その光景とダブって見えませんか。
でも、日本国民にとっては、アメリカ政府が朝鮮半島情勢をほんとに把握できているのか、それが心配です。ご存知のように、私達は自分の国を自分で守れない国です。自分達の安全を確保するためには、アメリカ様に何とかしてもらわねばなりません。アメリカの一挙手一投足が、私達の安全に影響するのです。
米朝首脳会談が失敗に終われば、間違いなく失敗に終わるだろうと言われていますが、戦争という選択肢しか残らないということでもあります。特に、自分の思惑通りにならなかった時、激高型のトランプは、今でも危険な存在ですが、更に危険な存在に変身します。
最大の懸念材料は、北朝鮮ではなく、韓国だということに気付いているのでしょうか。
韓国が向こう側に行ってしまえば、状況はガラリと変わります。
以前にも書きましたが、トランプの本音は「なに、戦争になっても被害を受けるのはあっちだ、こっちじゃない」ということなのでしょう。もちろん、アメリカ国民も、そう思っています。自分の街に核兵器が飛んでこなければいいのですから、北朝鮮を叩き潰せという世論があることは不思議なことではありません。朝鮮戦争ではなく、朝鮮半島連合軍対日本の戦争になっても、アメリカは戦場にはなりませんので、笑って見ていることが出来ます。もっとも、トランプは公約に掲げたアメリカファーストを実践しているだけですから、問題はありません。対岸で火事が起きようが、戦争が起きようが、トランプはハンバーガーを食べながら高見の見物をしていればいいのです。
もしも、仮に、万が一、韓国が中国側に立った時、アメリカはどう動くのでしょう。
「晋三、お前と俺で、奴らを叩き潰すぞ」と言われたら、安倍さんはどんな返事をするのでしょう。
「地元なんだから、お前が先陣に立ってくれ」と言われるかもしれません。
「いや、うちは、その、専守防衛というか、憲法の制約があって、あの、その」
「ごちゃごちゃ言ってないで、やれよ。それとも、できないのか」
「いや、それは、その」
「俺達、友達だよな。裏切るのか」
「いや、でも、あの、その」
ここまで書くと小説の筋書きになってしまいますが、事実は小説よりも奇なりという言葉もありますので、あり得ないと断言もできません。
私達の国は、日米同盟が安全保障の基軸なんですよね。とても、日米同盟を破棄する勇気は持てませんよね。でも、どう考えても、朝鮮半島連合軍対日本の戦争なんてできません。日本の国益を考えれば、そんな戦争、出来ることではありません。韓国が、朝鮮戦争を歓迎できないように、日本も、日韓戦争や日朝戦争を歓迎できません。それでも、アメリカは「何とかしろ」と言うでしょう。
安倍さんは、どうするのでしょう。
戦争になれば、日本各地にミサイルが、雨霰のように降ってきます。その中には、核兵器や化学兵器も含まれているでしょう。イージス艦もパトリオットもJアラートも何の役にも立ちません。アメリカが核兵器を使おうとすれば、中国がアメリカ本土に対して報復攻撃をすると脅してくるかもしれません。
さて、どうするのでしょう。
中国海軍が東シナ海に展開し、アメリカ軍第七艦隊と睨みあいます。ロシアの爆撃機は演習だと称して、北海道・東北・関東を脅してくるでしょう。日本の戦力も分散されます。前面に韓国軍と北朝鮮軍、南に中国軍、北にロシア軍。いわゆる、四面楚歌状態です。韓国のF-15が、日本の原子力発電所を攻撃してきます。厄介なことに、韓国は、日本と戦う時は、いつもより力を出します。そんな中、アメリカは国を挙げて日本を守るのでしょうか。アメリカ軍が撤退したら、どうやって、国を守るのでしょう。
どうするんですか。
「あのー、そのー、えー、あー」と言っている間に、国民はバタバタと倒れます。日本でも、数百万人の犠牲者が出ると予測する方もいます。
安全保障は、国民を守るためにあるのです。こんなことしていたのでは、日本の安全保障は役に立ちません。いや、日米同盟が基軸だと言っている時点で破綻しているのですが、実害が出て初めて気付くのでしょう。韓国の文大統領は、方法論の良し悪しは別にして、国民を守ろうとしているのです。どこまでやれるのか、彼の運と度量にかかっていますが、国民を守る方法は他にないと思います。

時代の変化は軍事同盟に影響しないのでしょうか。
韓国が、冷戦時代に結んだ米韓同盟を維持するメリットはどこにあるのでしょう。
10年前、20年前、50年前と今では、環境が全然違います。中国が力を付けました。北朝鮮が核兵器を持ちました。アメリカには、トランプが出てきました。韓国には左翼政権が誕生しました。10年前と変わっていないことは、韓国が甚大な被害を受けるということだけです。
方向を変えなければ、韓国の明日は見えてきません。
韓国にとって、今が、チャンスなのです。いや、チャンスは今しかありません。

北朝鮮には、核兵器約100個分の核物質があると言われています。ICBMの技術が未完成だとしても、中距離ミサイルに核兵器を搭載することはできるでしょう。日本を攻撃するには十分な兵器を持っているということです。仮に、韓国と北朝鮮が同盟を結び、核物質を共有したとすると、韓国にある5,000発分の核物質が北朝鮮に利用されることになります。日本列島を粉微塵にするだけの核兵器を作ることが出来るのです。
日本は、単独で中国と戦争をしても勝てません。そのために日米同盟があるのです。中国の世界制覇を許さないという点では、日米の国益は一致します。対中国では同盟関係は機能するのです。でも、日韓戦争や日朝戦争では、全面的に国益が一致するとは言えませんので、独立国として、国民を守るために、少なくとも、韓国や北朝鮮には日本が独自に勝たねばなりません。北朝鮮が大量のミサイルと核兵器を持っているのですから、そんな敵と戦うのであれば、日本にも大量のミサイルと核兵器が必要なのです。核兵器を抑止する手段は、核兵器にしかありません。過去にとらわれ、非核三原則に縛られていたのでは、国民を守ることなど出来ません。国民生活よりも非核三原則のほうが重要なのでしょうか。もちろん、「核のない世界」という理想は捨てるべきではありません。ただ、その前に、国民を守らなければ元も子もなくすのです。私達は「きれいごと」が大好きな民族です。識者と言われる人達は、的確な現状分析が出来る識者であっても、国家存亡の危機だと主張していても、最後の最後は「きれいごと」でまとめてしまいます。「きれいごと」という名の曖昧のベールで全体を覆ってしまいますので、全てが曖昧になって、何事もなかったような安堵感に酔いしれます。この落差は、何なのでしょう。私には、マスターベーションにしか見えません。「夢見る少女」をやっていれば、気持ちがいいかもしれませんが、これでは、現実に対処できません。
北朝鮮の核を廃棄させるために、アメリカの命ずるままに、日韓戦争・日朝戦争を始めていたのでは、本末転倒です。核兵器に対する抑止力は、核兵器以外では持てないのです。自分も核兵器を持つという選択肢しかないことを、日本の国民が認識しなければならないのです。世界は、変わりました。それでも、自分の国は自分で守るという原則だけは変わっていません。
日本では、誰も、こんな事態を心配していません。
ほんとに、大丈夫なのですか。
荒唐無稽な笑い話で片付けていいのでしょうか。

今の韓国の運命は、明日の日本の運命になるかもしれないのです。私達にとっては、米朝戦争よりも、朝鮮半島連合軍対日本の戦争のほうが悲惨です。こんなフィクションはフィクションで終わって欲しいものです。確かに、日韓戦争の確率は数パーセントかもしれません。でも、危機管理とは、確率が高いか低いかではなく、最悪の事態を想定し、それに対処できる手段を持っておくことだと思います。
私達は、その覚悟を、戦略を、持っておく必要があると思います。
戦争になれば、物質的に困窮することは想像できるかもしれませんが、それよりもダメージが大きいのは精神的な困窮です。第二次大戦前の日本は、まだ、貧しく、貧しさに耐えることが日常でしたから、精神的に追いつめられる度合いは低かったと思います。今の日本で、戦争状態が生まれれば、日本人は耐えきれません。精神的な耐性が無くなるということは、一過性の症状では終わりません。かなりの長期間、日本再生は難しくなります。国でも個人でも、浮き沈みはあるものです。でも、可能な限り、ダメージを小さくすることが、次につながるものです。それが、覚悟と戦略だと思います。
最後に、念のために書いておきますが、これはフィクションです。実在する国や個人とは一切関係がありません。フィクションです。

このフィクションを書いた後に、関連した記事やニュースが多くありましたので、そのことを追記として、明日書きます。


2018-04-02



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戦争の変貌 [評論]



先月に続き、今日も、安全保障の話を書きます。
今更、安全保障の議論など意味がないと言われれば、その通りなのですが、それでも、議論はしておくべきだと思います。また、私の主張が正しいと言うつもりはありません。できれば、原点に立って議論してもらいたいと願っているだけです。
石田は、天皇制や安全保障という触れてはならない事を度々取り上げています。国家運営者や国民に対しても責任を果たせ、と書いています。右翼の方にも、左翼の方にも、権力者の方にも、国民の皆さんにも、受けが悪いことばかり書いています。大丈夫なのでしょうか。自分でも、あまり自信がありません。

中国でも改憲の動き、という記事を読んで、知識のない私は、「へぇー、中国にも憲法があったんだ」と驚いてしまいました。
共産党による一党独裁国家ですから、中国の最高法規は中国共産党の党綱領だと思っていたのです。中国憲法は読んだことはありませんし、私が読んでも意味がありませんので、あってもなくてもいいようなものですが、やはり、驚きました。いや、中国でも、庶民にとっての憲法は「俺には関係ねぇ」法律なのかもしれません。その点では、日本と同じです。
憲法が改正されたという話なのか、これから改正されるという話なのか、よくわかりませんが、国営新聞や国営放送が宣伝していて、ネット規制が厳しくなっているという現象を見る限り、既に、既成事実なのかもしれません。
流石に、中国といえども、習近平の一言だけで法律が変更されるとは思えません。それなりのプロセスがあると思いますが、憲法の立案機関も、その審議機関も、決定機関も習近平の手中にあるのですから、事実上、彼の一言で決まったということなのでしょうか。
憲法を変えて、国家主席の任期条項を撤廃するということは、習近平が終身国家主席になるということであり、習王朝の皇帝になるということです。次の国家主席を目指していた人、次の次の国家主席を目指していた人に国家主席という目標は持てなくなりました。更に、憲法を変えて、世襲条項を追加すれば、習王朝の完成です。習近平一族でない人達にとっては最高権力者になる道はなくなったということですから、不満を抱えた人達が大勢生まれたということでもあります。ただし、その不満を口にすれば、腐敗撲滅運動の犠牲者になることを意味しますので、それは、逮捕・監禁・有罪判決を意味しますので、不満分子は地下に潜ることになります。今でも、中国は独裁国家ですが、個人による独裁という前近代的な体制になるということですから、お決まりの反乱と鎮圧の歴史を作るのでしょう。
習近平は、独裁者になりたいという願望を隠さなくなりました。トランプも、本音では、独裁者になりたいと願っていると思います。トランプは、習近平への祝辞ともとれるツイートをしているのですから、トランプの本音は、習近平のことを羨ましいと思っているのでしょう。
私は中国国民ではありませんので、他国の政治体制がどのような体制になっても「俺には関係ねぇ」のですが、問題が一つあります。それは、独裁者は戦争をしたがる傾向が強い、ということです。自分の思い通りになる国を作りたいと思う人は、独裁者になりたいと思う人は、世界をも自分の思い通りにしたいと願うものです。人間の欲には限りがありませんので、特に、権力者は強欲なものですから、仕方がありません。世界制覇のためには、独裁者にとっては、戦争という手段は欠かすことができません。
ここでも、いよいよ、第三次世界大戦の環境が整えられていきます。
一方、トランプ大統領の出現で、西側諸国の結束は万全ではありません。好き勝手をやっているのは、習近平だけではなく、トランプも西側諸国の結束を破壊し、好き勝手をやっていて、習近平といい勝負をしています。今や、G7はバラバラです。思想信条という縦糸が無くなってしまったのですから、仕方がありません。
イギリスはEU離脱問題で、経済的苦境が予測されるなか、中国と対立したくないでしょう。ドイツは、数か月かけて、やっと、連立政権が出来た状態で、メルケルさんの力も衰えました。経済的な側面では、ドイツとアメリカは競合する場合があり、全面的にアメリカ依存ができない経済構造があるのです。イタリアは、どの政党も税金のばら撒き政策を競っています。それは、国民が疲弊していて、人気取りをしなければ選挙に勝てないからです。借金の多いイタリアですが、国家財政よりも、世界情勢よりも、国内経済が問題なのです。カナダは、アメリカとの通商条約でギクシャクしています。農業立国のフランスでは、農家の倒産が増えています。
どこの国も、自国の経済のことで精一杯の状態ですから、自由や民主主義や人権は旗印としての役目を終えてしまったのかもしれません。昔からそうでしたが、特に今は、どこも「カネ、カネ、カネ」になってしまいました。中国の落としてくれる大金を無視し、中国に歯向かおうとする国は、自国の経済を犠牲にしなければなりません。そもそも、G7のリーダーだったアメリカが思想信条を捨てて、カネに特化してしまったのですから、トランプはEUとの貿易戦争でさえ否定していませんから、アメリカへの義理は以前よりは小さなものになりました。西側諸国にとっては、中国もアメリカも同じ穴の狢に見えているのではないでしょうか。以前に、ドイツのメルケルさんは「欧州独自の軍事同盟が必要な時が来たのかもしれない」と言っていました。
G7の中で、アメリカのポチを貫き通しているのは日本だけです。こういう書き方をすると日本を褒めているように思う方がいるかもしれませんが、日本は、自分で自分の国を守れない国だという次元の低い話だという意味です。
さて、世界の揉め事はアジアだけではありません。シリアでは、化学兵器が通常兵器並みに使用されています。化学兵器や核兵器は人道上許せない兵器だという国際認識は、信義の上に成り立っていた条約は、過去の幻影になりつつあるのです。軍事的には、シリアのアサド政権を支援しているロシアの存在感が増しています。ロシアは化学兵器大国ですから、実戦で使った場合の結果は知りたかったのかもしれません。プーチン大統領は、どこの国も対応できない最新兵器を実戦配備したと誇らしげに演説しました。仮に、それがブラフだとしても、ロシアは、今でも、世界最強の核兵器保有国の一つです。世界に、ロシアの軍事力を誇示するやり方は、次第にエスカレートしています。最近までは、空自のスクランブルと言えば東シナ海に集中していましたが、三沢からもスクランブルの戦闘機が度々飛んでいます。それは、ロシアが爆撃機を日本周辺で飛ばしているからです。「我々は、いつでも、日本を壊滅させる力を持っている」ことを、日本政府とアメリカ政府に伝えておきたいのだと思います。イランもミサイル発射テストは繰り返していますし、核兵器の開発も進んでいるでしょう。イランは、パキスタンや北朝鮮の核技術も獲得しているかもしれません。イランとイスラエルの核戦争の可能性もあります。いや、イランのミサイルの射程には欧州も含まれているものと思います。世界にも、敵の敵は味方という方程式があります。中国とロシアとイランと北朝鮮の利害は一致します。アメリカと欧州が一枚岩ではない現在、これらの独裁国家連合にアメリカは対応できるのでしょうか。
北朝鮮だけではなく、世界のどこかで、核兵器の抑止力が崩壊する危険が高くなっています。アメリカも核兵器の再開発へと舵を切りました。どこかで、誰かが、核兵器を使用し始めたら、誰にも止めることはできなくなります。アメリカの核兵器再開発の目玉は、小規模核兵器の開発です。爆発威力を小さくするということは、その形状も重量も小さくなるということであり、ステルス性能の高い小型無人機による核攻撃が可能になります。都市一つを壊滅させる兵器でなくなれば、気軽に使用できる兵器になります。シリアで化学兵器が平然と使われているような状況が、核兵器でも起きると思わなくてはなりません。つまり、これまでの戦争と、これからの戦争は別のものになる可能性が高くなっているのです。


では、私達の国は、どんな環境にあるのでしょう。
地球上に騒乱の空気が生まれ、国家間の争いが戦争に発展する危険が増している状況で、私達に出来ることは何なのでしょう。理想を掲げ、地球平和運動を起こすことなのでしょうか。地球平和運動は、戦争を防止することは出来ませんが、少なくとも、自己満足だけは手に入ります。結果は出ませんが、運動をやることでハッピーになれる人がいるのであれば、充実感らしきものを得られる人がいるのであれば、趣味としての価値はあります。
しかし、現実から逃げていたのでは、国民を守ることなど出来ません。人間が人間をやめない限り、戦争の防止は不可能なのですから、これが現実なのですから、戦争は起きるものだとして対処する以外に方法はないのです。
どこの国にも軍隊があります。それは、自国を自分の手で守らなければならないからです。永世中立国のスイスには軍隊などないのではないかと勘違いしている人がいますが、徴兵制などないと勘違いしている人がいますが、スイスは国民皆兵の国なのです。全ての国民に訓練の義務がありますし、訓練をした国民には国から武器が支給されます。スイス国民は全員が軍人なのです。非武装中立など、地球上では成り立たない方程式であることを、スイスは知っているのです。「徴兵制反対」を叫ぶ日本との落差は大きいと思います。最終的には、徴兵制を選択するのか、皆兵制を選択するのかということなのです。軍人希望者だけの軍隊が意味を持つのは、平時だけです。最近、徴兵制度を復活させる国が出てきました。これが、自然の流れなのです。
日本の自衛隊は、世界的に見れば、立派な軍隊です。世界ランキングでも7位に入る力を持っています。
参考までに、軍事力の世界ランキングを載せておきます。
1位 アメリカ    2位 ロシア   3位 中国
4位 インド     5位 フランス  6位 イギリス
7位 日本
8位 トルコ     9位 ドイツ   10位 イタリア
11位 韓国     12位 エジプト  13位 パキスタン
14位 インドネシア 15位 イスラエル 16位 ベトナム
17位 ブラジル   18位 ポーランド 19位 台湾
確かに、ハードウェアでは、世界7位です。
でも、日本に不足しているのはソフトウェアです。ソフトウェアという面だけを捉えれば、世界ランキングは3桁(100位以下)になるのではないでしょうか。
では、欠けているソフトウェアとは何でしょう。
それが、次の「3欠」です。
1.国としての国防理念の欠如。
2.国民の国防意識の欠如。
3.国防に不可欠な法律の欠如。
これでは、実戦になった時に、戦うことは出来ません。
中でも最も難しいのが、2番の「国民の国防意識の欠如」です。残念ながら、この意識の欠如は、国民の自主性に任せていたのでは出来ません。長い年月をかけて、たゆまぬ努力をして、初めて醸成されるものです。もちろん、好戦国になれ、と言っているのではありません。戦争は出来るけど、戦争をしない国にならねばなりません。
自衛隊は、警察予備隊として生まれました。その後、保安隊になり、現在の自衛隊に名称を変更しました。最初は、警察の予備だったのです。アメリカの要求に応じて、装備を買い続け、装備だけは一人前の軍隊に見えるようになりました。自民党が得意とする「なし崩し」方式で、ハードウェアだけは手に入れたのです。今でも、憲法9条に自衛隊という文言を追加しようという「なし崩し」方式は続いていますので、何も変わっていません。理念や意識や法律は、70年前の場所に置き去りにしたままなのです。
装備もあり、自衛隊員は訓練もされていますから、戦争になれば、「それなり」に戦ってくれるものと思います。でも、「それなり」の戦い方では国は守れません。そもそも、自衛隊員の皆さんは、何のために、自分の命を懸けて戦うのですか。給料を貰っているから、戦うのですか。そんなことで、戦えるのでしょうか。私なら、いの一番に逃げ出します。理念に賛同し、国民の願いを背中に背負い、自分のためではなく、誰かのために戦うことが自分の使命だと思わなければ戦うことなど出来ません。しかも、法律の不備により、後で訴追されるのであれば、誰だって二の足を踏むことになります。
何度も書きますが、国を守るという意味は、国民生活を守るということなのです。守るべき国民が、「俺には関係ねぇ」と知らぬ顔をしているのに、国を守るという動機は保たれるのでしょうか。自衛隊員だって人間です。モチベーションが下がったとしても不思議ではありません。
自衛隊の最高指揮官は総理大臣です。そうであれば、総理大臣は部下である自衛隊員に恥ずかしくないような環境を整備する義務があるのではないでしょうか。それが、理念の構築と意識の醸成と法整備なのだと思います。
自衛隊が戦う相手は、イランやシリアではありません。隣国である、中国やロシアや韓国や北朝鮮が相手です。仮想敵国に中国とロシアが入っているのですから、独力で戦えないとすれば、アメリカと軍事同盟を結ぶことも必要です。アメリカの国益と日本の国益を満たすために、協力することは意味のあることです。でも、アメリカに「おんぶにだっこ」状態ではアメリカの国益を毀損することになります。そんな国を、アメリカは同盟国として尊重してくれるでしょうか。平時であれば、「私に、任せておきなさい」と言っていたとしても、戦時になれば、「今、そんなこと、言っている場合ではないでしょう。自分のことは自分で守りなさいよ」と言われると思います。それが正論なのですから、それ以上の要求はできません。アメリカが、手のひらを返さないと保証してくれる何かがあるのですか。日本を守るかどうかは、アメリカが決めるのです。軍事同盟は、あくまでも、補完措置です。アメリカに助けてもらいたいのであれば、日本も、アメリカが日本の力が必要だと言った時には、アメリカを助けに行かねばなりません。お互いに守り合えば、そこに責務が生まれるのです。もちろん、そこまでしても、アメリカが日本を守るという確証はありません。でも、少なくとも、「おんぶにだっこ」では、本物の同盟は生まれません。そんな不確実な国防理念では、国民の生命と財産をアメリカ軍に預けたと勝手に思い込んでいただけでは、国民を守ることなど出来ないと思います。アメリカ政府は、日本国民を助けるためだけに、アメリカ国民に「死んでくれ」とは言えません。当たり前のことです。
「だったら、戦争なんて、しなければいいのだ」と言って逃げる人ばかりです。結果を否定すれば、万事丸く収まるという発想は日本人に特有な考え方なのでしょうか。「デフレを脱却すれば、日本は再生する」という提案と似ています。戦争もデフレも、結果なのです。右の旦那さんも左の旦那さんも同じ提案をするということは、きっと、そういうことなのでしょう。国民は、日本の国民だけではなく、どこの国の国民も、戦争なんてして欲しくないと思っています。でも、現実は違います。戦争は、必ず、起きるのです。今、戦争になっているシリアで、シリア国民は、戦争をして欲しいと願っていたのですか。そんな願いは誰も持っていなかったと思います。でも、毎日、多くの市民が犠牲になっています。その現実に目をつぶっても、何も変わりません。「戦争反対」と叫ぶ人達は、その言葉に酔いしれるかもしれませんが、無責任な夢物語を叫んでいる人達は自己満足という名の快楽を得ることができるかもしれませんが、国民の利益を毀損していることに気付いているのでしょうか。
「あちゃー」と言うしかありませんが、「あちゃー」で済む話ではないのです。
私達の目の前にあるものは、私達自身の危険なのです。
中国は、なぜ、反日教育に力を注いできたのでしょう。日本憎しの怨念でやっているのでしょうか。違いますよね。国民の国防意識を醸成する手段として日本を利用しているのです。推奨できるやり方ではありませんが、少なくとも、日本のお花畑理論よりは、はるかに、理に適ったやり方だと思います。数十年という時間を使い、力を付けてきた中国に、私達の国は対抗できるのでしょうか。中国と日本のソフトウェアの部分だけを比較してみます。会社員に例えると、中国は時間をかけ、実績を積み重ねて、企業の中枢を担うまでに成長したビジネスマンです。一方、私達は、まだ就職もしていない、いや、義務教育も終えていない、いやいや、まだおしめも取れていない幼児です。これでは、勝負になりません。
戦闘機の優劣や潜水艦の優劣だけで戦争の勝敗が決まるのではありません。戦争では、総合力で勝るほうが勝つのです。当然、その中には、ソフトウェアの優劣も含まれます。
真剣な安全保障議論をせずに、国を守ることなどできません。


2018-04-01



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何ともならない事 [評論]



「米中戦争前夜」という本が話題になっています。
既に、この本を読まれた方もいると思いますが、私は、いつものことですが、読んでいません。それよりも、どうして、10年前に出版されなかったのか、どうして、10年前に話題にならなかったのか、そちらの方が不思議です。
ど素人の私が、第三次世界大戦という評論を書いたのが、2010年です。もちろん、その時に思いついて書いたわけではありませんので、その危惧を持ち始めたのは、それよりも5年か10年前だったと思います。20年前にこの本が出版されていれば、驚きを持って、いや、眉に唾を付けながら、読んでいたと思います。
著者は、グレアム・アリソンという方で、何冊も本を書いておられる著名人です。
アリソン氏は、今の米中対立は、75%の確率で戦争に発展すると書いています。
そんなことは、アリソン氏に言われるまでもなく、多くの方が知っています。
条件は刻々と変化していますので開戦時期は流動的ですが、時間軸を長くすれば、第三次世界大戦は必ず起きます。米中戦争はその一例にすぎません。
戦争を回避する処方箋も書いておられるようですが、その回避策が実現する可能性は、とても低いと思います。なぜなら、プレイヤーがコンピューターではなく人間だからです。
株式市場に参加している方であればご存じだと思いますが、株取引の鉄則は「損切り」です。この「損切り」がなかなかの曲者で、理屈としては理解できるのですが、実際に行う場合はかなりのストレスを生み出します。それは、人間が「欲」の塊だからです。人間は、そのストレスから解放されるために、取引そのものをコンピューターに依存する方式が増えていると言われています。「損切り」ラインを設定し、株価がその価格を下回ると、コンピューターが、自動的に、強制的に注文を出すという仕組みです。
つまり、人間は自分の「欲」を制御できない生き物なのです。ましてや、他人の「欲」を制御することなどできません。ですから、争いが起きるのです。
人間社会では、正義も理想も敬意も愛も信義も相互理解も意味を持ちません。あるのは「欲」だけです。それが現実なのです。どこの国でも、自国の国益を最優先します。国益とは、「欲」に他ありません。国益が、正義よりも理想よりも敬意よりも愛よりも信義よりも相互理解よりも優先度が高いということは、「欲」こそが最強の存在なのです。私達はこの現実を受け入れ、理想と現実の境界線を曖昧にしてはいけないということです。
私達の日常生活でも同じで、表面上は「欲」を隠して生活していますが、決定権は、常に、「欲」が握っているのです。
国際関係で「自分さえよければ」が表面化するのは、この「欲」が堂々と出てくるからに他ありません。「国益最優先」とどこかの国が言っても、それに反対する国は出てきません。なぜなら、どこの国も自国が「国益優先」を叫ぶ日がくると信じているからです。
それでも、私達は生き延びなければなりません。
ただし、これも「欲」です。
どのみち、「欲」から逃れられないのであれば、少しだけ、ましな「欲」と付き合うしかないのだと思います。
そのためには、私達自身が「生き延びる」ための努力をするしか道はないと思います。
「誰かが、何とかしてくれる」なんてことは起きません。
今想定できる戦争は、開戦時期がいつになるのかはわかりませんが、アリソン氏も指摘している米中戦争だと思います。既に、太陽光パネルや洗濯機の関税で、貿易戦争の火ぶたは切って落とされています。4月以降、鉄鋼やアルミの関税が変更されれば、加速する可能性があります。アメリカとEUと日本が共同で、中国の知的財産権侵害をWTOに提訴するという話もあります。もちろん、中国も黙っていることはありません。もしも、アメリカが日米貿易摩擦の成功体験に影響されているとすると、大人しく尻尾を巻いて「ごめんなさい」をした日本と、ごり押しの中国とを同一視していると、落とし穴は大きなものになります。
どんな展開が待っているのか、誰にもわかっていないと思います。少なくとも世界経済は打撃を受けるでしょう。世界経済が影響を受けるということは、日本経済は大打撃を受けるということです。
「欲」の行き着く場所は戦争なのですから、今年始まっても、10年後に始まっても不思議ではありません。
では、アメリカと中国が戦争するだけでしょうか。
日本は、この戦争の影響を受けないのでしょうか。
いいえ、経済的な打撃を受けるだけではなく、軍事的な打撃も受けます。
それだけではありません。これは世界大戦になります。
世界地図を見れば一目瞭然ですが、海を無視すれば、アメリカの隣国は日本であり、中国の隣国も日本です。広大な太平洋という空間があるために、勘違いしがちですが、私達の国はアメリカと中国の真ん中にあるのです。いくら、私達が米中戦争と無関係であると主張してみても、意味がありません。立ち位置によって違いはありますが、日本にとっての米中戦争は、日中戦争になるか日米戦争になるのです。
戦争になれば、アメリカはアメリカの国益のために、中国は中国の国益のために戦うのであって、日本の国益など考慮する余裕はありません。日本の国益は、日本自身が守るしかないのです。国民の間で、そのことが語られないことが大変心配です。国家運営者の皆さんは、「日本の国益が心配だから、アメリカに守ってもらうのだ。そのためには、アメリカの要求を呑むしかないのだ」と言うと思いますが、そこには基本部分での勘違いがあります。日米同盟があれば、「アメリカはどんなことをしても日本を守ってくれる、筈だ」という信仰です。しかし、アメリカが日本を守る必然性は、どこにもありません。アメリカ軍兵士の命も、アメリカの国益です。その国益を犠牲にしてまでも、他国を守る必然性は、どこにあるのでしょう。もちろん、アメリカの国益と日本の国益が一致した場合は、アメリカは自国の利益のために戦います。その場合、日本は、棚から牡丹餅が落ちてきたことを喜んでもいいと思います。でも、あくまでも、アメリカはアメリカのために行動するのです。
夢や希望的観測や信義などは、国益の前では何の意味もありません。世界は実利によって動くのです。国外では「なあ、なあ、固いこと言わずに、そこをなんとか」という助平根性は通用しません。
「そんなことを言ったら、身も蓋もない」と言うでしょうが、「その通り、これは身も蓋もない」話なのです。私達は、身も蓋もない話に賭けているのです。結果が出て、いつものように、「二度とこのような失敗をしないように」と言うのでしょうが、「二度と・・・・」は必ず継続するのが世の常です。事前に回避する知恵を持つしか方法はないのではありませんか。
確かに、第二次世界大戦での敗戦は、日本にとっては歴史上初めての敗戦でしたから、そのショックは大きかったと思います。そのショックから逃避しようとして、私達は、全員で、仮眠状態に入ってしまいました。そして、未だに、私達は仮眠状態のままです。この70年間、その仮眠状態を推奨してきた左翼の皆さんの罪も重いと思いますが、一番重い罪を背負っているのは私達国民だと思います。仮眠状態の国民が、同じく仮眠状態にある国民の中から国家運営者を選び、自分の役割は終わったと思っている国民に最大の罪があります。
それ以上に、今でも、国民は「俺には関係ねぇ」と思っているのですから、救いがありません。「俺、何か、悪いことをしたか。何も悪いことはしてないよね」と信じています。でも、それは国民の責務が明らかになっていないだけに過ぎません。何もしないことが国民の責務ではありません。「国民とは」という定義が存在していませんので、誰一人、それが自分のせいだとは思わなくて済んでいます。これって、都合の良い責任転嫁なのではありませんか。「赤信号、皆で渡れば怖くない」「俺だけが眠っているわけではない。皆で眠っているのだから、いいじゃない」という私達の性癖は、自分を壊すだけなのではありませんか。誰のための国なのでしょう。そうです。私達国民のための国であるはずです。そうであれば、国民がその責任を背負うしかないのだと思います。例え、政治家や官僚や「誰かのせい」にしても、最終的に責任を取るのは国民なのですから仕方がありません。

私は、度々、いや、くどい程、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義が必要だと書いています。では、その定義をすれば、私達は生き延びることができるのでしょうか。いいえ、そんなことは保障されていません。そもそも、「定義が出来たら、誰もが定義に従うだろう」なんてことは起きません。定義そのものも完璧な定義はできませんし、誰もが定義を守るという保証など、どこにもありません。あくまでも、これは、原則論です。いや、理想と言ってもいいのかもしれません。ただ、曖昧文化から、ほんの少しだけ、離脱できるかもしれません。それは、この国の運営をする上では、画期的なことになると思います。原則ができれば生き延びるチャンスだけは生まれます。ただし、それは、国家運営に「俺には関係ねぇ」と思っている国民がどれだけ関与できるかにかかっているのでないかと思います。
そもそも、理想という言葉はどうして生まれたのでしょう。それは、欠陥だらけの現実があったから出来たのではありませんか。ただし、理想は理想であり、現実ではありません。そんなこと、誰でも知っていることです。では、理想なんて必要ないのでしょうか。いいえ、人間の社会では、理想は必要です。人間は、目標がないと動けない生き物なのですから、目標はあったほうが動きやすいものです。ただ、理想と現実の間の境界線が曖昧だと、理想は邪魔になる場合があります。その端的な例が日本国憲法です。憲法には「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するものであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれています。では、崇高な理想を信頼すれば、私達の安全と生存は保障されるのでしょうか。世界は、崇高な理想を達成しているのでしょうか。いいえ、現実は、そんな世界にはなっていません。仮に、同じような前文の憲法を持つ国があったとしても、そんなことを信頼している国民はいないでしょう。世界では、理想と現実が区別されているのが現状です。
崇高な理想があるのであれば、いや、それが実現しているのであれば。
ロシアがウクライナの一部を併合していないでしょう。
中国は、チベットやウイグルを圧政下に置いていないでしょうし、南シナ海や東シナ海で、ごり押しをして領土の拡張をすることもないはずです。
アメリカが、脅し文句で自国の利益を押し付けるようなこともないでしょう。
北朝鮮だって、核やミサイルで世界を脅していないものと思います。
地球上に、理想が成り立っていない場所は、いくらでも存在しています。
つまり、理想と現実の方程式は成り立っていないのです。「平和を愛する諸国民の公正と信義」という理想が成り立っていない状況で、「われわれの安全と生存を保持」することが可能なのでしょうか。
いいえ、不可能です。
なぜ、この現実を見ようとしないのでしょう。
そうです。国民の皆さんは、眠っているのですから、見ることが出来ません。
理想と現実を峻別し、現実に則した安全保障の議論をする必要があるのです。
確かに、手遅れなのですから、今更、議論をしても意味はないかもしれません。でも、議論をしないより、議論をしたほうが、可能性が増えることは期待できます。確固たる指針のないままで、現状の安全保障環境に対応するのは危険を増やすだけです。「自衛隊という文言を憲法に書きこめば何とかなる」という発想が生まれるのも、確固たる指針がないからです。「日本会議」に洗脳された安倍さんに安全保障を丸投げしてはいけません。彼等の安全保障は、国民のためにあるのではなく、彼等の主義主張のためにあるのです。もちろん、一つの意見として耳を傾ける必要はあります。でも、あくまでも、安全保障の目的は国民を守ることです。私達国民の責務の中には、本音と建て前を見極めることも含まれていると思います。「日本会議」の建前である「国民の安全と平和を守る」という文言に騙されてはいけません。文言は同じでも、本音は別にあるからです。彼等の目的は神教による国家統治です。これは、民主主義ではありません。
では、どうすれば、そのような安全保障論議ができるのでしょう。
国民が、目を覚ますしかありません。
誰かに丸投げの安全保障では、国民の皆さんの「安全と生存の保持」は難しいと思います。

私達は戦争に負けましたが、占領軍がアメリカ軍であったために、占領による悲惨な体験は小さなものでした。もちろん、アメリカ軍による事件はありました。今でも、沖縄では起きています。しかし、もしも、占領軍が中国人民軍だったら、どうなっていたでしょう。今、チベットやウイグルは、どうなっているでしょう。
アメリカは、自由と民主主義と人権を旗印にしています。自由と民主主義と人権を相手国に強要しますが、同時に、自分達もその旗印に縛られています。しかし、中国は違います。報道統制が行われていますので、チベットやウイグルのニュースは限られていますが、随分昔に、チベットでは数十人の僧侶が、抗議のために焼身自殺をしたというニュースがありました。焼身自殺なんて簡単には出来ません。しかし、彼等は、次々と、数十人も、抗議の焼身自殺を続けたのです。それでも、その後も、弾圧は続いています。ダライ・ラマが外国を訪問すると、中国はヒステリックに反応します。これは、私の推測にすぎませんが、中国はダライ・ラマに脅しをかけていると思います。「お前が、外国を訪問する度に、千人のチベット人を殺す」と脅しているかもしれません。ウイグルでは、ある日、突然、誰かが消えます。黒い袋を被せられて、中国官憲に拉致されるところを目撃した人もいます。行先は、強制収容所です。そこは、絶望収容所と呼ばれることもあるそうです。もちろん、こんなニュースは日本のテレビや新聞では伝えられません。裏を取りに中国へ行けば、スパイ罪で逮捕されるだけですから、噂を聞いた人達だけしか知りません。
私達の国は、他国による理不尽な弾圧というものを体験していません。日本人には、弾圧という言葉の意味も理解されていないと思います。自由はありません。搾取も、殺戮も、凌辱も、侮蔑も、日常になります。「こんなはずではなかった」と思うでしょうが、二度と昔に戻ることはできません。中国がやっていることは、ヒットラーがやったことと同じです。民族の浄化だって起きる可能性もあります。こんな想像をしている日本人が何人いるのでしょう。戦に負ける、征服される、占領されるというのは、そういうことなのです。
あの時、どうして、本気で、安全保障を考えなかったのだろう、と思った時は後の祭りなのです。巷で、よく「日本人は、痛い目に遭わなければ、気が付かないだろう」と言う方がいます。時々、私も、痛感します。能天気な他人事で済んでいるのです。やり直しができるのであれば、こんな心配をする必要はありませんが、二度と、やり直すことなどできないこともあるのです。「何とかなる」ことがあるのは私も認めます。いや、「何とかなる」ことのほうが多いでしょう。だからと言って「何ともならない」ことが存在しないということにはならないのです。
少し話題は逸れますが、日本は世界最大の債権国だから財政破綻など発生するはずはない、と信じている方が大勢います。戦争になれば、債権の回収など不可能です。世界相手の債権が多ければ多い程、受けるダメージは大きくなります。
今日の延長線上に明日が来るという信仰は、いつでも崩壊する神話に過ぎません。

国民の皆さん。
この国は、近い将来、破綻します。目を覚まし、真剣に、私達が歩んでいる道の先にあるものを見る勇気を持てば、誰にでも危険が見えるはずです。薔薇色の未来が見えると喜ぶ方はいないと思います。
財政破綻又はハイパーインフレ、大量老人破綻、戦争破綻。どれが最初にやって来るのかはわかりませんが、結果にそれほどの差はありません。どうして、不幸は束になってやって来るのか、ほんとに、不思議です。この法則は、理解不能ですが、実在していると思うしかありません。
その時は、泣き言を言ってください。大声で叫んでもいいです。
でも、これは、皆さんが選択した道なのです。積極的に選択したか、消極的に選択したのかは問題ではありません。選択したことに問題があるからです。
「俺は、こんな選択していない」と言う方がほとんどでしょう。
「では、あなたは、何をしたのですか」
「そんなもん、俺達の仕事じゃないし」
「いいえ、それが、あなたの仕事なのです」
「だったら、最初から、そう言ってよ」
「誰かのせい、なのですか」
「そうだろう」
「いいえ、自分の仕事を知ることも、あなたの仕事なのです」
確かに、日々、生活することに忙しい皆さんに、頑張っている皆さんに、こんなお願いをするのは筋違いだと言われるかもしれません。でも、国民の皆さんにお願いするしか選択肢がないのです。皆さんが、最後の砦なのです。どうか、目を覚ましてください。
自業自得という言葉を自分の身で証明するのは、辛いことだと思います。


2018-03-02



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被害想定 [評論]

地球規模の話ですが、マグニチュード7.0以上の地震が、2018年から2021年の4年間は、年平均20回発生するという説があります。もちろん、これは、将来の予測ですから、現実になるのかどうかはわかりません。
ただ、2018年1月に、既に3回発生していて、2017年1年間に発生した回数(7回)を越えてしまうと予測されている部分には説得力があります。
年間20回の地震が4年間続くということは、4年間で80回のマグニチュード7.0以上の地震が発生するということです。仮に、その20%が日本で発生する、とすると年に4回の大地震が発生する計算になります。マグニチュード7.0以上の地震ということは、マグニチュード9.0の地震の可能性もあります。
原因は、地球の自転速度の変化だそうです。私達に実感はありませんが、地球の自転速度は一定ではないそうです。自転速度が遅くなると、赤道が収縮し、地殻変動を誘発することになるそうです。この自転速度の変化は、地上の気象変動や海流の変化や、地下のマントルや核の変化に影響を受け、刻々と変化しているようですが、私達にはそのメカニズムが正しいのかどうか、わかりません。地震が発生してから知ることになります。
ただ、地上の気象変動は、世界中で、度々、ニュースになります。漁獲量の変化もそうです。海水温の低下で、イワシが数万匹海岸に打ち上げられたというニュースもあります。
確かに、最近の異常気象は異常です。
天災は、必ず、やってくるものだと考えておく必要がありそうです。
地球規模で、地震多発の予測がされているということは、日本周辺での地震予測にも影響を与えます。東南海地震や首都直下地震が予測されていますが、その時期にも影響が出るかもしれません。予測されていない地震が発生することもあるでしょう。自転速度の変化が火山噴火と結びついているという証拠は見つけられていませんが、無関係とも思えません。近年、火山噴火のニュースが多いと感じているのは私だけでしょうか。1月に白根山で火山噴火がありましたが、噴火が想定されていた場所ではありませんでした。
日本は地震列島と呼ばれるくらい、地震が多発する場所です。想定外の地震が発生することは、想定しておかねばならないものと思います。
もちろん、私達には天災を未然に防ぐ力はありません。
天災は発生後の対策を持っておくことくらいしかできません。100の内、99は無駄になると思いますが、最後の1のために備えはしておくべきだと思います。
東南海地震の場合、私が住んでいる場所の予測震度は5~6で、津波の予測も小さなものですが、広範囲に影響が出ますので、その備えはしておかねばならないと思い、備蓄食料と飲料水は用意しました。
では、私達は天災に備えていれば万全なのでしょうか。
そうではありません。
人災のほうが、はるかに犠牲が大きいのです。
昨年書きました超巨大噴火という天災を除けば、自然災害で10万人を越える犠牲者を出すことはありません。
しかし、人間の欲から起きる人災は、その犠牲者の桁が違います。数百万人でも、数千万人でも犠牲者は出ます。過去にも、何度も、そういう人災はありました。しかし、人災は予測可能ですし、防ぐこともできるはずです。でも、実際には、予測もしませんし、防ぐこともできていません。特に、国家運営者の欲が作る人災は被害が大きくなります。どうして、彼等が起こす人災に対処するシステムが構築できないのか、そこが、不思議ですが、人間の欲は、人間には対処できないということなのでしょうか。中国の習近平さんやアメリカのトランプさんを見ていると、やりたい放題に見えます。私達にはどうすることもできないような「欲」を、いや、「強欲」を彼等に感じるのですが、誰も対処できていません。特に、国のリーダーが「強欲」に支配されると、大きな人災に発展します。この100年に限っただけでも、ヒットラー、スターリン、ポルポトという有名人が出現しています。私達は、習近平やトランプが、そんな有名人にならないよう祈るしかありません。これが現実です。
もう一つ、天災と人災には大きな違いがあります。地震を例にとれば、耐震性能の高い住まいに住むことも、食料の備蓄もできます。でも、人災の場合は、そのような対策が全く存在していないのです。人災が発生し、その被害に遭った場合は、そこで、その人の人生は終わりです。人災発生後を想定して対処する方法がないのであれば、確かに、人災を予測することは無駄なことだと思います。では、私達には、何もできないのでしょうか。いいえ、私達に出来ることは、天災の場合は、天災発生後の対策を持っておくことであり、人災の場合は、その災害そのものを発生しないようにすることです。もちろん、「どうすれば、そんなことが出来るのだ」という疑問が湧きます。その通りです。今、私達は、その手段を持っていません。でも、このまま、人災を繰り返していていいのでしょうか。無駄な努力かもしれませんが、私達人類は挑戦すべきなのではないでしょうか。その出発点になるのが、将来予測と被害想定だと思います。
独裁者であれ、国家運営者という集団であれ、権力を握っている人達を権力者と呼びます。権力者は武力と法律を握っていますので、その権力者に対抗するのは至難の業です。でも、そんな強大な権力に対抗できる可能性があるのは、数だと思います。可能性に過ぎませんが、権力に対抗できるのは数だけなのではないかと思います。どこの国でも、国民の数が一番多く、国民が一枚岩になれれば、権力者の「強欲」を阻止することも夢ではありません。いや、実際には夢なのでしょうが、それしか選択肢がないのです。
私達の国も、財政悪化と少子高齢化という両輪をフル回転させて、地獄へ向かってまっしぐらです。「自分さえよければ」「今さえよければ」という国家運営者の「欲」の集合が、「先送り」を続けたために、いつの間にか「強欲」と同じ力を持ってしまっています。国家運営者が自分で自分を律することなどできませんので、破滅へ向かっているこの国の進路を変更できるのは、もう、数という強みを持った国民しかいません。しかし、国民は、この先、何が起きるのか知らないのです。一枚岩になりたくても、そのきっかけがありません。このままでは、ずるずると地獄へ呑み込まれてしまいます。地獄が現実になった時、私達は「あちゃー」ということしかできません。この「あちゃー」という言葉には、いろいろな意味が含まれています。「まさか」と思う人もいれば、「やっぱり」と思う人もいます。「どうして、もっと早く気付かなかったのだろう」と後悔する人もいるでしょう。でも、「あちゃー」と言うしかないのではないでしょうか。
過去に、何度も、同じことが繰り返されていても、私達は「俺には関係ねぇ」と思い込んでいます。気が付いていないだけで、関係はあるのです。

人災の対策はないと書きましたが、中には、対処できる人災もあるのではないかと思っています。いや、願っていると言ったほうが適切なのかもしれません。
難しいのは、人災を作り出している国家運営者が、実は、人災に対処できる人達だということです。この矛盾を解く鍵は「国とは、国民とは」という定義しかないように思います。
国民に出来ることは、国家運営者に「人災に対処しろ」と圧力をかけることしか出来ません。ただし、圧力をかけることもなく、好き勝手にやらせている場合は、国民の責任だと言っても過言ではありません。今は、まだ、「国民とは」という定義はありませんが、これが、国民の一番大きな責務だと思っています。私達は「自分では何もしないが。美味しい果実だけは欲しい」と思っています。でも、それは勘違いです。世間が甘くないことくらい知っているのに、どうして、こんな甘いことを考えるのでしょう。それは、自分に責務があることを知らないからではないのでしょうか。知らないということは、怖いことです。
先月、ベネズエラとブラジルのことを書きましたが、ベネズエラ国民やブラジル国民が苦境に立たされている原因は、国家運営者の不作為によるものだと思います。国家運営の最大の課題は経済です。ベネズエラもブラジルも、経済運営に失敗しました。それは、原油価格の下落に対処できなかったことが原因です。1バレル140ドルの価格が、40ドルになれば、収入は激減します。7割減です。例えば、月収20万円の人の給料が、6万円になってしまったら、生活は一変します。世界最大の原油輸出国は、サウジアラビアですが、確かに、経済的な苦境に立たされていますが、11位のベネズエラや10位のブラジルほどではありません。サウジアラビアの場合は、貯えがあったために、破綻に近い場所で踏みとどまっています。そして、今、サウジアラビアは「脱石油」というスローガンを掲げ、大改革へと舵を切りました。
他の産油国は踏みとどまっているのに、なぜ、ベネズエラとブラジルが目に見えるほどの苦境に立たされているのか。それは、幸運に恵まれなかったことと国家運営の失敗によるものだと思わざるをえません。
では、ベネズエラとブラジルの国家運営者には、方法がなかったのでしょうか。
確かに、140ドルが、40ドルになると予測していた産油国はないでしょう。でも、140ドルが、70ドルになると予測することは出来たかもしれません。その予測があれば、ベネズエラもブラジルも、ここまで苦境に立たされることはなかったと思います。株でも債券でも商品でも同じですが、右肩上がりが続くチャートなど存在しません。必ず、どこかで下落するのです。予測できなかったのではなく、予測しなかったのです。もちろん、価格以外の要因があったことは想像できますが、ベネズエラの場合は、石油産業の放漫運営だと言われていますが、市場価格の予測があれば、何とか持ち堪えることが出来たかもしれません。
儲かっている時は、利権集団がウハウハ使いまくり、損をした時は、国民がのたうち回るのであれば、国家運営者など必要ありません。国は国民生活を守らなければならないのですから、「自分さえよければ」と「今さえよければ」は厳禁なはずです。国家運営者の仕事は、予測をし、被害想定をし、軌道修正することが仕事です。国は、現在の国民生活も将来の国民生活も守らなければなりません。それを、未来永劫、続けなければなりません。これが、国の最も重要な使命です。
運が悪ければ、ベネズエラやブラジルになるのでは、国民は堪ったものではありません。今回の苦境を何とか乗り切ったとしても、運に頼っているだけでは、どこの国でも、いつか、ベネズエラやブラジルになる日がやってきます。
理屈では簡単なことですが、現実は、そうなりません。
それは、私達の体も国家運営者である権力者の体も、「欲」で、できているからです
人間ですから、好き勝手にやらせれば、「欲」が優先するのは当たり前なのです。
でも、何とかしなくてはなりません。
誰が、するのでしょう。
「誰かが、何とかしてくれる」なんてことは起きません。
最終的に被害者になる国民が、自分の身を守るために、何とかするしかないのです。
自分を守り、家族を守り、子供や孫を守る。私達は人間ですから、いや、私達は動物ですから、いやいや、私達は生命体ですから、「生存本能」という「欲」も持っているのです。余りにも古くからある本能ですから、ついつい、忘れてしまいますが、本能を呼び覚ませば、誰にだって出来ることなのです。その本能を忘れていたために、生存が出来なくなったとしたら、これこそが自己責任です。為政者だけが悪いのではありません。ドツボに嵌る時は、関係者全員が、ドツボに嵌るようなことしかしていないものなのです。
ベネズエラ国民やブラジル国民は、政府に「何とかしろ」と抗議します。私がベネズエラ国民やブラジル国民であっても、同じことを言うでしょう。でも、岡目八目の立場にいれば、国民にも責任があることが、よく見えます。「何とかしろ」と言う前に「お前らは、何かしたのか」と問われることになります。
ベネズエラ国民やブラジル国民にできることは、原油価格が上昇するように神に祈るしかありません。彼等が、祈ったから原油価格が上昇したわけではありませんが、原油価格は60ドル程度まで回復しました。それでも、100ドルまで上昇すると予測する方はなく、再度50ドルを割り込むと言う方もいます。今後、原油価格がどうなるのかは、わかりません。だとすると、原油価格に左右されない国家運営をするしか方法はありません。成功するかどうかはわかりませんが、サウジアラビアが「脱石油」に舵を切ったことは評価できます。従来と同じ国家運営を続けていれば、仮に、原油価格が上昇して危機から脱出できたとしても、また、危機になります。
そう考えると、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義を必要としているのは日本だけではないということです。日本が本物の民主国家になることができれば、もしかすると、世界を救うことになるのかもしれません。
いやいや、世界のことなど考えているゆとりはありません。
私達の国も破綻寸前の場所にいるのです。
先ずは、自分の身を守ることが最優先です。
ただ、最後の砦となる私達の国の国民は眠ったままで、危機には気付いていません。
大半の国民が不安を持っていますが、その姿を見ようとしていません。
では、政治家や官僚が頼りになるのでしょうか。
いいえ、これまで、国家運営者に自浄努力現象など起きたことがありません。
つまり、国民が覚醒しなければ、何も始まらないのです。
それでも。
もしも、仮に、万が一、奇跡的に、国民が覚醒したとしたら、私達に出来ることとは何なのでしょう。国の責任も、国民の責任も明確になっていないこの国で出来ることがあるのでしょうか。
もちろん、国民が覚醒したという大前提が必要ですが、私達に出来ることは、将来予測と被害想定くらいしかないように見えます。具体的な被害想定があれば、全員とは言いませんが、多くの国民が反応すると思います。ですから、「何となく」という数字ではなく、「現実的な」予測と想定が必要になります。難しいことではありません。私のような庶民でも出来るのですから、その気になれば、誰にでも出来ることです。
その将来予測と被害想定を国民が共有することができれば、その将来予測と被害想定を持った人が政治家になることも可能です。国の進行方向を変えるということは、現在の体制で利益を得ている人達を否定することになりますので、結果的に、現在の国家運営者を変えることになります。そのためには、国民が覚醒し、将来予測も被害想定も持った国民が政治家になることが必須条件です。
ただ、これには時間がかかります。残された時間が少ないために、何も出来ずに破綻するかもしれません。気付くのが遅かったのですから、そのリスクは受け入れるしかありません。しかし、生き残り、この国を再生させる人達にとっては、大きな財産になるはずです。
でも、これは、あくまでも、仮定の話です。
実際には、こんなことは起きません。
奇跡が簡単に実現できるのであれば、それは、もう、奇跡ではありません。
ですから、私達の未来は、ベネズエラ国民と同じ場所にあるということです。
私達も、ベネズエラ国民と同じように「文句タラタラ」状態になります。



老後破産という言葉は定着しましたが、昨今では、老前破産という言葉も語られるようになりました。老後に関する調査がいろいろと行われますが、もう、全世代調査が必要となっているのかもしれません。現状を知るためには、調査は欠かせません。私達の生活も、調査に基づいた将来予測なしでは成り立たない社会になっているのではないでしょうか。将来予測をしなければ、その予測に備えなければ、生き残れない社会になっていると認めたほうが賢明です。方向性は間違っていません。手遅れですが、やらないよりはやったほうがいいと思います。ただ、漠然とした予測ではなく、現実的で具体的な被害想定を伴う予測が求められていると思います。「このままでは、なんか、えらい目に遭いそうだ」という予測ではなく、「かくかく、しかじかの事態に巻き込まれる」という被害想定が必要なのだと思います。
民間の調査ですが、首都圏在住の40代50代の男女に質問した結果の記事を見ました。
質問は「あなたは、あなたの老後について、楽観的に考えていますか、悲観的に考えていますか」という質問と「あなたが老後を迎える時、高齢者の生活はどうなっていると思いますか」という質問と「老後資金は、いくら必要だと思いますか」でした。この設問自体が、大変曖昧な設問ですから、参考にならないと思うのではなく、その中にヒントがあるのではないかと考えれば、このような調査でも活かすことが出来ます。

              比率 (小計) [係数] 推定
楽観的             6.5
どちらかと言うと楽観的    21.5 ( 28.0) [ 0.5] 14.0
悲観的           16.2
どちらかと言うと悲観的   25.8 ( 42.0) [ 0.8] 33.6
わからない         30.0

今より良くなっている     0.0 
今より悪くなっている    52.0
わからない         48.0

3,000万円以上     14.7
3,000万円以下     85.3

係数は、補正係数の意味で、私が勝手に設定しました。
このアンケートに回答した方に、10年後20年後の明確な予測があったとは思えません。また、回答者が正直に答えているという確証はありません。ですから、全体的に「-20%」という係数を設定しました。多分、正直に回答すれば、99%の人達が「わからない」と答えたのではないかと思います。
特に、「どちらかと言うと楽観的」という答えの中には、「悲観的に考えたくない」という理由や「何とかなる」という理由がありましたので、願望が含まれていると思われるので、「-50%」にしました。アンケートであっても、「なあ、なあ」「まあ、まあ」「何も、波風立てなくても」という心理が働きます。特に、日本人は「いい人達」ばかりですから、「どちらかと言うと楽観的」という落し所は魅力的に見えるものです。「悲観的に考えたくない」という人達に覚悟があるとは思えません。なぜなら、現状認識も出来ていませんし、将来予測もしていませんし、何よりも、被害想定がありません。ただ、漠然と、前向きな態度が「良い」ものだと思い込んでいるだけに見えます。また、「何とかなる」と考える人は多く、日常生活の延長線上での思考しかありません。「何ともならない」事があることを見ようとしていません。
楽観的と考えている人と必要な老後資金が3,000万円以上と答えている人が、14%台と近い数字になっていますので、補正係数は間違っていないのかもしれません。もちろん、老後資金が3,000万円では、破綻する人が続出すると思います。いや、ハイパーインフレになれば、3,000万円の老後資金は、現在の貨幣価値に換算すれば、3万円にしかならないとすると、老後資金なんて、何の意味もありません。そのことを棚に上げたとしても、現在、40代50代の皆さんの85%は老後破綻することになります。仮に、老人人口が4,000万人だとすると、3,400万人の人が老後破綻するということです。
統計値ですから、パーセントで表記されていますが、実数にすることで、随分、違って見えます。実数で将来予測をすれば、3,400万人の老人が破綻するという結果です。これは、大変な数です。自分が含まれるかもしれないと思える数字です。
では、その3,400万人の老人は、どんな状態になるのでしょう。
お金がないということは、食料が買えないということです。食料が買えないということは、餓死するしか道はないということです。餓死をしたある方の書置きが「おにぎりが食べたい」というものだったそうです。100円のおにぎりも買えなかったということです。
全員が一文無しになることはないでしょうが、仮に、半数の老人が一文無しになったとすると、1,700万人が餓死することになります。残りの1,700万人は栄養不足で病気になります。老人ホームへ入居するお金はありませんので、苦しみながら自宅で死ぬことになります。どちらにしても、悲惨な状態になります。アパートや団地は事故物件ばかりになります。これが、被害想定です。でも、こんな被害想定は読んだことがありません。
では、老人破綻のピークが過ぎれば、日本は正常な状態になるのでしょうか。自分の親が餓死するかもしれない時に、それを無視できる人は多いのでしょうか。子供達も日本人ですから、そして、日本人は「いい人達」ばかりですから、子供達は何とかしたいと思うかもしれません。子供達が自分の、決して十分とは言えない老後資金を削ってでも親を救いたいと思ったとしても不思議ではありません。そうなると、子供達が老人になった時に、破綻することになります。老人破綻は連鎖する危険が高いとすると、二度と正常な状態に戻ることなどないのではないかと思うしかありません。
国家運営者が少子高齢化という現象を放置した結果が、今の、今後の日本の進路になっています。幸運に恵まれ、犠牲者の数が半値八掛けになったとしても、老人破綻だけで1,000万人以上の国民が苦しむことになります。日本は産油国ではありませんので、原油価格は直接影響しませんが、少子高齢化の将来予測と被害想定がされていないのですから、地獄に堕ちることは避けられません。これが、私達の、明日の現実です。
「皆さん、これでいいのですか」
「将来予測や被害想定を知ったとしても、何も変わらないでしょう」
「それは・・・・・・・・・・・」
「だったら、知らないほうがいいんじゃないの」
「・・・・・・・・・・・」
「それとも、あんたが何とかしてくれるのか」
「いえ、いえ、これは、あなたの問題ですよ」
「何度も言うけど、俺には関係ないって」
困ったことですが、これも、現実です。



「国民の皆さーん、目を覚ましてくださーい」
石田は、ずっと、くどいほど、同じ警告を発し続けています。
「馬鹿な奴だ」と思われているのでしょう。
自分でも、そう思います。
それでも、ほんの限られた人にすぎませんが、このブログを読んでくださる人がいます。そんな皆さんの心のどこかには、同じ種類の心配が棲みついていることを知っている皆さんがいるのではないでしょうか。
もちろん、ほとんどの日本人が「不安」という名の直感を持っています。でも、それは慣れ親しんでいる、漠然とした、曖昧なものですから、その直感に目を向ける人は、ほんとに、少ないと思います。
皆さんの直感は、いつか、正しかったと証明される日が来ます。しかし、残念なことに、それが証明された時は、手遅れであったことが証明される日にもなるのです。


2018-03-01



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明治150年祭 [評論]



今年は、明治維新(1868年)から150年目にあたり、政府は「明治150年祭」のイベントを、全国規模で開催しているそうです。
私は、知りませんでした。
自民党の野田聖子氏が講演で「明治維新のことを、なぞっても、次の日本は描けない。私達は、ここで決別していかなければならない。『あの時はよかった』とか『明治維新をもう一度』などと言うわけにはいかない」と語ったという記事を読んで、初めて知りました。
これって、自民党議員は「あの時はよかった」とか「明治維新をもう一度」と言っているということですよね。安倍総理が先頭に立って言っているのですから、自民党議員の常識なのかもしれません。彼等にとっては、税金をつぎ込んでもやる価値のある「お祭り」なのでしょうが、増税や社会保障費の削減が進められている時代に必要なことなのでしょうか。
また、野田氏は、急速に高齢化が進み、価値観や人口構成が全く異なる、これからの時代には合わないとして「強い人を強くするのではなく、弱者をなくす時代を作るべき」と主張したそうです。
なぜ、野田氏が、自民党の方針に反対し、野党のようなことを言うのでしょう。
それは、彼女が障害児を持つ母親だからだと思います。
彼女には、一般人と違って、多くの情報に接する機会があります。そこから見えてくる将来は、決して明るいものではなく、弱者が切り捨てられる社会が予測できるのであれば、自分の政治生命よりも、母親としての責任が重くなるのは自然です。母親は「どんなことをしても、いつまでも、この子は私が守る」と決意していたとしても、一方で「私が死んだら、この子はどうなるのだろう」と心配します。ですから、弱者に優しい国であって欲しいと願うのは当然のことだと思います。つまり、明治維新に復古するということは、今の偽民主主義からさえも離れて行くということですから、母親としては同意できません。
自民党の議員は「党で決めたことに、勝手なことを、言いやがって」と思っているのでしょう。「強い人(利権集団)を強くするのが、自民党の政治であり、弱者をなくすのは、野党の政治」だと思っている自民党議員の皆さんには受け入れられる主張ではありません。また、自民党議員の大半が明治維新回帰を目指す「日本会議」のメンバーなのですから、明治維新の悪口を言う野田氏を認めることもしません。
そんな野田氏が、次回の総裁選挙に立候補すると言っています。前回も推薦人が集められなくて断念しましたが、この状態では、次も、推薦人は集まらないでしょう。ただ、ここで、野田氏を潰すのは簡単ですが、女性の活躍を掲げている安倍総理も気を使わなくてはなりません。総裁選で、安倍対石破のガチンコ対決をした後のデメリットを考えると、野田氏だけではなく、何人かの候補で戦った方が後遺症は残らないと思っているようで、安倍氏が、推薦人を野田氏に融通するのではないかという観測もあります。これでは、自分の利益のためなら「何でもあり」に見えます。安倍さんは政治家ですから、中身よりも建前と標語が好きな方ですから、私達と同じレベルですから、仕方ありませんが、理想の総理大臣としては「深み」に欠けているように思います。いや、この程度の総理大臣のほうが、日本人の好みに合っているとすると、これも、大切な資質なのかもしれません。
それにしても、自民党のやっていることに「国民目線」など、ないように思うのですが、これは庶民の僻みなのでしょうか。

いろいろな明治維新評価がありますが、肯定的な評価が大半を占めていると感じています。
私も、明治維新そのものは、仕方がなかったと思っています。それは、徳川幕府に統治能力が失われていたためです。当時の世界潮流は、植民地支配と帝国主義全盛の時代です。国を守るという視点で見ても、徳川幕府に、その力はありませんでした。
いつの時代でも、どこの国でも、国を守ることこそが国の仕事なのです。
では、「国を守る」とは、具体的に何を守ることなのでしょう。国民の皆さんは、どう考えているのでしょう。国家運営者の皆さんと国民の皆さんの考えは同じなのでしょうか。私には、同じ考えを持っているようには見えません。ここにも、曖昧文化の影響があるように思います。参考までに、アメリカの国防長官の言葉を紹介しておきます。「アメリカ軍は、アメリカ国民の生き方を守っているが、その思想も守っている。地形を守ることだけが国防ではない」と言っています。単に、国民の生活だけではなく、その生き方と思想を守っているという意見には、重いものがあると思いました。もちろん、世界中の国が同じ思想で国を守っているわけではありませんが、傾聴に値する意見だと思います。私達の国でも、「国を守る」という言葉は、「国民の生活と生き方と思想を守る」ことだと定義すれば、輪郭が見えてくるのではないでしょうか。
問題は、明治維新後の国家運営です。
列強の一員になるという気概は立派だったと思いますが、そのために背伸びをしすぎて、最終的には第二次世界大戦での大敗北につながりました。折角の気概を、明治維新を、失敗の歴史の始まりにしてしまったことは悔やまねばなりません。
しかし、「明治150年祭」で政府のやっていることは、明治維新を神聖化し、もう一度「神国日本」に戻りたいという復古思想にしか見えないのは、定義が曖昧なことによる勘違いがあるのではないでしょうか。
なぜ、明治維新という大改革が、単なる政権交代になってしまい、第二次世界大戦のあの大敗北へと結びついてしまったのか。
そもそも、そんな見方をする方は少ないと思います。
全体の空気としては、「明治維新は、日本の夜明けだった」と思わされています。明治維新が、数百万人もの犠牲者を出した第二次大戦の大敗北に直結したなんて思う人は少数です。さらに、それが民主化の失敗によるものだと指摘する方は、大変、少ないと思っています。
でも、明治維新に尽力した皆さんの中には、民主主義という方向を目指した方が多くいたものと思います。民も、期待をしていたと思います。しかし、日本での民主化は失敗しました。その民主化失敗の大きな要因になったのが、民主主義を曖昧にする天皇制という統治方法だったと思います。
もちろん、当時は、天皇制に勝る統治方法はなかったのかもしれません。一つのプロセスとして天皇制は必要だったのかもしれません。でも、その後、軌道修正をして民主化を進めることも出来たのです。でも、現実は、そうはならずに、あの敗戦へと向かいました。
明治の民権運動は、大正時代までは何とか続きましたが、諸々の世界情勢の中で、頓挫してしまい、天皇を現人神に祀り上げて、古来からの建前と儀式に頼った安易さが、大敗北へとつながってしまったのです。今も、その流れは続いています。
確かに、民主主義はパーフェクトな方法ではありません。しかし、他に選択肢がないとすると、民主化しかないと思うのです。少なくとも、失敗の歴史を刻んでしまった天皇制に回帰するのは、間違っていると思います。
でも、昭和の時代だけではなく、平成の時代も、民主化運動は起きていません。
その原因は、戦後の不毛な政治体制にありました。
もちろん、その根っ子には、国民の無知があります。
本来であれば、大日本帝国憲法や戦後憲法を破棄し、民主憲法の制定を主張すべき野党が、護憲派になってしまったからです。社会党と共産党のレベルの低さが、「平和憲法」という虚構を作り出し、この国をデッドロックさせる要石にしてしまったのです。社会党は、ほぼ消滅しましたが、そのデッドロック状態は今でも継続しています。結果、自民党に明治維新復古を画策する隙を与えています。
現在、民主化という機運はどこにもありません。国民は、自分の国が民主国家だと信じ込んでいますので、いや、信じ込まされていますので、民主化なんて発想が生まれることもありません。私達は、中国の反日教育が「やらせ」だということを知っています。でも、まさか、自分達が同じ目に遭っているとは思っていません。国は、教育で、どのような国にでもなれる、と言われることがあります。私達の国でも、それは成功しています。「国民の無知を温存する」という方針は、大成功です。日本国民が馬鹿だと言っているのではありません。単なる「無知」に過ぎません。無知を無知と思わなくても支障のないような文化があることに気付かないという点で無知なのです。
この国は、実際には、民主主義風王政並立封建制度なのですが、民主主義という「風味」はつけられていますが、制度としては、封建制度です。「風味」には「実態」が伴う必要がありません。ただ、「風味」を出すためには添加物が必要です。それが、多用されている諸々の儀式です。国民は、この儀式を見て「ふむ、ふむ」と頷いているのです。これは、曖昧文化が、いかに優れた文化なのかを知る材料だと思います。
さて、この先、私達を待ち受けている節目はどんな節目なのでしょう。
最初の節目だった明治維新で犠牲になった人が何人だったのか知りませんが、仮に数万人から数十万人だとしてみます。
二つ目の節目である第二次大戦での犠牲者は、数百万人でした。
もしも、三つ目の節目である、将来の私達の犠牲が数千万人だとすると、方向を変える必要があるのではないでしょうか。
残念ですが、そうはならないのでしょう。
節目がいくつあっても、私達は変わらない、と考えるほうが自然です。
節目を予測することもなく。
節目を経過しても、変えようとせず。
節目は、ただの節目でしかなく。
運命に流される民族。
それが、私達です。
確かに、明治維新では節目を予測した方が大勢いました。日本史上、初めてのことだったのかもしれません。しかし、節目を迎えた後は「なあ、なあ」「まあ、まあ」でお茶を濁しました。曖昧という空気の中に拡散してしまい、それが日常になってしまったのです。
今は、そんな予測さえ表明する方はいません。
別の見方をすれば、粛々と運命を受け入れ、誇りを失わず、孤高であっても崇高を求める民族という見方も出来ます。そこに救いを求めることも、生き方の一つかもしれません。節目では、肉体的にも、精神的にも、大きな苦痛と苦しみに耐えねばなりませんが、一度だけ死ねば、それも終わりにできます。
きっと、それで、いいのでしょう。
私達が、いや、私達の無知が選んだ道ですから、仕方ありません。
確かに、自民党の憲法草案の中身はひどいものです。
ま、国民は「憲法」なんて読みませんから、いや、「六法全書」を本棚に飾ってある人だって少数派なのですから、一政党の「憲法草案」なんて、その存在すらも知らないでしょう。国民は、「俺には関係ねぇ」と思っていますから、その草案の中身がどんなものでも、別に構わないのです。
国民は、「あちゃー」という日が来ることも知りませんし、憲法が「あちゃー」とつながっているなんて思いもしません。でも、憲法は国家運営の指針です。指針が間違っていれば、国家運営の失敗につながります。そして、国家運営の失敗は「あちゃー」とつながっているのです。それは、多くの国の多くの国民が体験してきたことです。「うちの子に限って」なんてことはないのです。
確かに、「あちゃー」なんて日は、一生に一度あるかないかの頻度でしか起きませんので、「自分さえよければ」「今さえよければ」であれば、国民には関係のないことなのかもしれません。
ただ、出来の悪い草案であっても、自民党が草案を作り発表したことは評価しなければなりません。それは、自民党以外の政党が憲法草案を発表したという記事を読んだことがないからです。私が知らないだけで、野党が発表した憲法草案があるのかもしれませんが、話題にもならないのであれば、箸にも棒にもかからないものだということかもしれません。
産経新聞が、自社で作成した憲法草案を発表したことがあります。彼等の大目標は「天皇崇拝」ですから、その強い想念が憲法草案を作成する原動力になったのでしょう。彼等の草案にも目標とする思想にも賛同はできませんが、作成して発表したという行動は称賛しなくてはなりません。ただ、憲法草案の作成は、本来であれば、新聞社の仕事ではありません。新聞社に出来て、なぜ、政党には出来ないのでしょう。多分、それは、想念の強さによるものだと思います。民主主義を標榜する政党はありますが、民主主義に対する強い想念があるのではなく、利用価値があるという打算が優先しているのではないでしょうか。
この国には「国とは」という定義がありません。政治家と称する人達は、その曖昧な「国」を利用し、国会議員という職を手にしている詐欺集団なのかもしれません。合法的な犯罪者集団という言葉は成り立ちませんが、実際には、曖昧文化のおかげで、グレーゾーンは誰もが認めているのですから、合法的な犯罪は存在していると思わねばなりません。現行の法律に違反していなければ合法ですし、自分達がやっていることを縛る法律を作らなければ、それも合法になるのです。「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義を憲法に書きこんでしまったら、今の政治家は犯罪者になってしまうのであれば、そんな憲法を作る政治家は存在しないということになります。選挙制度の構図と同じです。
そうであれば、憲法も選挙制度も、国民が作らねばなりません。しかし、そんなことが可能になるシステムは存在していません。今のシステムであれば、政治家のお手盛りによる憲法や公職選挙法は、自由に作ることが可能なのです。
ま、民主国家ではありませんので、仕方ありませんが、最終的に犠牲になるのは、私達国民です。その事だけは覚悟しておかねばなりません。

日本には、国教と呼ばれる宗教がありません。
しかし、宗教が存在しないという意味ではありません。
世界中に存在する神がこの国にも存在しますが、それだけではなく、日本には「八百万の神」も存在しています。
宗教は、力です。
力ですから、宗教で国家統治をすることも可能です。
帝国主義が流行する前から、西欧諸国は宣教師を先兵として派遣したほどです。
今でも、アッラーの神のために自爆テロを実行する信者がいます。
もちろん、宗教は、昔から国家統治の手段として、多くの権力者が利用してきたという歴史もあります。大昔は、学問も科学も存在していませんでしたから、人知の及ばないことは神の仕業だと考えていたものです。病気や災害は、占いや呪術や儀式に頼るしかありませんでした。そういう意味では、宗教を利用する方法は理に適った手法です。
もちろん、今でも、最終的に、私達は「神頼み」になるのですから、それほど進化したとは言えません。「神頼み」は、私達のDNAに何重にも植え付けられていて、そう簡単には消えないのでしょう。
神様にお願いしたところで状況が変わることはありませんが、最後のお願いですから、「諦め」の契機になる効果は期待できます。心安らかに死ぬことも不可能ではありません。ですから、宗教に価値がないなんてことは言いません。
でも、権力者が宗教を利用して、無辜の民を意のままに操縦するやり方は、褒められるやり方ではないと思います。
日本でも、戦前、天皇は「現人神」に祀り上げられて、兵士は「天皇陛下、万歳」と叫んで死んで行きました。この国も、天皇教という宗教を作り出し、それを利用した国家エゴの追求をした国なのです。国際的に「平和国家日本」が諸手を挙げて受け入れられていない現状があるのは、どこかに、日本人に対する怖さがあるからだと思います。「いざとなったら、何をするかわからない民族だから、心配だ」という疑念は無くなりません。
さて、この先、この国がどんな時代を迎えるのか、と考えると、権力者が「神頼み」を用意しておく必要があると考えるのは自然だと思います。身近にいる天皇を利用したいと思ったとしても、不思議なことではありません。ただ、天皇を利用している人達は、私達国民よりも、天皇に対する敬意に欠けているように見えます。彼等は、天皇を道具としか思っていません。もちろん、まだ明確なビジョンがあるわけではないでしょうが、権力者の直感は、国が乱れた時の国家統治のための「神」を求めているものと思います。それが、明治維新に戻りたいという行動に出ている心理なのではないかと思います。国が乱れるであろうという予測は間違ってはいませんが、天皇を神に祀り上げるだけの時間が残されているかどうかは定かでありません。
将来を予測してみましょう。
餓死者が当たり前の社会になり、国は乱れます。
飢え死にをする人達が「天皇陛下、助けてください」と祈るでしょうか。
そうは思えません。
「神様、仏様、ご先祖様、父さん、母さん、助けてください」と祈るほうが、ご利益があるように思えます。
そうではなくて。
絶望の中で死んで行くのかもしれません。


2018-02-03



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民主憲法 [評論]



くどいようですが、今日も、憲法の話です。
議論の俎上に乗っていないことを書いておこうと思います。
先ず、憲法という法律の特質を見てみます。
日本における近代憲法は、二度制定されています。
一度目が、明治憲法(1890年)であり、二度目が、戦後憲法(1947年)です。
どちらも、非常時を契機として制定された憲法です。
日本だけではなく、憲法は、国家体制の変更時に、それは多くの場合が非常時終了後に、制定されることが多いという特質があります。
平時に制定される、あるいは、改憲されるケースは、この国では初めてです。
もう一つの特質は、明治憲法は欽定憲法であり、戦後憲法は米国製憲法である、というものです。日本の特殊事情が大きく影響していますが、制定当時の事情を鑑みると、仕方のないことでした。
私達の国は、一度も民定憲法を作ったことがありません。
もっとも、この国は、本物の民主国家ではありませんので、たとえ、民定憲法を制定したとしても、それが民主憲法になることはありません。現に、そうはなっていないだけではなく、そのような議論も行われていません。形式的な民主国家ではなく、看板だけの民主国家ではなく、普通の民主国家になることが先決です。私見ですが、「民主国家とは、外敵や飢えや、自由や主権の侵害から国民を守る国家」だと思っています。この定義が正しいかどうかは、私にはわかりません。でも、少なくとも、定義も原則も議論することがないのであれば民主国家にはなれません。
明治憲法は、欽定憲法ですから、天皇が制定した憲法です。明治の天皇君主制度は、近代版王政という形をとっていますが、封建制度と民主制度という比較だけで見れば、封建制度の範疇に入ります。それは、将軍や天皇が統治する制度であり、主権は民にありません。
戦後憲法は、時間の制約と知識不足と多少の遠慮があったために、明治憲法(大日本帝国憲法)を踏襲する形式で作られました。当時のアメリカは、9条(戦力不保持)さえ加憲出来れば目的は達成できたのです。その骨格は大日本帝国憲法のままで、今も引き継がれています。いつも、民主主義風王政並立封建制度と書いていますように、日本の憲法は、ごった煮憲法ですから、誰に主権があるのかは、曖昧にされています。
そもそも、「憲法とは」という定義が曖昧で、統一された、確固たる定義があるようには見えません。明治憲法制定時は、それなりに定義はあったものと思いますが、初めての憲法制定ですし、他国の憲法が雛形になったようですから、しっかりとした定義はされなかったのかもしれません。その後も、定義が議論されたことはありませんでした。それは、明治憲法が欽定憲法であったために、臣下である民が言及するものではなかったことと、戦後憲法は占領下の憲法ですから、占領軍に逆らうことができない状況があったためです。アメリカ軍の占領統治が終了した頃には、左翼の皆さんによる「平和憲法神話」が生まれ、何となく、国民も同意していて、憲法に言及すること自体がタブーになってしまいました。曖昧文化の国では、言葉の定義をするという習慣がありませんので、定義が曖昧であることを不思議だと思う人もいません。
このままであれば、70年前と同じ、いや、130年前と同じ、封建制度のままの憲法が出来上がるのです。
しかし、そのことに異を唱える人がいません。
いつものように、「なあ、なあ、まあ、まあ、固いこと言わずに」ということなのでしょうが、このままでは、今回も、この国は民主国家にはなれません。
いつまでも、民主国家になれないことのデメリットは、今は、それほど感じていないかもしれませんが、将来、そのことが私達の首を絞めることになります。
たとえ、民主主義に対する国民意識が低かつたとしても、「あちゃー」という日が来てからでは、何も出来ません。車の自動ブレーキシステムは進化していますが、国家運営にそのようなシステムは組み込まれていません。
今、その「あちゃー」を実践している国があります。以前にもベネズエラのことを書きましたが、その経済崩壊はまだ収まらず、ハイパーインフレが進行中です。ベネズエラ政府は統計数値を発表しなくなりましたので、どれほどのインフレなのかは不明ですが、街角ウォッチングで調査すると、一杯500円だったコーヒーの値段が、6週間で3,500円になったそうです。まだまだ、インフレは続くと予測されています。ベネズエラ国民は「あちゃー」と言うしかありません。いや、もう、「あちゃー」と言っていますが、どうすることもできません。同じように、ブラジルでも犯罪が多発し、国民は困っています。これも、経済運営の失敗による税収不足が原因です。その結果、警察予算が3割も削減されました。どちらの国でも、最終的に、一般国民が被害に遭います。
最近、日本でも、ハイパーインフレという言葉は多用されるようになり、一般国民も、言葉だけは認知するようになりました。でも、いつものように、認知するだけで、その実態を想像することがありません。中には、ハイパーインフレになれば借金が減るのだから「いいことだ」と、まるで自分が国家運営者になったかのような発言もあります。実際に、その時が来たら、「あちゃー」と言うしかないのですが、大丈夫なのでしょうか。

国民投票が行われるということは、国民が改憲の決定権を持っているということです。
定義がないという情報が欠落したまま、国民が判断を誤れば、民主主義風王政並立封建制度は、今度も維持され、曖昧は続きます。
もしも、仮に、この国が民主国家だとすると、そして、もしも、仮に、主権者が国民だとすると、もしも、仮に「憲法とは、主権者を守るため、国家運営の原則を決めた法律」だとすると、真っ先にやらねばならないことが「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義だと思います。その定義を条文化したものが、憲法なのではないかと思います。
それを邪魔しているのが、曖昧文化です。
では。
日本の曖昧文化は、どうして生まれたのでしょう。
それは、日本人が、従順で、大人しい性格の、いい人達の、群れだったからだと思います。大昔から、私達は「いい人」だったのです。どんな無理難題でも聞いてくれる「良き民」であったために、為政者は原則を示す必要がありませんでした。いや、仮に、原則を示したとしても、いつでも、破棄できる原則ですから、その原則に意味はありませんでした。為政者に優しく、民に厳しい統治が当たり前の国だったのです。それを、「伝統」と誇らしく呼ぶ人もいます。私達庶民が「伝統」と呼ぶ場合は、建造物や美術品を指す場合が多いのですが、政治がらみの皆さんの場合は、その統治方法を指すようです。彼等にとっては封建制度こそが「伝統」なのです。それは、私達の国の憲法が、未だに民主憲法になっていないことで証明されています。
過去の権力者達も、現代の国家運営者の皆さんにとっても、法律は曖昧であればあるほど利用価値の高いものになります。以前に国家権力について書きましたが、国家権力とは、武力と法律です。その法律が曖昧で、裁量権が大きい法律の場合、憲法であれば憲法解釈という手法で、どのような事でも正当化することができれば、これほど効力のある権力はありません。原則がないのですから「なあ、なあ、まあ、まあ」で構わないのです。

9条3項加憲の場合、自衛隊の皆さんを除外すれば、国民に直接の不利益はありません。
しかし、このやり方を認めてしまうと、どこかで、国民の不利益が生まれます。
もちろん、自衛隊員も国民ですから、国民の不利益に該当しますが、彼等は、宣誓書を書いて、国と個別の契約を結んで自衛隊員になっていますので、それは不利益を承知で入隊していることになりますので、一般国民とは少し違います。ただ、今までは、宣誓書は単なる事務手続きの一部であり、隊員の皆さんもそれほど重きを置いていなかったかもしれません。武力行使も、戦闘も行わないという前提の軍人ですから、単に職業の一つだったのです。自衛隊員の仕事は、訓練をすることと災害派遣だけでした。自衛隊という名称が残ったとしても、憲法に明記されれば、それがどのような文章であったとしても、今度は紛れもなく軍隊です。少なくとも、国家運営者は、そのつもりです。軍隊になれば、入隊時に提出した宣誓書が大きな意味を持ってきます。今度は、自分の命を懸けて戦場に出て行かねばなりません。
国としての原則がある場合は、比較的、国民の不利益が目に見えますが、曖昧な規則では見えなくなります。
今回の改憲案の俎上には上っていませんが、以前の自民党案には「自助、共助、公助」という言葉がありました。これは、「自己責任」を憲法の条文に入れることを意味します。
国家運営者の利益にとっては画期的な言葉です。
国民の自己責任による場合は、国は国民を守る必要がなくなるのです。
「国とは」という定義がなく、曖昧な概念しかありませんから、国民の自己責任を憲法で規定しても構わないのでしょう。今後、社会保障費がさらに増加しますが、自己責任という規定があれば、社会保障費を抑制することは容易にできます。
いや、社会保障費の抑制は避けて通れませんので、憲法に書きこまなかったとしても、実行されることになるでしょう。ただし、どこかの時点で、憲法違反という訴訟が起きることを想定しておかねばなりません。いくら司法が硬直しているとしても、数十万人の犠牲が出ることになれば、違憲判決が出される可能性は否定できません。将来的には、憲法改正が必要になります。
社会保障の枠組みから零れ落ちる人や社会保障では生活が成り立たない人達が多く出てきてからの憲法改正は難しくなります。国民が、その現実に気付かない時点で改正をしておかなければ、国民投票で過半数は取れません。
既に、この国には国民の生活を保証する力はありません。借金で、なんとかやりくりをしている国なのです。急激に増加する生活困窮者を吸収する余裕など、どこにもありません。これが現実です。どの程度かは別にして、ある程度の犠牲者は容認するしかないのです。その法的根拠を作っておかねばならない。これも現実です。
自己責任だと判定された国民は、国に切り捨てられても憲法違反にはならない状況を作っておかねばなりません。では、社会保障に頼らなければ生きていけない人が、3,000万人いたとしましょう。その中に、自己責任ではないと判定される人が何人いるのでしょう。条件を厳密にすれば、ほぼ、全員を自己責任だと判定することが可能です。
もちろん、一生懸命働いて、頑張って貯金し、自分の生活を最後まで自分で賄うことは奨励すべきことですが、それが実現する確率は決して高くありません。
「お前は、一生懸命ではなかった。お前は、頑張らなかった」と言われたら、困る人が大半だと思います。また、そんな個別の判定を「お上」にできるとも思えません。しかし、声高に、自己責任を押し付ける必要はありません。暗に、自己責任は憲法違反ではないことを文字にしておけばいいのです。そのために作られた言葉が「自助、共助、公助」という言葉なのです。「今回は、500万人分を削減する」という方針に合致するような線引きを行えばいいのです。これは、500万人に、「死ね」と言っていることなのですが、憲法に規定されているのですから、誰にも反論できません。国の自由度は非常に高くなります。「そんな馬鹿な」と言われる方がいるかもしれません。でも、今でも、社会保障費の削減は目標数値に基づいて削減されているのです。その目標数値は国家運営者の都合で決まっています。
たとえ、いい加減な法律であっても、この国の建前は、あくまでも法治国家ですから、国民は法律に逆らうことができません。憲法が、国家運営者の利益のために存在するのであれば、それは民主国家ではありません。
最後は、「お上」の「お慈悲」にすがるしか方法はありません。
慈悲深い「お上」ばかりではないでしょう。
いや、これって、封建制度なのではありませんか。
この国は、「大の虫を生かすために、少々の犠牲はやむを得ない」という言い訳もできる風土です。国は「大所高所からの判断が必要だ」と言います。でも、これは、「弱者切り捨て御免」を正当化する言葉にも聞こえます。封建時代には、武士に「切り捨て御免」が認められていました。何も変わっていないのです。自分が小さくて低い場所にいた場合は、堪ったものではありません。3,000万人が少々の犠牲だとは思えませんが、9,000万人よりは少ないという現実があります。ない袖は振れないのですから仕方ありませんが、国家運営者には、そんな事態にならないように運営する責任があったのではないでしょうか。国家運営者は、「苦渋の決断だった」と言うでしょう。だったら、その「苦渋の決断」をしなければならなくなるまで放置していたことに、どう責任を取るのでしょう。もちろん、国家運営者はそんな責任は取りません。
国民は気付いていませんが、「原則」がないということは、国民にとって、怖ろしいことなのです。

曖昧文化という伝統の不幸は、他にもあります。
言葉の定義をしない習慣は、政府与党だけにあるのではなく、野党の方も、左翼の方も、同じ習慣に支配されています。
ですから、政府が「9条3項」を出して来たら、その反論をすることには熱心ですが、定義の欠如については気付くことがありません。
野党の方は、「憲法を守れ」と大合唱します。彼等は、封建制度の大日本帝国憲法を土台とした米国製憲法を守れ、言っているのです。左翼思想とは真逆にある憲法を信奉していることに、どうして、気付かないのでしょう。それは、野党の皆さんも定義や原則を必要としない曖昧文化に埋もれているからです。この国の衰退は、経済だけではありません。過去の栄光から抜け出せない人達が国家運営を続けている構造に問題があるのです。野党の皆さんも、「平和憲法」という旗印で勢力を伸ばした時期があった過去から抜け出せていません。国民が、過去の栄光と自己保身に執着している今の野党には、期待をしていないことに気付くべきだと思います。
彼等は、反対の理由として「戦争する国になる」「皆さんの子供が戦地で死ぬことになる」と宣伝することになるのでしょうが、もう、そのような時代ではないことに気付いているのでしょうか。
左翼信仰の時代は終わっています。もう、左翼思想では国民を引き付けられません。特に、民主党政権の失敗が、その流れを確固たるものにしてしまいました。「左翼の人達が言っているのだから、彼等が言っているということは、きっと、野党の言っていることのほうが間違っているのだ」と考える人達も一定数存在していると思います。左翼が反対すれば反対するほど、賛成票が増える結果になります。
これは、国民にとっての不幸でもあります。
なぜ、こんなことになるのでしょう。
そうです。これが、曖昧文化のデメリットなのです。
では、もう、野党には存在意義が無くなってしまったのでしょうか。
そうではありません。
この国を変えることが出来るのは、今でも、国民の支持を得た野党です。自民党が国民のために、今の体制を変えることは、決してありません。そんなことは、国民だって知っています。だからと言って、国民が野党を支持しているわけでもありません。「どちらが、ましか」判定で、自民党が有利になっているだけです。そもそも、自民党は利権集団を守るための政党であり、国民を守るための政党ではないことを、国民は知っています。それでも、左翼よりは「まし」だと思っているのです。どれほど野党の存在価値がないのかという事実に、野党が気付いていません。
どうすれば、いいのでしょう。
簡単なことです。左翼思想を捨て、曖昧文化を捨て、民主国家樹立を目指す集団になればいいのです。過去と決別することが、それほど悪いことなのでしょうか。
そう考えると、憲法改正は、絶好の機会なのです。
野党の皆さんは、もう失う物はないのですから、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義をし、それを文章にし、憲法草案を作って、国民に提示すればいいのです。確かに、国民は「無知」ではありますが、「馬鹿」ではありません。理解する能力では、他の民族に負けていません。
安保法制に反対するために、無駄なエネルギーを使ったり、スキャンダル追及に生き場所を求めるやり方には、意味がありません。目的が見えていないから、時間配分を間違うのです。
国は、主権者である国民を、国民の生活を、守るために存在しているシステムなのです。
その端的な例が安全保障です。
安全保障を無視した民主化は成り立ちません。いや、独裁制度や共産主義や封建制度の国であっても、安全保障は必要です。それは、私達は地球に住んでいるのですから、先ず、生存をしなくてはならないからです。
野党の皆さんは、そのことがわかっていません。民主主義が理解できていないだけではなく、地球のことも人間のことも理解できていません。そこから変わるべきです。
国民を守るのは、軍事力という安全保障だけではありませんが、安全保障は地球上に生存するための基本ですから、主権者である国民を守るための軍隊は必要不可欠です。野党は、この出発点から間違いを犯しています。「平和は、力で勝ち取るものであり、文字や空想で得られるものではない」という考え方が世界常識です。世界常識が正しいのか、正しくないのか、を言ってみても意味がありません。それが現実なのですから、選択の余地などないのです。世界がお花畑でないことは確かです。世界の中で生きていくのであれば、好き嫌いの問題ではなく、世界常識に従うしかないのです。
共産党を除き、「日米安保を破棄せよ」という野党はいません。自分の国は他国に守ってもらっていて、自分は何もしない。そんな都合のよい話が通るとでも思っているのでしょうか。世界は、そんなに甘い所なのですか。先ず、自分の国は自分で守るのです。それでも、安心できない時は、軍事同盟も選択肢に入ります。なぜか、この国は、いつも、順序が逆になります。これは、悪い癖です。
自国の国民を守るためには、防衛力を高める必要もあります。交戦規定の変更も必要ですし、敵基地攻撃能力も必要になりますし、核兵器だって必要です。これ、当たり前の国が、当たり前のことをするだけです。これは、野党こそが要求する内容です。それを、未だに、賞味期限の切れたお花畑理論に頼っていたのでは、主権者である国民を守ることなど出来ません。
9条3項に自衛隊という文字を書き込むような姑息な改正しか出来ない自民党に、国民生活を委ねていてはいけないと主張すべきなのは、野党のほうだと思います。

では、民主憲法制定が、私達の目的なのでしょうか。
違います。
それは、出発点にすぎません。
でも、出発点がなければ、前には進めません。
このままでは、日本民族は、曖昧という空間を浮遊し続け、いつの日か消滅する可能性だってあるのです。


2018-02-02



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横行する勘違い [評論]



今月は、憲法についての雑感を3本書きました。雑感ですから、系統だったものではなく、愚痴のようなものだと思って読んでいただければ嬉しいです。

いよいよ憲法論議が始まりました。自民党は、本気で、改憲案を出すつもりです。
論点整理と称しながら、いつの間にか、いや、予定の行動なのか、憲法論議の焦点は「9条」になっています。しかも、その改憲案は、安倍総理推奨の「9条3項」案のようです。
公明党は「世界に誇れる憲法の精神は壊すべきではない」と言っていますが、1項と2項が残れば、公明党の面子は立つと考えているようです。
希望の党は、3項の追加を暗に認め、「専守防衛」という言葉を入れてくれ、と言っています。
立憲民主党と共産党は、反対です。

日本という国は、つくづく、不思議な国だと思います。これだけ国際緊張が高まっている時でも、まだ、与党の議員も野党の議員も「平和憲法」という虚構に支配されているのですから、これが独立国の対応だと思っている国民の意識には、驚いてしまいます。
そもそも、9条が憲法に書きこまれたのは、日本の手足を断ち切るために、戦勝国であるアメリカが決めたことです。日米開戦前までは、日本は世界的な強国とは認められていませんでした。アメリカ市民にとっての日本というイメージは、アジアの小国の、黄色くて矮小な、100年も200年も古い時代の、「イエローモンキー」という原始人だったのです。ところが、戦争を始めてしまうと、これが中々の難敵で、アメリカが世界に誇るスピットファイアーが、ゼロ戦に歯も立たなかったのです。そんな戦闘機を作る経済力も技術力も、日本にはないと思っていました。何段階もレベルの低い国だと思っていましたので、その驚きは大きかったと思います。そして、終戦が近づくと、日本は神風特攻隊という自爆攻撃を仕掛けてきました。今であれば、イスラム過激派の自爆テロは当たり前のことと思っていますが、当時、自爆はそれほど一般的な攻撃ではありませんでした。彼等は「クレイジー」と感じたでしょう。各地の陸上戦でも、日本人は豊富な武力を持ったアメリカ軍陣地に、日本刀を振り上げて「天皇陛下、万歳」と叫んで向かってきましたし、自決する軍人も多数いました。日本人は、民間人でさえも、自決する民族だったのです。彼等にとって、日本人は「アンビリーバブル」な、危険な、得体のしれない、民族だったのです。
戦勝国になった時、アメリカが考えたことは、「こんな危険な民族に、二度と、武器を持たせてはならない」というものでした。当時は、日本がこれほど従順なポチになるとは思っていませんでしたので、危険な民族の手足は切っておこうとしたのです。それが9条です。今となっては、あの9条はアメリカの誤算だったのでしょう。誤算は、もう一つありました。日本が占領統治を終えて独立国になった時は、当然、憲法を改正して軍事力を持つだろうと予測していたと思います。彼等の常識では、そうなるはずでした。実際に、日本政府にも要求しました。ところが、日本は、9条を平和憲法という名の神に祭り上げてしまったのです。「9条という神のおかげで、日本は平和だった」という勘違いも、日本人は受け入れてしまいました。アメリカ人にとって、日本人の心情は、常識外にあったのです。
そして、今、日本は9条を堅持したまま、3項の追加を画策しています。アメリカは「お前たち、自分の国を、本気で、守る気はあるのか」と思っているでしょう。勝手に、「日米同盟を基軸に」と言っている日本人に、呆れているのではないかと思います。アメリカは、アメリカの国益にならないと判断した場合は、日本を守りません。当然のことです。しかし、日本は、未だに儀式と信仰の国ですから「アメリカ様が守ってくれる」と信じています。信仰は、不合理を超越してくれますので、日本を説得する方法はありません。
しかし、心配なのは、平和憲法やお花畑が虚構に過ぎなかったという現実に直面した時、この国は、大きく、右側に振れることになります。北朝鮮や中国からミサイルが飛来し、多くの人命が失われた時、この国は、再び、「一億玉砕」の国になれるのです。
これは、大変、危険です。
今、やらねばならないのは、自衛隊という文字を憲法に追加することではありません。本気で安全保障を議論すれば、何が必要なのかが見えてくるはずです。「9条3項」でお茶を濁し、ずるずると、曖昧を継続することが求められているのではないと思います。これは、ただの勘違いです。

政治家の皆さんだけではなく、国民の皆さんも勘違いしていませんか。
皆さんは、民主国家の、独立国家の、憲法の話をしているのですよね。
だったら、最初に議論しなければならないのは、「民主主義とは」という定義なのではありませんか。その上で、「国とは、国民とは」という定義の議論をし、その定義を文章にし、法律にする仕事が皆さんの仕事なのではありませんか。明治維新の時にも敗戦の時にも、個別の事情がありました。ですから、明治憲法も、現在の憲法も、それなりに意味があったと思います。でも、この平時に憲法を改正するのであれば、平時であるからこそ出来る原則論を求めるべきだと思います。安倍総理は、憲法は理想を書く法律だと言っていますが、それも勘違いです。憲法は、国家運営の原則を書く法律だと思います。
「9条3項」案は、筋の悪い改憲だと思います。
ところが、もう、「9条3項」が既定路線になっているかのごとく、与党の政治家の皆さんの目も、野党政治家の皆さんの目も、国民投票に注がれています。
自民党は、過激な印象を与えないように、できるだけ曖昧に、「まあ、この程度なら」と思ってもらえるように苦労しています。
公明党と希望の党は、「私達は憲法の精神は残しましたし、注文も付けましたからね」と言って、自分の立場を守ろうとしています。
立憲民主党と共産党は、「断固、反対しましたから」と宣伝するのでしょう。
また、「いつか来た道」です。
もう、慣れていますから、誰も違和感すら持っていません。
改憲の国民投票という一大事ですから、大きな騒動になるのでしょうが、前提条件が欠落した玉虫色の草案が賛否の判定材料になるのです。民主主義も、国の責任も、国民の責任も、いつものように「なあ、なあ」「まあ、まあ」で決着することになります。
政治家の皆さんは、自分の立場を守ることが第一義になっていて、これで本当に、この国は国民に対して責任を果たしているのでしょうか。
国民の声は、今のところ、自民党の草案には反映されていません。
いやいや、国民の声があれば、の話です。私達は、憲法に対する知見も、民主主義に対する知見も持ち合わせていません。世間の風に吹かれれば、どこへでも行ける国民なのです。
政府は、広く国民的議論を通じて、そして、国民の皆さんの安全や幸福を守るために、等々、まるで、国民が参加しているような、憲法が国民のために存在しているような、そんな空気を作ろうとしています。ここにも、勘違いがあります。
国民議論と国民的議論には大きな違いがあります。国民的議論という言葉は、「あたかも、国民が議論したような議論」を経て、という意味です。自分の利益にしか関心のない国会議員が「国民を代表して」という「いつもの建前」を使い、国会で議論をすれば、それが国民的議論になるのです。国民を代表しているという国会議員は、選挙の時だけ、頭を下げ、「国民の皆さんのために」と叫んでいれば、当選後は何をやってもいいのです。彼等は、民主主義なんてことは、考えてもいません。ただ、国民も、民主主義を知りませんので、それでもいいのでしょうが、これは、国にとっても、国民にとっても不幸なことです。
多分、やらせ満載の公聴会のようなものも催されることになるのでしょう。その中では、作られたシナリオに合致する意見が取り入れられ、シナリオが完成されていくのです。「皆さんの意見も取り入れましたよ」と胸を張って宣言することになります。儀式の使い方には、伝統で培った力が備わっていますから、また、儀式を経た結果には逆らえないという気質を持っている国民ですから、儀式さえやっておけば大丈夫なのでしょう。確かに、これまでは、そのやり方で何とかなってきました。でも、この先も、それでいいのでしょうか。もう、限界なのではありませんか。
国民投票は大きなイベントですから、賛成派も反対派も力を入れてくると思います。権力の裏の手に誘導された意見が、流れを作り、大勢を占め、シナリオに合致しない意見は罵詈雑言を浴び、非国民の扱いを受け、誰も耳を貸してくれなくなるような予感がします。多分、そうなります。この国には、付和雷同現象と呼べるような不思議な力があります。私達日本人は、結構、付和雷同が好物なのです。その力は、今でも大きな力を持っています。そして、議論は、どんどん細部にはまり込み、自分達が何の議論をしていたのかも見失う結果をもたらします。国民投票当日には、「9条3項」に賛成か、反対か、というものになります。当初、私達は、憲法の話をしていたはずです。しかし、民主主義についても、国の責任についても、国民の責任についても、何も議論されることなく、決められていくのです。それも、曖昧な形で決まるのです。国民投票という儀式は、得票数が出ますので、その儀式自体が曖昧だということではありませんが、いや、それこそが儀式の強みなのですが、決める事柄の曖昧さは隠されてしまうのです。これは、権力の思う壺なのではありませんか。国民投票という儀式を執り行うと決めた時から、結果は決まっているのです。そして、国民の過半数を超える人達が賛成したのだから、という理由で、正当化されるのです。今の選挙制度と同じです。それは、権力者にとっても、国民にとっても、正当化の大きな力になります。誰も、責任を取る必要はありません。
私には、AKBの人気投票のほうが、レベルが高いと思えてなりません。確かに、組織票はあるでしょう。でも、AKBのファンはAKBのメンバーのことを熟知しています。それは、重要な事だと思います。

私達は、小学校高学年の3年間、中学の3年間、高校の3年間、民主主義について議論をするチャンスがどれほどあったでしょう。少なくとも、私の経験では、そんな経験はありませんでした。大学では、学部に関係なく議論する習慣があればよかったのですが、遊ぶことに忙しくて、単位を取ることで精一杯で、そんな経験はしていません。更に、社会に出てから、民主主義について議論をすることなどありませんでした。私達は、漠然とした民主主義しか知らないのが現実です。国の責任なんて考えたこともありません。ましてや、国民の責任なんて、頭の片隅にさえ存在していませんでした。そんな私達が、改憲のための国民投票の投票所に行くのです。これで、私達に意味のある投票行動が取れるとは、とても、思えないのです。ベールに包まれ、宙を浮遊しながら、曖昧で漠然とした知識しか持たずに、「えい、やー」で投票するのです。空気に流される選択肢しかないのではありませんか。私達は、国民議論が出来るような国民には育っていないのです。これが、この国の国民意識の現実です。国民的議論をすることになっている国会議員も、そんな国民から選ばれているのです。でも、そんなことを問題視する人はいません。
選挙も、間接議会政治も、三権分立も、言葉を習っただけで、それについて議論する習慣はありませんでした。受験戦争に勝つことが目的となり、言葉を脳に記憶させることが目的となったために、議論は不要になったのでしょう。知見という言葉は、単語を知っているかどうかではなく、その言葉を理解しているかどうかなのではないでしょうか。
私達は民主国家の雛形を真似ているだけにすぎません。日本に古くからある儀式が、儀式を好む習性が、その真似事の民主主義を可能にしたにすぎません。私達は、民主主義も憲法も、自分のものにはなっていないのです。そんな国民が、憲法の正当性の判断を迫られるのです。判断ができない国民に「判断をしろ」と言っていますし、暗に、判断できないのは「自己責任だ」と言っているのです。国民は、「お前には判断するだけの知見がない」と言われては困りますので、誰にだって見栄の一つや二つはありますので、厳粛な表情で投票することになるのでしょうが、実は、中身は空っぽなんです。だって、何も学んでこなかったのですら仕方がありません。
いつものことですが、私達は、ただ漠然と国民投票という手法を使おうとしています。
国民投票に必要なことは、何なのでしょう。
権力者や左翼の人達の宣伝ではありません。
国民自身が、学ぶことなのではないでしょうか。
そのためには、国が、その環境を作らなくてはならないと思います。
国は、その責務を果たしているのでしょうか。
いいえ。
この国では、未だに、「知らしむべからず、寄らしむべし」という統治方式が、ずっと、続いているのです。確かに、私達国民は無知です。何も知らない国民が、国家運営に口を出したら収拾がつかなくなります。「お前達は無知なのだから、『お上』の指示に従っていなさい」と言われたら、中々、反論できません。そのくらい私達は無知なのです。でも、これが民主主義なのでしょうか。国の責任も、国民の責任も明確にすべきなのではありませんか。しかも、「俺に任せろ」と言っていた国家運営者は自分達の失敗の責任を取りません。責任を取らないだけではなく、「選挙で国会議員を選んだのは国民なのだから」という理由で国民に責任かあると開き直ることができます。「無知なのだから、生意気を言うな」という対応をとるか、「無知な国民を、教育しよう」という対応を取るかは、国家運営者に委ねられています。確かに、前者のほうが楽ですから、時間も費用も必要な後者を選ぶことはしません。しかも、国民に知見を持たせてしまうと、事あるごとに介入してきて大変面倒です。それでは、自分達の利益も危険に晒されます。自分の利益が第一だと考えている国家運営者がそんなことしません。やるとしたら、国民からの強い要求があり、自分の利益が、より危険になると判断した時だけです。
この国に古くからある建前と儀式を用意しておけば、「お上」が「右を向くべし」と言うだけで、無知な民は右を向いてくれます。それでもいい、と思うほど無知なのです。呪術師が活躍していた時代と、何も変わっていません。
確かに、手遅れかもしれませんが、先ずは、知ることです。国民全員が知見を持て、と言っているのではありません。10%の国民が、いや、せめて、5%の国民が「民主主義とは、国とは、国民とは」という場所に行き着くことができれば、国民投票にも意味があります。少なくとも、今の状態で国民投票をするのは、猫に小判です。
何度も書きますが、今の延長線上に未来があるわけではありません。でも、それでも、私達は、未来にも責任を負っているのです。もちろん、未来の変化に100%対応できる憲法を作るのは至難の業でしょうが、変化に一番対応できるのが「原則」だと思います。国民は、直感ではわかっているのです。
痛い目に遭わされても、じっと我慢するように、「お上」には逆らわないように、私達はずっと教育されてきたのです。私達は、あの東北の大震災を見ているのに、そのことに気付きません。数千万人もの犠牲など想像もできないでしょうが、その日はやって来ます。
確かに、いい人ばかりですし、波風は立てたくないと願っているのでしょうが、それで、地獄へ落ちていたのでは、本末転倒です。
以前に、「憲法を公募しましょう」という馬鹿げた提案をしたことがあります。公募で選ばれた憲法草案を、憲法として制定した国なんてありません。誰もやったことがないということが、やらない理由として正当化されるとは思いませんが、無茶な提案であることは、提案者の私でも理解できます。憲法学者の先生方は、大反対をするでしょう。入選賞金をいくらに設定したのか忘れましたが、一獲千金を目指して応募する人だっているはずです。多くの方が参加すれば、それだけ国民の知見が上がることになります。学習という観点からは、捨てたものでもないのではないかと思います。10作品を入選作とし、その10作品に対して国民が投票するものとすると、中には、その10作品に目を通す人だっているでしょう。そうなれば、その人達の知見も上がります。学習の効果は広がると思うのです。入選した10作品に、100億円支払ったとしても、これまで、費用をかけてこなかったのですから、この程度の費用は惜しむべきではありません。
そう考えると、今でも、私は公募方式の憲法草案に魅力を感じます。

「9条3項」案だけが問題なのではありません。
一事が万事です。
「戦争は出来るけど戦争をしない国」か「戦争が出来ないから戦争をしない国」のどちらが国民を守ることが出来るのでしょう。私には、軍事的抑止力を持った経済大国になったほうが、国民を守れると思うのです。
私達は、勘違いしていることが、沢山あるのではないでしょうか。
いや、勘違いが横行しているのかもしれません。
いやいや、私達の社会は、勘違いで成り立っているのかもしれません。
そのことに気付いていないことが幸せだと思う人もいるのかもしれません。
そうだとすると、石田は、おせっかいな、迷惑千万な奴だということになります。
申し訳ありません。


2018-02-01



横行する勘違い



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最高裁判決 [評論]



先月に続き、NHK受信料について書いてしまいましたが、興味のない方は、最後の提案だけでも読んでいただければ嬉しいです。

先月、NHK受信料に関する最高裁の判断が示されました。
NHKが勝訴したという人もいますし、NHKの敗訴だという人もいます。
つまり、NHK受信料問題は、今回の最高裁判決では何も解決していないのではないかと思います。
最高裁は、大騒ぎにならないように、注意して判決文を書いたのかもしれません。

「NHK受信料は、憲法で保障されている、契約の自由に違反している」という国民の主張に対して、最高裁は「違憲ではない」という判断をし、告訴されていた国民が敗訴しました。
例え、悪法であっても、法律が存在している以上、「契約しなければならない」という条文は、国民の義務を定めています。憲法違反を争点にしてしまったのですから、地裁でも高裁でも国民は敗訴しました。多分、告訴された国民の方と多くの未契約者の方の持っているNHK受信料に対する違和感は共通しているものと思いますが、法廷闘争という観点から見ると、憲法違反という争点は、論点選択のミスだったと思います。どんな方が弁護したのか知りませんが、国家と戦う人権派、あるいは左派系弁護士といわれる方が担当し、その弁護士の意向が反映しているのではないでしょうか。そこには、庶民の正直な気持ちが欠落しているようで、どこか落ち着きません。
私は、先月、NHK問題について書きましたが、漠然とした契約を論点にするのではなく、契約内容と契約の合意の自由という論点で争いたいと書きました。その点では、最高裁は判断を示していません。もちろん、判断を示していないだけで、私が戦っても負けるのかもしれませんが、勝つチャンスがゼロではないと思っています。
この裁判を最高裁に上告したのはNHKです。
NHKは、「NHKが定めた契約書を送り付けた時点で契約は成立する」という主張を認めさせようとして、上告したのです。この主張が認められれば、NHKは2,000億円の増収になるのですから、上告するだけの価値はあったのでしょう。
しかし、その主張は棄却されました。
最高裁は、どちらの主張も認めなかったのです。
判決文を見ると、「大騒ぎにならないように」「穏便に、事が収まるように」という配慮があるように見えます。別の言い方をすれば「逃げた」ともとれます。突っ込んだ判決を出せば、どちらかが大きなダメージを負うわけですから、「逃げる」しかなかったのかもしれません。
そもそも、司法にケツを持ってこられても困るという意識があったのかもしれません。
国が、NHKが対応していれば済んだことだからです。
国が、「契約をしなければならない」という文言を「視聴料を支払わねばならない」という文言に法改正をしていれば、問題は解消していました。或いは、NHKの放送が受信できない受信機を製造するように働きかけていれば、問題は解決していたかもしれません。買い替え需要もあり、経済効果も期待できました。
NHKが、放送をスクランブル化し、契約を結ばなければ視聴できない工夫をしていれば、受信料の問題は解決していました。電波を垂れ流して送り付け、「料金を支払え」という送り付け詐欺のような運営をしているNHKにも、司法としては困っていたのかもしれません。これでは、司法として詐欺事件を裁けなくなります。
国もNHKも、解決策がありながら何もしなかったのです。
もちろん、NHKは、現状維持が一番金になると考えていたから何もしなかったのでしょうが、それを裁判所に持ち込まれても、という不満が司法にあったのかもしれません。

この問題の本質は、時代検証から逃げている曖昧さと曖昧な言葉を放置しているこの国の文化にあると思います。
その前に、最高裁の判断を少し見ていきましょう。
先ず、当たり前のことを言っている部分です。
最高裁は、「受信料の支払い義務を、受信設備を設置することのみによって発生させたり、NHKの一方的な申し込みによって発生させるのではなく、受信契約の締結によってのみ発生させる」と判断しました。
契約すること自体は違憲ではありませんし、法で定められているのですから、強制力はあります。ただ、ここで、契約内容については何も触れていません。契約内容については、当事者間で決めることなので、裁判所の守備範囲ではないのです。
また、最高裁は、「契約はNHKとテレビ設置者との間の『合意』によって生じるのであるから、未契約者が同意しない場合は、NHKが当該未契約者を相手に訴訟を起こし、勝訴が確定した時点で契約が成立する」という判断をしました。
この裁判は民事裁判です。民法では、契約は双方が合意しなければ契約にはなりません。ですから、強制力が「合意」まで縛るものであれば、このような文章にはならないと思います。NHKと受信装置設置者が結ぶ契約は、電気やガスのように「契約締結の自由の制限」に類するとは考えていないようです。一般の契約であれば、契約内容について、当事者間の同意と合意は不可欠です。それでも、同意や合意が出来ない時は、「裁判所にいらっしゃい」と言っているのです。
少し脱線した部分を見てみます。
最高裁は、敗訴した受信機設置者に対しては、他の受信機設置者との間の「平等」という観点からという理由をつけて、受信機を設置した時点まで、どこまででも遡って請求できると判断しました。つまり、NHKの受信料の場合に限り、民法上の「時効」の概念を越えてしまったのです。ここは、勇み足だったのではないでしょうか。「平等」という言葉に引きずられ、民法上の時効の概念に例外を設けるやり方は、少し、整合性を欠くように感じました。

では、問題の核心である時代考証を考えてみます。
放送法は、1950年に制定されました。約70年前です。1950年という年は、戦後の混乱期の真っ只中です。放送法が出来た背景も、その当時であれば、納得できたものであったと思います。しかし、1950年の社会と2017年の社会は、全く別物です。それを同じ法律で取り締まろうとするところに問題があります。この70年間、あらゆる面で「先送り」が繰り返されていたのですから、放送法だけが悪いのではないという言い訳はできます。でも、流石に、ここまで社会が変わってしまうと、違和感があることは否定できません。
70年前の社会はどんな社会だったのか。
当時、テレビジョンというものは、最先端の技術でした。私が子供の頃は、まだ、無声映画というものが存在していた時代です。ところが、テレビジョンという機械では、画面の中で、人が動き、声が聞こえてくるのです。しかも、それを、庶民でも鑑賞することができる機械なのです。もっとも、機械そのものは大変高額なものでしたから、庶民が気軽に購入できるものではありませんでした。私は、祖父に連れられて、銀座か有楽町だったか忘れましたが、わざわざ、テレビジョンを見学に行った記憶があります。今では、テレビジョンという呼び方をする人もいませんが、当時は、時代の最先端を走る、華々しいまでのテレビジョンだったのです。ですから、テレビジョンを購入したり、テレビジョンを楽しむという娯楽は、ステータスだったのです。「山田さんの家でテレビジョンを買ったんだって」「わー、観てみたいなー」という会話があった時代です。もちろん、放送受信料はラジオの時代からありましたので、テレビジョンを購入するほどの家であれば、放送受信料を支払っていたと思います。もっとも、ラジオにしても、全国津々浦々の家庭にあったわけではありません。重大放送がある場合は、ラジオのある、例えば、庄屋さんの家にお邪魔することになります。ラジオを持っている、テレビジョンを持っているという家では、受信料はステータスを買う手数料みたいなものだったのかもしれません。また、当時の庶民には「契約」という概念は一般的なものではありませんでした。借用書も契約ですが、借用書くらいしか身近になかったのです。「お上」が法律を作り、「受信料を支払え」と言えば、庶民は「へへぇー」と言って支払うのが当たり前の時代でした。「契約しなければならない」なんて条文は、誰一人、知りませんでした。
では、今は、どんな時代でしょう。
テレビというメディアを見ただけでも、地上波放送、BS放送、CS放送があり、有料放送を計算に入れると、すみません、数えたことがありません。というくらい多くの放送が存在しています。携帯電話がスマホになり、パソコンも普通に存在する時代ですから、誰でもネットから情報が得られます。
では、平成時代の庶民の皆さんにお尋ねします。
災害放送、ニュース、天気予報に限定したとして、「NHKでなければ」「NHK放送がなければ、何もわからない」と思っていますか。
とんでもありません、よね。
別に、NHK放送がなくても、私達は何一つ困ることはありません。
もう、放送法も、NHKも役目を終えたのです。
時代考証もせず、役目を終えた法律を廃止することもなく、放送受信料という宙に浮いた制度を、公共だとか、公平だとか、平等という言葉を利用して維持している状態は、余りにも時代から乖離しすぎていると思います。
放送受信料は、もう、公共とか公平とか平等という言葉で語るべきものではありません。なぜなら、放送受信料はすでに利権という分類の中に入っているからです。
役にも立たないNHKになぜ金を支払わなければならないのか、というのが平成時代の庶民の実感です。それは、契約をしている人も、契約をしていない人も同じ感覚だと思います。

では、公共放送という曖昧な呼び名を考えてみます。
公共放送って何ですか。
本当に、公共放送というものが必要なのでしょうか。
もちろん、必要だと思っている人達はいますが、それは、国民ではありません。
税金や保険料を納めない人もいます。電気代やガス代や水道代を払えない人もいます。でも、そんな人達が900万人もいるという話は聞いたことがありません。NHK受信料だけに起きている現象です。ここに答えがあります。役にも立たないものに、なくても支障のないものに、なぜ、金を払う必要があるのかと考えている人が多いからです。支払っている人でも、納得して支払っている人はいないのではないでしょうか。
ここで、他の公共と呼ばれるものを見てみます。
道路、橋、港湾、飛行場、電気、ガス、水道。これらは「公共インフラ」です。飛行機、鉄道、バス、船舶。これらは「公共交通機関」です。どれをとっても、私達の生活には欠かせないものです。ですから、公共であっても、民間企業が運営している場合、一般のルールとは違い、契約締結の自由の制限が設けられています。これに異論を言う国民はいません。例えば、電気、ガス、水道の契約を結ばなければ、私達は生きていくことさえできません。ですから、通電や開栓を依頼した時点で契約は成立しているのです。
では、公共放送は、私達の生活に不可欠なものなのでしょうか。情報伝達のメディアは、全体としては公共情報伝達媒体です。放送もその一部ですが、それは、NHKだけのものではありません。私達は、NHK放送がなくても、生活することが出来ます。公共に資するという実態がなくても、公共と呼んでいいものなのでしょうか。
今回の最高裁判決の中の公共性に関する意見をみてみます。
「NHKの受信料は、NHKの公共的性格を特徴づけ、特定の個人、団体または国家機関などから財政面での支配や影響が及ばないようにしたもので、広く公平に負担を求めることによって放送を受信できる人たち全体によりNHKが支えられている」としています。
これは、戦前の権力による恣意的な情報操作に放送が利用されたことを反省して生まれた公共的性格だと言われています。その目的は、明らかに、権力である国家機関の影響を排除することにあります。では、現実はどうなっているのでしょう。
NHKの運営委員長を任命するのは総理大臣であり、NHKは総務省の管轄下にあり、予算や決算は国会の承認が必要です。これ、どれをとっても、相手にしているのは国家権力です。国民から選出された国会議員が、国民を代表して行っているという建前を利用した「騙しの構図」なのでしょうが、NHKが争点になった選挙など行われたことがありません。ここでも、政治家が勝手に国民の代表をしているという「いつもの構図」があります。建前というのは、どのようにでも利用できる優れものだと、いつも感心します。
総理大臣に任命され、総務省に指導され、国会承認が必要なのですから、NHKは政治家や官僚には向き合いますが、国民に向き合う必要はありません。出資者である国民と向き合うのではなく、権力としか向き合わないNHKが、「公共」という言葉を担保できているのでしょうか。受信料の値上げをした時に、放送受信契約者に了承を取ったのでしょうか。契約しているのは国民のはずです。多分、NHKが契約書と呼んでいる書類には、個々の契約者の了解なく値上げできると書いてあるのでしょう。税金でもないのに、国会議員が、国民の依頼もなく了承したに過ぎません。そもそも、この国では、当選してしまえば、国会議員は国民と向き合う必要がないのです。国民と向き合わない者同士がやっている出来レースでしかありません。いつものことですが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」ですが、国民不在です。これで、国民に対する公平が担保されているとは、とても思えません。最高裁が言う公共的性格は、現実として、成立していないのです。
公共とは、国民の生活や利益に資するために存在しているものなのだと思います。
確かに、権力にとって、公共放送という存在は利益になります。いざという時、特に情報が重要なファクターになっている時代でもあるのですから、権力が自由に操作できる放送はなくてはならないでしょう。でも、それは、国民のためではなく、権力のための利益なのですから、公共という呼び名は不適切だと思います。では、NHKが国営放送になれば、公共放送になるのでしょうか。いいえ、NHKが国営放送になっても、国民の生活や利益に資するものとは言えません。現状のNHKでも、政府がその気になれば、いつでも政府の広報機関になれるのです。また、大本営発表をすることが出来るのです。
どう考えても、NHK=公共放送という式が成り立つとは思えません。
等式の項目に勘違いがあります。
NHK=利権団体という式が、成り立っているのが現状です。
NHKは、すでに利権を守ることが目的となった団体になっているのです。ですから、今でも、1,000人以上の国民を告訴しています。ただただ、利権のために国民を告訴してでも、自分の利益を守ろうとしている団体が、日本放送協会という団体です。それだけではありません。利権という「欲」の怪物は、現状維持だけではなく、増殖も図らなければなりません。携帯電話からも、パソコンからも受信料を徴収しようと必死に画策しています。役立たずになった放送を利用し、送り付け詐欺まがいの方法で、善良な国民から、毎年、数千億円の金を騙し取っているのが、NHKの実態なのです。おれおれ詐欺集団も真っ青になるような巨額の利益を得ている、日本最大の詐欺集団が、利権団体・日本放送協会なのです。
その巨額なあぶく銭があるから、NHKの職員は驚くような収入を手にしているのです。
私は、先月、NHK職員の平均年収は1,200万円だと書きましたが、1,800万円だという説もあります。これは平均年収ですから、部長クラスの人の年収は3,000万円だと言われています。いやいや、もっと多額の収入を得ている人もいるのでしょう。公表されていないそうですから、本当の数字はわかりませんが、いや、公表したくないと思っているでしょうが、庶民とはかけ離れた収入を得ているのがNHK職員です。一般の正社員の平均年収が、約400万円だと言われている時代に、驚きの金額です。これ、全部、詐欺で手に入れた金が元手です。平均年収が200万円の非正規社員や私のような年間100万円の年金生活者から見れば、NHK職員の皆さんは雲上人です。400万円の正規社員が、200万円の非正規社員が、100万円の年金生活者が、なぜ、1,800万円のNHK職員を支えなければならないのか。不思議だと思いませんか。これが、公共なのですか。公平なのですか。平等なのですか。
最高裁に棄却されましたが、「NHKが定めた契約書を送り付けた時点で契約は成立する」という主張が通れば、利権の拡大が実現し、彼等は、さらに、2,000億円のあぶく銭を手にすることが出来たのです。その上、携帯電話からも、パソコンからも受信料が取れれば、薔薇色の未来が待っています。あぶく銭の金額は、軽く1兆円を超えるでしょう。そうなれば、平均年収も3,000万円にすることが可能になります。
どう考えても、変です。
NHKと契約している人には、いろいろな方がいると思いますが、皆さんはこの理不尽を何とも思っていないのでしょうか。もちろん、中には1,800万円以上の収入を得ている人もいるでしょう。でも、そんな人は数える程しかいないと思います。普通の庶民の皆さんは、なぜ、平然としていられるのか、不思議としか思えないのです。
900万人と言われている未契約者の皆さん。NHKの勝訴だと言われている風潮に負けないでください。決して、NHKが勝訴したとは言えないのです。
私が告訴されたら、喜んで戦います。この文章を読んでおられる方の中に未契約者がいるとは思えませんが、もしも、そんな方がいて、告訴された場合は、是非、弁護団の一員に加えてください。弁護士資格も、専門知識もありませんが、一緒に戦わせてください。この法廷闘争には、従来にはない視点での戦略が必要になるのではないかと思っています。まだ、具体的な戦略は持っていませんが、戦略作りを手伝わせていただければ、とても嬉しいです。ただし、私の動機は不純なものです。NHKに勝つことが目的ではありません。裁判を通して、この国が危険な状態であることを、少しでも多くの国民の皆さんに知ってもらうことが目的です。無理強いは出来ませんが、そんな機会があればと願っています。


蛇足になるかもしれませんが、無茶な提案をしておきたいと思います。
放送受信料を半額にし、NHKを廃止、もしくは民営化をし、放送受信料を社会保障税という名前に変えましょう、という提案です。司法ではできないことですが、国として取り組むのであれば、やる気になれば、できないことではありません。
放送法は、NHKは、役目を終えました。今、この国に必要なのは、NHKではなく社会保障です。3,000億円の財源では、社会保障費の不足を補うことは難しいでしょうが、もう、既に役目を終えた仕組みはNHKだけではないと思いますので、これを契機にして歳出の削減や税収増に結びつけ、社会保障の補助をするべき時なのだと思います。
NHKに視聴料を支払っていた人達は、支払いが半分になります。支払っていなかった人達は、残念ですが、NHKと強制的に契約を結ばされたと思ってください。司法も、NHKの裁判がなくなれば、時間的に、少しは助かるでしょう。
利権があるだけで、超裕福な生活を保証する必要はありません。それよりも、今は、生活に困っている人達をどう助けるのか、という時代なのです。
もっとも、こんな無茶な提案が採用されることはありません。民営化に一番反対をするのがテレビ業界だと思います。スポンサー獲得が今よりも難しくなります。テレビ業界は、新聞業界の支店みたいなものですから、新聞も反対するでしょう。利権を失う人達もいて、蔭に回って反対を推し進めます。メディアを敵に回しては、選挙で不利になりますので、政権側も踏み切れません。でも、こういう視点の政策が実行される国になれば、無茶をすれば、まだまだ、この国は変わることができるのです。昨日も書きましたが、この先、膨大な社会保障費用が必要な国になります。体質を変えることで、振り落とされる国民の数も減るかもしれません。
このままだと、私達の国は、数千万人の人達が生活保護を必要とする国になるのです。でも、誰一人、その事には触れません。いや皮肉なことに、NHKはそのことを暗示するような番組を作っていますが、その悲惨な未来には触れることがありません。先ず、NHKが自ら民営化案を提示し、受信料を社会保障費に組み替える提案をすべきです。
このままでは、「あちゃー」しかないのです。
その事態に対応できる青写真を持っている方はいません。
今こそ、舵を切る時だと思います。


2018-01-02



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仙人 [評論]



2018年が始まりました。
慣習としては「おめでとうございます」と言うべきなのでしょうが、私は、その言葉に抵抗を感じてしまいます。多分、私だけではないと思います。
2017年もいろいろありましたが、2018年は、もっといろいろなことが私達を追いつめていくものと思います。2018年は、世界景気の最後の上昇期で、試練は2019年にやってくるという人もいますが、希望通りに事が進むとは限りません。経済が上向きの時は、あらゆる不都合が見えなくなります。経済が悪化すると、その不都合が次から次へと表面化します。この現象は日本独特のものではありませんので、世界の不都合が表面化するのは、これからです。
日本崩壊まで、あと8年となりましたが、年毎にその崩壊速度は加速していきます。一日単位で見ていると、その速度の差は見えませんので、崩壊の年には突発的な速度に見えるかもしれませんが、それは勘違いです。後世の歴史家が見れば、日本崩壊の歴史は、崩壊から50年前に始まっていたと記すことになると思います。
自然災害による崩壊であっても、そのプロセスは存在しています。私達の目には見えませんが、マグマの蓄積のような歴史があるものと思います。体制の崩壊だって、ある日、突然、発生するのではありません。同じように、不純物の蓄積のような歴史があるのです。火山の噴火は自然現象ですが、体制の崩壊も自然現象の一つだと思うべきです。その差は人間が感知できるかどうかの違いだと思います。ですから、人災である体制の崩壊の場合、人間はそれを感知しなければならないのだと思います。人間は、軌道修正するという力を持っているのですから、その力を発揮しなければなりません。
いつの時代でも、どこの国でも、崩壊の速度が速まれば、その体制から振り落とされる人達が生まれるものです。これも、崩壊現象です。私達は、その事象を自分の目で見ているのですが、それが崩壊の過程の事象だとは思っていないだけなのではないでしょうか。それは、振り返って見た時にしか見えないのかもしれません。でも、今、私達の国は壊れつつあり、間違いなく、「あちゃー」という日がやって来ると思っていれば、見えるかもしれません。
崩壊は、私達の驕りと無関心と曖昧文化から生まれています。「今さえよければ」「自分さえよければ」「俺には関係ねぇ」「なあ、なあ」「まあ、まあ」と書いてきたように、それは私達の身近にあります。そんな今を修正するためには、曖昧文化との決別が必要だと書いてきました。そのために必要となるのが「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義です。軌道修正をする道はあるのです。もちろん、軌道修正をしても、時間切れで崩壊するかもしれませんが、その努力は崩壊後に生き残った人達が再生する時に力になるものと思います。
実際の崩壊現象として出てくるのは、驕りや無関心や曖昧文化とは無関係なものに見えると思いますが、根っ子にあるのは驕りと無関心と曖昧文化です。
65歳以上の老人が全人口に占める割合を比較してみます。1950年には約5%でしたが、2016年は約27%です。5倍強です。今後も増加します。現在の65歳以上の老人は恵まれている世代だと言われていますが、それでも、生活ができなくなり、生活保護に頼る人が増えています。しかし、崩壊現象が、目に見えて増えてくるのはこれからです。どれほどの人が貧困に苦しむことになるのか、考えただけでも寒気が走ります。国のリーダーである総理大臣は「少子高齢化は、国難である」と言いますが、彼等は、この事態に対応してきたのでしょうか。予測すらできなかったのでしょうか。いいえ、違います。国難にならないようにすることが、彼等の仕事だったはずなのに、自分達が対応してこなかったことを棚に上げて、平然と「国難である」と言えるのは、どうしてなのでしょう。答えは、簡単です。国家運営者の役割も、国民の役割も漠然としたものしかなかったからです。そこにあるのは、「今さえよければ」「自分さえよければ」「俺には関係ねぇ」「なあ、なあ」「まあ、まあ」だったのです。
ここで、現実にある崩壊現象を、少しだけ、見てみましょう。
今、アラフォークライシスという言葉が生まれています。私は、NHKの放送を視聴しませんので、他の方の記事で知ったのですが、35歳~45歳の世代だけ、給料が減少しているという現実があるそうです。今のアラフォー世代が貧困であるということは、彼等が50歳になっても60歳になっても70歳になっても貧困が続くという意味です。これは、下流老人の予備軍が大量に存在しているということでもあります。もっとも、35歳以下の世代の人達の給料だって、プラスには違いありませんが、マイナスではないという程度のものです。50歳以下の人達が、老後資金を貯金できるのでしょうか。いいえ、90%の皆さんが老後資金を用意できないと思います。しかも、3,000万人~4,000万人が老人になるのです。これだけ多くなると、下流老人問題は国家運営を大きく左右する問題になります。それが、実際の数字として、崩壊のシグナルとして、すでに出てきているのです。
更に、7040問題とネーミングされているものもあります。いわゆる、親の年金で生活している人達の問題です。いずれ、70歳の親は死にます。今40歳の子供は収入を断たれます。生活保護に頼るしか方法はありませんが、そんなこともせずに孤独死をする人が増えるのではないでしょうか。もちろん、生活保護での生活は、悠々自適の生活ではありません。その上、生活保護費そのものも、削減が進んでいます。生活保護受給者が増えていくのですから、ますます、削減されることになります。
近い将来、生活保護費だけで30兆円の財源を必要とする時代がきます。医療や介護を計算に入れれば、それ以上の財源が必要です。そんな財源は、この国にはありません。「無い袖は振れない」という現実が何を意味するのか。貧困に苦しみ、路頭に迷う人達が、今後、増えてくるのです。餓死者も当たり前の社会になります。この近未来の崩壊だけではなく、今でも、生活保護で生活している人は増えています。政府は好景気だと言いますが、なぜ、こんなに壊れていく人たちが多いのでしょう。
NHKスペシャル取材班が出した「母親に死んでほしい」という本を紹介する記事を読みました。それによると、2週間に1件、介護殺人は起きているそうです。こんな時代が来ると書いたのは、随分昔だったような気がします。私は、昨年、妻を亡くし、介護殺人からは放免されましたが、殺す側の気持ちは痛いほどわかります。誰も、自分の家族を殺したいと思って殺しているのではありません。こんな時代になることを誰も予想しなかったのは、どうしてなのでしょう。今、考えれば、これは必然だと思いますが、知らぬ間に「あちゃー」状態になってしまいました。しかし、相変わらず、国民は「俺には関係ねぇ」と思っています。「交通事故死に比べれば、大したことじゃない」と言う能天気な方も必ずいます。でも、そうじゃありません。これは、日本崩壊のシグナルなのです。国民、一人一人、例外なく、地獄に叩き落される日がやってくるのです。「あちゃー」になってしまってからでは、手の打ちようもありません。事前に回避する行動を起こすしか方法はないのです。
国は、国民の「自己責任」に誘導したいと思っているようですが、これは、どうみても、国家運営の失敗だと思います。いつものように、国は知らん顔です。これらは、目の前に、現実に、存在する崩壊現象です。本当に、この国は、国民のためにあるのでしょうか。「国とは何か、国民とは何か」を問うべきなのではありませんか。国が、その責務を果たしているようにはみえません。

そんな現実の中、直接、崩壊の引き金を引くのは、財政破綻という現象だと思います。
いや、財政破綻を回避するために導入されるインフレ税が崩壊の引き金を引くのですが、本質的な原因は財政破綻によるものだという意味です。財政問題の中には、先ほど挙げた「今さえよければ」「自分さえよければ」「俺には関係ねぇ」「なあ、なあ」「まあ、まあ」の全てが含まれています。
今、世界は金融正常化へと向かおうとしています。
金融緩和政策は、どこの国でも同じようなことをやっています。国債を大量購入しているのは日本だけではありません。市場に大きな資金を流そうとすれば、ボリュームの大きい国債を道具に使うことは自然なことです。ただ、私達は、金融緩和というカンフル剤を注射しなければならない状態が正常な経済状態ではないことを忘れています。また、世界の金融緩和政策と日本の金融緩和政策は、その発想の原点が違います。日本の場合は、世界的なカンフル剤注射という流れを利用して、国債ファイナンスを既成事実にすることが目的です。
金融市場では、日銀の出口戦略に対する言及が増えてきました。これは、世界潮流ですから市場の反応は間違っていません。
日銀には、何もできないのか。
日銀も金融正常化に踏み切るというアナウンスはできます。既に、日銀の国債購入額は40兆円程度になっています。お気付きの方もいると思いますが、この金額は新発国債の金額です。80兆円という国債購入の限度額を下げることは可能なのです。それ以上は減額できませんが、正常化に舵を切ったことをアナウンスすることであれば、今でも、出来ます。もちろん、その時、長期金利の急騰があれば、頓挫する可能性もあります。ただ、ETF購入の減額や停止や手持ちの株式の放出をすれば、明からに株式市場は大暴落になりますから、当面は、出来ません。
最終的に、日銀が新発国債を購入することができれば、日本の金融緩和政策の目的は達成できるのです。回りくどいやり方でしたが、この国に必要なのは、中央銀行による国債ファイナンスです。日銀がファイナンスしなければ、国の予算が執行できないのですから仕方ありません。でも、これ、変ですよね。私には、末期症状に見えます。
もしも、日銀が金融正常化への舵を切れば、何が起きるのか。いや、世界が金融正常化へ向かえば何が起きるのか。そうです。金利との戦いが始まるのです。皮肉なことに、いくら金融緩和をしても上昇しなかった消費者物価も、金利上昇が始まれば、物価も上昇します。結果的に、デフレ脱却が出来て、万々歳なのでしょうか。違います。インフレに突入するのです。もちろん、今日明日に激変が起きると言っているのではありません。どのくらいの時間がかかるのかは不明ですが、方向性の話をしています。
では、この先、何が起きるのか。
どんなことでも、辻褄は合うようになっているのです。
特に経済では、ごく、自然なことです。どんな経済活動でも、その基本は、需要と供給、収入と支出です。辻褄を合わせようとする力が働く場合、収入を増やすか、支出を減らすかのどちらかの方法しかありません。国家財政の場合、支出は減らないという現実があります。だとすると、収入を増やすしかありません。収入を増やす方法は、国の場合だと、GDPを増やすことで税収を増やす方法があります。しかし、人口減少と経済構造の老朽化を迎えているこの国にとっては、至難の業です。今は、世界景気が上昇期にあり、円安が企業収益にプラスに働き、GDPは若干ですが増加しています。これは、一時的な現象にすぎません。
もしも、GDP増加による自然増収が続かないとすると、残された方法は増税しかありません。今でも、多岐にわたる増税が検討され、少しずつ実行されていますが、とても税収不足をカバーすることはできません。マイナンバーの紐付け作業は着々と進んでいて、近い将来、資産税の導入が始まりますが、資産税でも税収不足は補えません。でも、それでも、辻褄を合わさなくてはならないとすると、最終兵器の出番がやってきます。それが、インフレ税です。先程も書きましたが、インフレ税の舞台は整いつつあります。
ただ、この国は、あまりにも借金が多すぎて、ハイパーインフレで辻褄を合わせるしかないとすると、そのインフレ税は国民が耐えられる限度を越えたものになります。
ハイパーインフレに警鐘を鳴らす人が増えているのは、自然なことです。他に方法はないのですから、インフレ税は必然だと思わねばなりません。ただ、インフレ税とハイパーインフレによるインフレ税は、全くの別物です。
それなのに、未だに、ハイパーインフレになった時の国民生活はどうなるのかについての言及はありません。どうして、誰も、このことに言及しないのでしょう。国は、国民のために存在しているのであれば、国民生活が最優先であるはずです。まるで、国民生活など取るに足らないことだと言っているようなものです。インフレ税やハイパーインフレという言葉は使われる機会が増えてきましたが、国民は他人事だと感じています。それは、インフレ税やハイパーインフレと国民生活の関係を誰も語らないからです。ですから、国民は「俺には関係ねぇ」と思い込んでいます。でも、現実を見てください。「インフレに苦しむ国民」というニュースは、いろいろな国が発信します。インフレになって苦しむのは、いつでも、どこの国でも国民なのです。もちろん、ハイパーインフレの被害者も国民であり、全責任は、国民が取るのです。その時が来たら、国民は「あちゃー」と言うしか道はありません。もちろん、「あちゃー」で終わりではありません。「あちゃー」の先には地獄が待っているのです。もう、貧しさやひもじさを体験した人は少なくなったと思います。いや、憶えている人はいないのかもしれません。でも、その貧しさやひもじさに耐えることが、今の私達に出来るとは思えないのです。この物理的な貧しさやひもじさは、心を壊します。それは、修羅の道を歩まねばならないということです。多くの人の心が壊れるのですから、修羅こそが日常になるのです。修羅の世界とは強いものだけが生き残る世界です。そんな国になってもいいと思っている人はいないでしょう。でも、皆さんが、そのことに気付かなければ、そんな時がやってくるのです。
私は、根っからの悲観論者ですから、悪しき未来しか予測できません。私の予測を読んでいると、いいかげんウンザリすると思います。ただ、残念なことですが、私の予測はよく当たるのです。確かに、一分の狂いもなく当たるわけではありませんし、時間的なズレも生じますが、予測はおおむね現実になります。でも、それを皆さんに伝える力が私にはありません。私は、自分の非力が悲しいです。

一般論ですが、世の中に奇手・奇策・妙案・隠し玉・一発逆転の手法は、ほぼ存在しないものと思っています。現在の進行方向を変えようとすると、年単位、10年単位の時間が必要です。特に、国の方向性を変えるためには多くの時間が必要になります。短時間で国の方向性を変える必要に迫られた時に「革命」という手法が採用されるのは、この時間軸の制約があるからです。方向性を変えるということは、簡単なことではありません。
時間的な制約だけではなく、もう一つ、人間が人間であるためには、「欲」を排除できないという絶対命題が存在していることが大きな制約になっています。「欲」を失った人間は地球上から消滅します。言い換えれば、人間は「欲」で出来ているのです。ですから、「自浄能力」などという言葉は、弁解のために存在しているのであり、人間が自ら「欲」を捨てることを願うことは現実的ではありません。方向性を変えるということは、この「欲」と戦い、ねじ伏せるという荒業が必要なのです。
もしも、全人類が霞を食べて生存可能な仙人になれるのであれば、「欲」と縁を切ることは可能かもしれませんが、空想と現実は同一のものではありません。もっとも、全人類が仙人になったとしても、全ての仙人が解脱する必要があり、エネルギー源が霞になっただけでは「欲」との縁は切れません。つまり、私達人間は生きている限り「欲」とは縁が切れないのです。これ、当たり前のことです。
現在の体制で、それがどんな体制であろうとも、誰一人利益を享受している人が存在しないという体制は存在しません。誰かが、利益を得ているのです。その利益を得ている人達が、自分の利益を差し出すなんてことは、起きないのです。なぜなら、利益を得ているのが人間だからです。ただ、私達人類は、他の動物にはない「理性」という知恵を持っています。原点に戻り、視野を広げれば、新しい道が開けます。私達は、生存を続けなければならないのです。
私達が生存を続けていくためには、子供や孫に生活を引き継ぐためには、軌道修正をするしかありません。確かに、これは「欲」という自然の摂理に反することかもしれません。でも、他に方法がなければ、やるしかないのです。国民は、今の国民だけが国民ではありません。将来の国民も国民なのです。それを実現するために国家というシステムが存在している、と思っています。軌道修正のための、奇手・奇策・妙案・隠し玉・一発逆転の手法が存在しないのであれば、私達が市民革命の出来ない民族なのであれば、地道に変えていくしかないのです。私達国民はこの国が国になった時から、一度も市民革命を起こしていません。今でも曖昧文化の中にいる私達に、革命という考え方は生まれません。中には、明治維新が革命だと思っている方がいるかもしれませんが、あれは、単なる政権交代です。世界潮流に押されて近代化は進みましたが、本質的には封建制度から抜け出せていません。それは、今も同じです。封建制度下の国であれば、犠牲になるのは「下々」である私達なのです。だったら、地道に変えていくしかなかったのです。地道に変えるためには、時間が、多くの時間と努力が、必要です。
しかし、もう、その時間がありません。
だったら、運よく生き残る人達に、何かのメッセージを残すことが私達の仕事なのではないでしょうか。曖昧なまま崩壊し、曖昧なまま再建しても、曖昧な国家が生まれるだけです。民は、いつまでも「下々」の状態のままです。

私達の国は、今、内憂外患の真っ只中にあります。
中でも、一番大きな内憂が経済の老朽化であり、外患では、紛争の増大です。
それが対岸の火事に見えるものでも、影響はあるのです。
今年も、多くのことが起きると思います。私達にとって良き事が起きてくれればいいのですが、落ち目の時には悪しき事が起きることのほうが一般的です。不幸の神は群れたがるのですから、仕方ありません。
今年も、細々と経過観察を続けていこうと思っています。


2018-01-01



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混沌 [評論]



世界は混沌の時代に入ると書いて10年ほど経過しました。
10年前と現在を比べてみれば、世界の混沌は、日々、深化していっているようにみえます。
日本でも、安定政権と言われながら、景気が良いと言われながら、なぜか、混沌の中にあります。庶民は不安で仕方がありません。確かに、庶民の不安には、明確な根拠はなく、ただの直感にすぎませんが、この直感は取るに足らないことなのでしょうか。
混沌は、収斂の過程にすぎません。
この混沌は、どこへ収斂していくのでしょう。
私達の不安は、どこへ行くのでしょう。
少なくとも、平和や繁栄の前触れのようにはみえません。
もちろん、こんなことを個人が心配したところで、意味はありません。
でも、遠い異国の出来事が私達の生活に影響してきた時は、私達は自分を守らねばなりません。自分を、というよりは、子供達を守らねばなりません。「俺には関係ねぇ」と言ってみても、役には立ちません。ですから、せめて、その覚悟は持っておく必要があると思います。そして、その覚悟は、できるだけ早いほうが良いと思います。「ある日、突然」では覚悟よりも「うろたえ」が優先してしまいます。その「突然」は、もしかすると、「明日」なのかもしれないのです。

地球上のどこかに安定した地域が存在しているのでしょうか。
私には、思い当たる地域がありません。
冷戦後、いや、第二次大戦後、最も不安定な世界になっているように見えます。
もちろん、私は専門家ではありませんので、情報量も少なく、知見もありませんが、一般常識程度ですが、世界を簡単に見てみましょう。
アフリカはどうでしょう。
貧困と搾取に支配され、多くの難民が生み出されている地域です。
欧州各国からの独立は完成したように見えますが、搾取という歴史は続いていて、まだまだ欧州支配の残滓から逃れたようにはみえません。人類発祥の地といわれていますが、古い時代から苦難が続いています。アジアの時代の次はアフリカの時代と言われていますが、本当に、アフリカの時代は来るのでしょうか。欧州各国に搾取されていたアフリカが、中国に搾取されるアフリカになることはないのでしょうか。
南アメリカ圏はどうでしょう。
ブラジルの行き詰まりは深刻です。ベネズエラは、食料不足が懸念されています。その他の国も、地下経済に支配されています。立ち直るためには、世界との競争に勝たねばなりません。時を失ってしまったように見えてなりません。経済の行き詰まりは紛争に繋がる危険があります。
中近東はどうでしょう。
シリア内戦により、シリアはボロボロの状態になり、ISILの支配は終わりつつありますが、テロの温床であることは変わっていません。イランは、シリア内戦を好機ととらえ、サウジアラビアの周辺国であるイラク、シリア、レバノン、イエメンへの影響力を広げ、サウジアラビアはイランに対する危機感から、イランとの戦闘になる可能性もあります。アメリカやロシアから、大量の武器を買っています。イスラエルのニュースは少ないですが、イランが核兵器を完成させた時は、イランを、その核施設を、攻撃するでしょう。複雑な事情を抱えている中東全域が戦争状態になっても不思議ではありません。
ヨーロッパはどうでしょう。
イギリスのEU離脱。スペインの一地方の独立騒動。独立運動はイタリアでもあります。ギリシャという金食い虫も健在です。ギリシャは洪水被害の費用が捻出できずに、EUに泣きついています。EUの盟主であるドイツでも、メルケル首相に暗雲がかかっています。欧州全域で、難民受け入れ反対を主張する右派が勢力を大きくしています。ロシアも虎視眈々と狙っています。
アメリカはどうでしょう。
トランプの出現で、中長期的に、アメリカの地位は没落しようとしています。11月の中国訪問では、中国に自信を持たせてしまいました。「トランプは臆病な犬にすぎない。あの男は、吠えているだけで、何もできないだろう」と思ってしまったとしても納得できます。理念を捨て、目先の金に目を眩ませたトランプ外交は、禍根を残します。国内でも、分断は続いています。これほど問題山積みのアメリカを見るのは初めてかもしれません。
アジアはどうでしょう。
一番大きな危険を孕んでいるのはアジアだと言われています。
北朝鮮の問題だけではなく、最大の懸念は中国です。周辺国は戦々恐々としています。恐怖が支配する地域になるかもしれません。数年以内に、台湾への武力侵攻作戦が実行されるという説もあります。台湾進攻をしても、トランプの北朝鮮対応を見るかぎり、アメリカの反撃はないという感触も得ました。トランプは吠えるでしょうが、無視すればいいだけです。台湾を占領すれば、念願であった太平洋への道は開けます。中国は、既に、世界制覇を目的としていることを隠さなくなりました。勝手に設定したものではありますが、第一列島線は既得権であり、今は、第二列島線が目標になっています。中国が太平洋を半分支配したいと考えているのは、仮に、それが100年後であったとしても、アメリカ本土に侵攻する道を確保しなければならないからです。今、米中戦争が起きても、中国は負けないと言われています。10年後の米中戦争では、中国のほうが優勢になると推定されています。現在の延長線がこのまま続くとすると、30年後には、アメリカは降伏するかもしれません。中国の第二列島線はアメリカ侵略の大きな布石です。一帯一路で欧州への、第二列島線でアメリカ大陸への道を作るのは、それが、世界制覇に欠かせないからです。このことは、多くの方が指摘していますが、トランプは知らんぷりをしています。今のアメリカはこれまでのアメリカとは別のアメリカだと認識する必要があるのです。欧米諸国の認識は、中国の世界戦略は夢の範疇だと考えているようです。私も、実現の可能性は大きくないとは思いますが、ゼロではありません。中国は夢に向かって邁進するでしょう。
武力と経済力を背景にして、中国が得意とする二国間交渉を行えば、小国はひれ伏すしかありません。ただ、中国は内部に多くの危険な問題を抱えていますので、内部破壊が起きる可能性があります。その時は、外部に対する強圧的な行動で民の意識を変えようとします。これも危険です。どちらに転んでも、世界で一番危険なのは中国です。これも、世界常識となっています。私達の国は、その周辺国の一つですから、影響は大きいと思います。

どこで紛争が起きても不思議ではない状況は、深化することはあっても、解消される希望は持てません。なぜなら、世界は「自分さえよければ」で動いているからです。
グローバル時代だと言われ、昔よりは異国の異変がニュースになることは格段と増えましたが、それでも、全ての異変がニュースとして伝えられているわけではありません。例えば、衆議院選挙で自民党が大勝したことを知っている外国人は、限られた地域の、限られた人達だけだと思います。いや、日本の衆議院や自民党のことを知っている人達は、それほど多くはありません。同じように、私達も他国の事情には詳しくありません。しかし、地球上の、どこかの異変が、世界的な異変になることは歴史が証明しています。「俺には関係ねぇ」では済まないのです。
国際関係は「自分さえよければ」のせめぎあいだと書いてきましたが、これは阻止できません。それは、歴史を見れば歴然としています。他国の「自分さえよければ」に巻き込まれれば、私達の生活は破壊されます。結局、自分を律するしか方法はないのだと思います。他国の「自分さえよければ」に巻き込まれないためには、私達が強くならなくてはなりません。何よりも、経済的に強くなることです。最強の経済は、最強の安全保障でもあるのです。ところが、私達の国は、自分で自分の国を守れない私達は、その経済という安全保障をも失いつつあります。あるのは、自民党が、官僚が、得意とする空虚なスローガンだけです。耳障りの良い美辞麗句の使い方は芸術技です。スローガンにも賞味期限があるようで、次から次へと新しいスローガンが発表されます。ただのスローガンですから、その中身を実現させる必要はありません。言葉さえかけておけば、日本国民は、大人しくしていてくれます。今度の新しいスローガンは、「人づくり」と「生産性」という言葉に「革命」という言葉さえ使ってみせました。これは、言葉を愚弄する行為です。過去を温存し、その過去の上に屋上屋を築くことが「革命」ではありません。過去を全否定するから「革命」なのです。「改革」という薬では効き目が薄くなってきたから「革命」という言葉を利用したのでしょうが、定義もなく安易に言葉だけを利用してしまう風潮を作ることは、「何でもあり」の世界を作ってしまいます。私達は、スローガンを掲げることで何かが変わるという夢を、夢だけを、皆で、みているのです。これは、マスターベーションと呼ばれる行為です。

私事で申し訳ありませんが、私はタバコ中毒です。禁煙外来にも行きました。一念発起もしました。でも、どうしても禁煙ができません。実に情けない「ヘタレ」なのです。タバコ一箱が、1,000円になるという話もありますが、多分、それでも、禁煙は出来ないと確信しています。食べるものを削っても、タバコを買うと思います。栄養不足で死ぬことになっても、タバコだけは買うでしょう。それが、中毒患者のあるべき姿だからです。なぜ、こんな馬鹿なことができるのか。それは、私が死んでも、誰にも迷惑をかけることはない、と勝手に思っているからです。子供は自立しており、私の死で、子供や孫に迷惑をかけることはないからです。ま、それでも、迷惑には違いないのですが、いつかは死ぬのですから、大目に見てくれと頼んであります。
そんな意志薄弱な「ヘタレ」な私でも、麻薬には手を出していません。ただ、麻薬患者の気持ちは理解できます。タバコ中毒の場合は、最低限のニコチンを供給しておけば中毒を維持することができますが、麻薬の場合は、使用量が増え続けるという弱点があります。タバコでも麻薬でも体に悪いことに変わりはありませんが、資金が続くのであれば、常用は可能です。私達人間は、「今」しか見ません。タバコや麻薬を常用している状態は、もう当たり前のこととして容認してしまいます。実に、不思議です。
私のタバコ中毒と国家財政を同列で論ずることはできませんが、私達の国も、中毒患者と同じ症状を示しています。借金なんて当たり前。利権なんて当たり前。「今、何とかなっているのに、何が問題なのだ」と開き直るところも中毒患者の症状です。スローガンだけを掲げて、何かをやった気分に浸って、納得している国、それが日本です。禁煙が出来ない私が言うのは僭越ですが、これは、間違っています。私が死んでも、影響は限定されていますが、国が死ねば、全ての国民に影響が出ます。その認識を、国家運営者の皆さんは持っているのでしょうか。国会議事堂という立派な劇場で、国民が選んだとされる議員が、茶番劇を演じている時ではないと思うのです。私達は、国会議員という名の三文役者を選ぶために投票所へ足を運んだのでしょうか。違いますよね。国会議員も国民も、勘違いしています。いや、この状況が当たり前だと思っているのです。これも、中毒症状です。それは、選挙システムの間違いから生まれています。選挙制度が民主主義の根幹だと、誰もが言います。でも、形さえ整えれば、民主主義なのですか。「地盤・看板・鞄」という選挙方式が幅を利かせる時代なのでしょうか。確かに、儀式好きの日本人は、形さえあれば納得してしまうことがあります。「お上」から与えられた民主主義が民主主義だと信じ込んでいます。いい人達ばかりですから、波風は立てたくありませんから、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で流すことを好みます。しかし、ほんとに、これで、いいのでしょうか。皆さんは、どうして、制度の中身に言及しないのですか。なぜ、現行の制度の上に胡坐をかいている国会議員が、茶番をやっていても、許されているのですか。それは、国民が黙認しているからです。私は、そのことを、選挙制度そのものに問題があることを、国民が黙認するという選択肢しか持っていないことが問題であることを、指摘している人を知りません。国会議員になれば、もう、やりたい放題なのです。「政治家の政治家による政治家のための選挙制度」ではなく「国民の国民による国民のための選挙制度」が必要なのだと思います。利権集団と付和雷同集団に支えられている政府が出した法案は、政府案通りで可決されます。これが、国民のための国家運営だとは思えません。検察が起訴した裁判では、必ず、検察が勝つことになっていることと共通します。これが、日本流と言われている決定方式です。このやり方は、独裁国家のやり方と似ています。とても民主主義には見えません。選挙という儀式を通過しさえすれば、独裁が可能なのです。これは、儀式になっている選挙制度に不備があるということなのではありませんか。何も、自民党だけが悪いのではありません。立憲民主党は、立憲主義だ、民主主義だ、と主張しているのに、民主主義の定義もしていませんし、選挙制度にも言及していません。やっているのは、森友・加計です。本来は、「国民の国民による国民のための国家運営」をすることが、民主国家の政治家の仕事です。しかし、与党の政治家も、野党の政治家も、国民のためではなく、自分の利益のために仕事をしているのです。そんな彼等にとって、民主主義の定義も、選挙制度の中身も価値のあるものには見えていないのです。
確かに、人間は、変化を嫌います。ましてや、気付いていないことを変えるという発想は生まれてくることはありません。先ず、気付くことが必要なのです。ただ、日常に流されていると、気付くこともできません。そこで必要となるのが「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義です。定義があれば、「何か変だな」が「これが、変なんだ」と気付く機会を提供してくれます。もっとも、定義が必要だということにも気付かないのですから、手の施しようがないと言ってもいいのかもしれません。でも、それでも何とかなる時代であればいいのですが、世界は変わりつつあります。私達の国は世界の変化に対応しているのでしょうか。残念ですが、置き去りにされているとしか思えないのです。私達の「なあ、なあ」「まあ、まあ」は高い代償を払うことになります。最終的には、国民が責任を取ることになるのですが、そのことに気付いている方もいません。気付いていないことばかりです。これは恐ろしいことです。もっとも、気付いていないからこそ、平然としていることが出来る。これって、宝の持ち腐れの見本なのではありませんか。これも、愚か者の姿です。私は、国民の皆さんが無知無能だと言っているのではありません。皆さんが知識を持っていることは知っています。皆さんは、私よりも、はるかに豊富な知識を持っています。でも、その知識は、埋もれていませんか。結果的に、心ならずも、宝の持ち腐れの見本になってしまう。そんな危険はありませんか。きっと、そのことにも気付いていないのでしょう。自業自得と言ってしまえば、その通りなのですが、その結果は辛すぎる結果になります。
「一寸の虫にも五分の魂」という言葉もあります。何とか抵抗すべきなのではありませんか。私の主張が全て正しい、などと言うつもりはありません。世にいう常識という点からみれば、常識外れ、現実離れ、滅茶苦茶なことを書くことが多いことは確かです。でも、常識はいつでも変化します。現実問題として、不可能だと思っていれば、手も足も出ません。多くの方が、何とかしなければならないと感じているのであれば、直感がそう教えてくれているのであれば、やってみるべきなのだと思います。そのためには、先ず、気付くことです。どうか、皆さんの知識を総動員して、今の危険な現状に気付いて欲しいと願うばかりです。確かに、「今」はいいでしょう。「自分」は何とかなるでしょう。でも、「明日」は、「子供達」は、「孫達」は、大丈夫なのでしょうか。もしも、「国とは」という定義があり、国とは未来永劫継続しなければならないシステムだとすれば、排除しなければならないのは「自分さえよければ」と「今さえよければ」なのではないでしょうか。
この国は、未来の子供達のために存在しているという定義ができれば、現状は変わっていくと思うのです。そのために、安楽死法案が必要であれば、作ればいいのです。

毎月、毎月、ほんとに、無駄なことを書いています。
石田も、マスターベーション常習者だということなのでしょう。
でも、いつも思うのです。
子供達に、これから生まれてくる多くの子供達に、ほんとに、申し訳ないという気持ちで一杯です。日本崩壊は、私達大人が、やるべきことをしなかったことが原因です。どうか、許してください。いや、いや、許されませんよね。
でも、大人達は気付いていないのですから、どうすることも出来ません。

2017年も終わります。
一年を通して、愚痴ばかりで、申し訳ないと思っています。
それでも、来年も、愚痴を書くことになるのでしょう。
どうか、ご勘弁ください。


2017-12-02



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諸悪の根源は [評論]



今日は、「諸悪の根源は曖昧にあり」という持論を、生活体験を通して書いてみたいと思います。もちろん、曖昧文化には、たくさん、いい面があります。しかし、物事には必ず裏面がありますので、その悪い面が、私達の生活を圧迫し、不幸な時代を生んでいると思っています。NHKのことを書きますが、これはNHKだけの問題ではありません。

先日、NHKの勧誘員が来ました。
勧誘員という言い方が正しいのかどうかわかりませんが、既に死語になっていると思われる「受信料」を支払う書類にサインを強要するNHKの下請け企業の方です。今回の方は、慇懃無礼を全身に纏っているような方でした。彼等も商売なのですから、必死なのはわかりますが、どうして、上から目線なのでしょうか。マニュアルの内容も進化しているのだろうと思っていましたが、あまり変わっているようにはみえませんでした。
「公共放送」だから。
「公平」を期すために皆さんで「平等」に負担していただくのが当然のことである、というものです。
国民の皆さんはいい人ばかりですから、反論の難しい言葉(公共、公平、平等、等々)を選び、契約を迫るやり方は、政府のやり方とよく似ています。こういうやり方を、私は、いつも、言葉による詐欺だと言っていますが、多くの方が騙されている現状を見ると、政府やNHKのやり方は間違っていないのでしょう。
でも、国民の皆さん、そしてNHKさん、それは勘違いですから。
もっとも、その勘違いは政府やNHKだけではなく、広く、あらゆる分野において共通するものです。おれおれ詐欺も、その一つです。
ただ、NHKの立ち位置は、戦後日本を象徴しているような組織だと思っています。
NHKは「官」でもなく「民」でもない、曖昧なものです。曖昧なまま、肥大化することしか考えてこなかった、昭和の異物のような組織です。電波を増やし続け、そのための土地建物・設備に金を使い、人員も増やしてきました。経費を増やすことで、視聴料を値上げする材料に使ってきました。それに伴い、NHK職員の報酬も膨大になりました。年収は公務員の2倍の1,200万円です。でも、もう、時代はそんなことが許される時代ではありません。年金生活者が急増しており、私もその一人ですが、年収100万円や200万円の老人が、なぜ、年収1,200万円のNHK職員の生活を支えなくてはならないのでしょう。これが、「公平」や「平等」や「公共」の正体なのですか。違いますよね。彼等は利権集団になっているのです。森友や加計よりも、はるかに多くの、桁違いの利益を吸い取っている、利権集団なのです。
ここでも「公共放送」という言葉の定義が見当たりません。「民」で出来ることは「民」に、というのが時代の流れです。ところが、「官」でも「民」でもないNHKは利益を貪ることが可能なのです。これも、曖昧から生まれる利益の一つです。民放テレビの社員も高給取りですが、テレビ離れが進んでいる今の時代、このままだと、テレビ局が人件費の削減を余儀なくされるような時代になります。しかも、民放テレビは視聴者から集金していません。そんな時代に、NHKは、国民に負担を押し付け、肥大化を進める環境を守るためにあらゆる手段を使っています。「欲」のかたまり、そのものです。「公共」というぬいぐるみを着た「自分さえよければ」です。努力の矛先が違っています。「官」であろうと「民」であろうと、先ず、合理化の努力はしなければなりません。
「民」であれば、どこの大企業も人件費の削減に血道をあげてきましたが、「ぬるま湯」のNHKは、そんな血も流していません。
NHKの視聴料を払っている皆さんは、平気なのでしょうか。
皆さん、お金の苦労などしていないのでしょうか。
そうではないと思います。
皆さんは、曖昧文化の中で、言葉で騙されている、詐欺の被害者なのだと思います。
NHKの視聴料が、「何か変だな」と思っている方でも、「面倒だから」「しつこくやって来るから」という理由で、泣き寝入りをしているだけです。喜んで視聴料を払っている方は、数えるくらいしかいないのではないでしょうか。
利権は、曖昧の中から生まれる、と書いてきましたが、NHKも同じ構図です。
公共放送の定義をし、国営放送にし、報道に特化したテレビ局にすることが、時代の要請なのではないでしょうか。民放テレビと同じことをする必要はありません。放送法という前世紀の異物である法律を変えればいいだけのことです。自民党は、憲法でさえ時代に合った法律にしたいと公言しています。放送法だって、時代に合わせる時です。しかし、NHK職員は、国営放送になり、公務員に成り下がれば、報酬が半減します。また、NHKが国営になれば、政府は、税金でNHKを維持していくために増税が必要になり、選挙で不利になります。国家運営者も、NHKという名の利権集団も、今の曖昧が一番利益になるのです。
6割の国民がNHKと契約を結んでいるということは、6割の国民の皆さんが、利権集団を認めているということなのです。これも、民度の低さです。たかが、NHKですが、一事が万事だとすれば、国民の民度は悲しむべきレベルにあるということです。ま、確かに、面倒だし、長いものには巻かれたほうが楽だし、目くじらを立てる私が変人なのだと思います。でも、これで、いいのですか。これは、NHKだけの問題ではありません。今の構造のままであれば、民主主義風王政並立封建制度という曖昧な国体であれば、利権集団の皆さんは喜ぶでしょうが、一般の皆さんは、どんどん、追いつめられます。利権は、曖昧から生まれます。そして、その利権の原資は国民のお金です。しかし、利権集団だけがその利権を自分のものにすることができるのです。国民のために使われるのではありません。

ここで、ほんの少しだけ視野を広げてみます。
シャープの身売り、東芝の粉飾、神戸製鋼のデータ改竄、それ以外にも一般企業の話題は好ましくないものばかりです。実際に日本企業の国際地位は凋落し続けています。国民も不安に思っていますが、企業も将来を不安に感じています。ですから、個人も企業も守りに入り、昔のようなダイナミックな経済活動は影をひそめてしまいました。現状維持をすることが企業の短期目標になってしまったのです。個人は、老後資金の貯金が重要課題になり、企業は内部留保に傾注します。負のスパイラルは、既に、始まっているのです。以前に、老後資金1,000万円という記事に反論したことがありますが、最近では、1,000万円という記事は見ません。最近の相場は、6,000万円から1億円です。もう、私達国民には、手の届かない金額です。それでも、貯金はしなければなりません。
根底にあるのは、国民の将来不安です。国民は、新商品や新サービスを求めていません。その理由は簡単なものです。「金がかかるから」です。携帯電話が最後の新商品だったのではないかと思っています。ただ、携帯電話の普及で、多くの方が通信費の負担に苦しんでいます。今の老人は携帯を持たなくても生活できますが、この先、携帯なしの生活が出来ない人達が増えます。生活は、ますます、苦しくなるのです。
そんな国民を相手にしている企業は、資金を投じてでも新商品を開発しようとはしません。不測の事態に備えて、資金を貯め込むことが、当たり前の企業活動になってしまいました。
では、国民は、なぜ、不安なのでしょう。
それは、国家運営者が、少子高齢化に対して無策だったためです。
人口構成に無策。出生率の減少に無策。人口減少に無策。どの側面でも無策だったのです。
今日の状況は、50年前から予測可能でした。確かに50年後を予測するのは難しいと思いますが、せめて、30年前に、20年前に、対策を打ち出す必要がありました。
では、国は、なぜ、無策だったのでしょう。
高度経済成長に浮かれ、「時代を読む」という仕事を忘れてしまったからです。
私は、これを視野狭窄病と書いてきましたが、この視野狭窄は左右の視野が狭まるだけではなく、遠くのものも見えなくする病です。個人は、50年後100年後のことを考えていたのでは生活できません。でも、国は、50年後100年後のことを考えるのが仕事です。しかし、国家運営者は「自分さえよければ」「今さえよければ」という風潮を作り出し、「時代を読む」という仕事を放棄してしまったのです。利権集団のための政党が国家運営を牛耳っていましたので、今でもそうですが、利権集団の皆さんは、自分の利益確保しか見ません。既得権益にしがみついて、何が悪い、という開き直りもあります。国民不在の「自分さえよければ」「今さえよければ」は、今でも健在です。
その利権集団を象徴するような団体が、NHKです。
NHKは、次から次へと電波を増やし、設備を増やし、人員を増やし、肥大化することしか考えてきませんでした。今は、そんな時代なのですか。違いますよね。NHKにとって、「放送法」は既得権益です。その既得権益を守るために、形振り構わずに訴訟を起こし、国民を敵対視する団体になってしまいました。公共、公平、平等という言葉を利用し、独裁者ごとき振る舞いをすることに反省の色はありません。彼等の目的は、自分達の利益を守ることだけです。テレビ映像の鮮明さは、国民の悲願だったのですか。BS放送は、国民の願いだったのですか。違いますよね。既得権益を、少しでも増やそうとするNHKの助平根性から生まれたものです。テレビの視聴が衰退し、時代はネット社会になりつつありますが、NHKはネット配信事業を本格的に開始し、パソコンを持っていたら視聴料を取ることが出来る体制構築に必死です。どう見ても、既得権益の温存にしか見えませんが、まだまだ、やるつもりのようです。問題なのは、それでも、国民が無言でいることです。
しつこくて、すみません。年収100万円の年金生活者が、年収1,200万円のNHK職員を支えなければならない理由はどこにあるのでしょう。「公共」ですか。国民の犠牲の上に成り立つ「公共」が「公共」だとは思えませんが、「公共」の定義がないために、文句のつけようがなく、宙に浮いたまま、特定の団体が利益を得ている状態は、変です。
「公共」を旗印にしていていいのでしょうか。
NHKは、国民の皆さんに「平等」に負担していただく、と言いますが、私には「不平等」に見えてしまいます。それは、NHKそのものが不平等の上に成り立っているからだと思います。当初、日本でテレビ放送事業が立ち上がった時、政府は、その初期投資を国民負担で賄う案を採用しました。ここに、ボタンの掛け違いがあったのです。国営放送にしていても、時代の趨勢はテレビ時代になっていたでしょう。しかし、その初期投資を、時間が利権に変えてしまいました。国は、国家運営の失敗を認めません。NHKの受信料システムも少子高齢化も、失敗のツケを払うのは国民なのですから、政治は、何でもできるのです。もっとも、国家運営の失敗だとは、国民は知りませんので、何の問題もありません。
しかし、日本の、社会構造は、経済構造は、デッドロックに乗り上げています。
現在の延長線上に、日本の未来はありません。
この国には、大きな構造改革が必要なのです。
では、国家運営者が、たとえば安倍総理が、構造改革をするのでしょうか。
しません。
いや、できません。
国民が声を出さなければ、国家運営者は自分の利益を優先させます。国家運営者も人間なのですから、それが自然な成り行きです。
時代は、利権構造で成り立つ時代ではなくなりました。しかし、利権集団はその利権を死守しようとします。もちろん、NHKだけではありません。慣性の法則が働いていますので、簡単には進路変更が出来ないのも事実でしょう。それでも、私達は、全体として、間違いなく、追いつめられています。確かに、ここまで追いつめられると、そう簡単に構造改革は出来ません。安倍総理に構造改革を求めるのは、酷だと思います。なぜなら、安倍総理は神ではないからです。もちろん、誰が総理大臣になっても無理です。政策程度では変わらないほど、この国の病状は重いことに気付く必要があります。今も、「自分さえよければ」「今さえよければ」思考に変化はありません。国中が、「子供達のために」思考にならなければ、この国は救えないのです。私達は、一人の例外もなく、曖昧文化に、どっぷりと浸かっています。不安感や閉塞感は持っていますが、曖昧文化という坩堝の中にいる限り「何が問題なのか」について気付く人がいません。坩堝の中で、政策だと称して、右のものを左に移しても、左のものを右に移しても、問題は解決しないのです。問題を解決するためには、その坩堝から抜け出すしか方法はありません。しかし、坩堝の世界しか知らない人達が、その坩堝自体が問題なのだということに気付くことができるのでしょうか。無理ですよね。それでも、騙されたと思って、構造改革という言葉の定義をしてみませんか。そうすれば、究極の構造改革である革命も視野に入ってきます。もしかすると、窒息しそうな坩堝から抜け出せるかもしれません。
私達に残されている選択肢は、市民革命しかないものと思います。確かに、市民革命という存在そのものが古い時代のものですが、一度も市民革命をしたことがないこの国では、まだ、選択肢として残っているものと思います。
私は、ずっと、革命を推奨してきましたが、他に方法はないものと思います。
でも、市民革命なんて、私達には出来ませんよね。
そもそも、この国では、構造改革という言葉はお題目でしかありません。国民は、構造改革なんて「俺には関係ねぇ」と思っています。それは、曖昧体制の中では、何が問題なのかがわからないからです。問題がわからないのですから、その対策である構造改革も市民革命も俎上に上ることはありません。
だとすると、結論は一つしかないのです。
それが、「日本崩壊」です。
これは、私達の必然なのです。

それでも、私は、この流れに抵抗したいと思っています。
蟷螂の斧であろうと、ドンキホーテの風車であろうと、一人くらい抵抗する馬鹿がいてもいいと思っています。
NHKの勧誘員との会話は、大変、不愉快なものです。
サインしてしまえば、その不快から抜け出せるのですが、国民の皆さんに「声を出してください」と言っている私が、サインしてしまったのでは、洒落にもなりません。ここは、どうしても踏ん張るところだと思っています。以前にも書きましたが、訴訟も覚悟しています。
きっと、国民の皆さんには、馬鹿にされることでしょう。
「お前一人が、盾ついて、何になるのだ。馬鹿め」
「長いものには巻かれろよ。いい歳をして、馬鹿め」
確かに、私は馬鹿者です。
なぜ、こんな馬鹿なことをやっているのか。
私は生活を切り詰めていますので、受信料を支払うくらいのことは出来ます。しかし、自分が助かりたいと思っているのではなく、国民の皆さんを助けたいと思っているのです。こんなことを言うと、馬鹿の二乗と言われるのでしょうが、信じてはもらえないと思いますが、馬鹿者だからこそ、皆さんを日本崩壊から救いたいのです。
もちろん、私がNHKと言い争いをしたからといって、皆さんを助けることにはなりません。私一人の反抗では何の役にも立ちません。でも、皆が諦めてしまえば、ずるずると壊れていくだけです。せめて、崩壊に抵抗する努力くらいは、それが蟷螂の斧だったとしても、やらねばならないと思っています。それが、人間の矜持なのではないでしょうか。もちろん、私の体も、皆さんと同じように水分と助平根性でできています。残り少なくなった人生、最後に一度くらい、意地を張ってみようかという、これも助平根性の一つなのだと思います。まさに、馬鹿者です。
国が、国民が、経済が、順風満帆な時は、こんな抵抗に意味はありません。
しかし、今は、違います。
もしも、NHKに訴えられて裁判になり、この国の現状を公の場で話す機会が得られれば、もしかすると、崩壊に向かっているこの国の現状に気付いてくれる人がいるかもしれません。仮に、そんな人が一人もいなかったとしても、やってみる価値はあると思うのです。やってみなければ、何が起きるかなんてわかりませんから。
多分、確信はありませんが、今は抵抗することが必要とされている時代なのだと思います。

多くの方が、電気料金・ガス料金・水道料金・税金・保険料を支払っています。なぜなら、それがなければ、生活できないからです。しかし、NHKの放送がなくなっても、私達は生きていけます。つまり、NHKは、趣味嗜好の範疇にあるものなのです。趣味嗜好のものを、強制的に支払わせるのは、民主主義とは違います。しかし、今は、曖昧な体制の中で、それが大手を振って歩いています。司法も、その曖昧の中に埋もれているのが現状です。趣味の範疇にあるNHKが、国民相手に訴訟を起こすという暴挙を許している司法は糾弾されなければなりません。私達は、曖昧の利益に付き合うほど余裕があるのでしょうか。たかがNHKですが、曖昧という現状を認識する材料になってくれるのであれば、されどNHKなのだと思います。

私は、NHKとの契約を拒否しているのではありません。
本音では、NHKなんて無くてもいいと思っていますが、それでも、法律に支配されている市民である以上、悪法であっても、法律は無視できません。
ですから、私は、「ぜひ、NHKと契約をしたい」と勧誘員に伝えています。
「契約しなければならない」という法律がある以上、国民は契約するという選択肢しか持っていません。ですから、お互いの条件が折り合えば、契約はします。
NHKは、受信料を支払え、という要求です。
私は、NHKという放送は必要ないけど、法制上の問題だけではなく、未だに多くの方がNHKを視聴しているのですから、私の都合だけで廃止しろとは言えませんので、百歩譲って、せめて、合理化をしてください、という要求です。
その合理化の目標は、現在の視聴料の1/10で運営できる放送局にすることです。必要悪を認めるのは本意ではありませんが、理想だけでは何も変わりません。
本来は、視聴料の撤廃が理想ですが、少しでも、国民負担を減らすことができれば、それも現実的な方法だと思います。
ただ、一度に1/10は無理です。
最初は、経費の半減を目標にして契約をしましょうというのが私の要求です。
充分に、譲歩していると思います。
無茶な要求ではないと思います。
誰かが、この半減要求の半減要求を出して契約すれば、いつかは、1/10になります。
さて。
そのためには。
・ 電波を半減しなければなりません。
・ ドラマやバラエティや歌番組やスポーツ中継は必要ありません。それらの放送は「民」に任せるべきだと思います。報道に特化した内容にすれば、経費を抑えられます。大手を振って「NHKは公共放送だ」と言ってもらっても構いません。
・ 職員の給料を、せめて、公務員並みにしなければなりませんし、人員の削減もしなければなりません。
これが、私の具体的な要求です。
どこの企業でもやっていることです。
いや、今の時代、これが当たり前のことなのです。
契約書に、この要求を盛り込んでくれれば、サインします。
もちろん、合理化の期限も明記してもらいます。
契約に違反した時は、違約金も頂きます。
これが、契約だと思うのです。
NHKの用紙にサインすることが契約ではありません。

ま、確かに、一人の老人がNHKと争っても勝ち目はありません。
馬鹿な老人の繰り言です。
でも、国と争うよりはハードルは低いと思います。
このままでは、この国は壊れてしまいます。
私は馬鹿者ですから、少しでも、抵抗したいと思っているのです。
「これって、なにか、変ですか ?」
「・・・・・・・」
「やっぱり、変ですか・・・・ですよね」


2017-12-01



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定義と承認 [評論]



今、一部で、噴火の話題が盛り上がっているそうです。
富士山の噴火ではありません。
アメリカのイエローストーン国立公園の火山噴火の話題です。
噴火にも、いろいろとあるそうで、ウルトラプリニー式噴火と呼ばれたり、カルデラ噴火と言われたり、破局噴火と呼ばれている超巨大噴火の話です。
アメリカの火山噴火なのであれば、私達には関係ないと思うかもしれませんが、これが、そうではないようです。
イエローストーン国立公園の地下には、世界最大級のマグマがあり、60万年~70万年の周期で噴火が起きているようです。今は、直前の噴火から64万年になるそうです。時の単位が1万年ですから、実感としては捉えにくいのですが、明日噴火しても、5万年後に噴火しても不思議ではないとすると、心配する方がいるのは仕方がありません。
イエローストーンでは、2010年にも2,500回を越える群発地震があったそうですが、今年は、8月までに1500回を超え、地面の隆起も確認されていて、地震学者は困っているそうです。なぜ、困るのか。警告を発していいものかどうか、で困っているのです。余りにも被害が大きくて、警告による影響が大きすぎるのです。噴煙は地球全体を覆い、酸性雨が降り、平均気温は10度低くなるミニ氷河期になるからです。では、どんな影響があるのか。世界中の畑が枯れ、食料危機がやってきます。穀物が枯渇すれば、家畜の餌が不足しますので、肉も玉子も不足します。寒冷地では農作物は育ちませんし、温暖地でも、従来の作物は栽培できません。酸性雨に強く、低温でも育つ作物を探さねばなりません。「破局噴火」が起これば、深刻な食糧危機、それも世界規模の食糧危機がやってきます。かつて、7万年前のスマトラ島の火山噴火では、気温が5度下がり、地球上の人類は1万人にまで減少したと言われています。その時の人類が、全体で何人だったのかは知りませんが、存亡の危機にあったと言われています。アメリカのイエローストーン国立公園の火山噴火は、そのスマトラ島の火山噴火よりも規模が大きく、深刻な被害が出るとされています。ま、私達が心配しても、どうすることもできませんので、「ふむ、ふむ」でいいと思うのですが、困ったことです。
こういう話を聞くと、地球も生き物なのではないかと思ってしまいます。イヌイットの長老が、地球は傾いているとNASAに警告を出したという話もあります。長老の意見は、経験値であり、科学的な根拠はありませんが、実際に、地軸は不変ではなく、今も、年間数メートル動いているそうです。地軸の変化が異常気象の原因だと特定されたわけではありませんが、何かが変化しようとしていることは否定できません。また、地球温暖化の原因がCO2によるものかどうかはわかりませんが、人間は、CO2排出規制をするくらいしかやることがありません。もしかすると、CO2排出規制なんて、何の対策にもなっていないのかもしれません。
太陽も、これまでになかった動きをしています。
こういう現象を聞くと、地球も太陽も、滅びゆく過程にあるのかもしれません。
宇宙規模でも、地球規模でも、永遠や未来永劫が無いとすると、人類に未来永劫があるとは、とても思えません。
それは、それで仕方ありませんが、人類が最初に滅びるのであれば、なんとか穏やかに滅びることはできないものかと考えてしまいます。
トランプや習近平や金正恩は、そんなこと、思わないのでしょうか。
思わないのでしょう。

仮に、人類の滅亡まで、まだ数百年、数千年の時間があるのだとすると、何が必要になるのでしょう。
私の勝手な願望ですが、それは新しい哲学と思想なのではないかと思っています。
終焉に向かう人類の最後の知恵です。
それが、いつ、世に出てくるのかはわかりませんが、必ず、出てくるものと思います。
新しい哲学と思想については、具体的な想像が出来なくて、大変申し訳ないのですが、このままでは、自滅へと進んでしまいそうで、残念な結果しか想像できません。
では、ここで、目標を持ってみましょう。
地球や宇宙が壊れた場合は、私達人類に対応策はありません。SFの世界では、他の惑星への移住という対応策がありますが、現実の世界では、少し無理があると思います。
地球や宇宙が壊れるまでは、人類も生存し続けることが目標であってもいいような気がします。この目標は、かなりハードルが高いように思いますが、目標ですから、許容範囲だとしましょう。
では、ただ単に生存しさえすればいいのか、というと、それも芸がありません。
もう少し、目標を具体化してみましょう。
少しでも多くの人達が、少しでも平和で自由な環境で、少しでも豊かな生活ができる状態で、地球の終焉や、宇宙の終焉を待つ、という目標であれば、前述の目標よりは具体的です。もちろん、物理的なものばかりではなく、精神的なものも必要です。
「少しでも・・・」ということは、100%ではないということですが、目標に近づける努力はしなければならない、という意味です。
その目標のために、私達は何をすればいいのでしょう。
独裁国家や共産主義国家や封建制度の国では、目標の達成は難しいと思われます。
なぜなら、そのような体制では、一部の人達の利益にはなりますが、少しでも多くの人達の利益を考えた場合は、目標が達成できないからです。
民主主義国家にも、いろいろな問題があり、ベストな選択ではありませんが、他の方法よりは、目標に近づける可能性があります。民主主義よりもベターなものがない現状では、民主主義の運営という方法で、目標に近づくしかありません。世界には、これが民主主義の完成形だという国は、まだ、存在していないと思っています。ですから、日本がその完成形を目指しても何の問題もありません。民主主義から一番遠い場所にある日本が、先頭に立つのは難しいと思いますが、日本人であれば、出来るのではないかと思います。
その出発点になるのが、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義と国民の承認なのではないかと思います。民主主義の、その運営方法で目標に近づくためには、土台から作らなければ成功しないように思うのです。特に、私達の国には曖昧文化という巨大な壁があります。その文化を変えるという意味でも、定義をするという新しい文化は欠かせないと思います。
では、具体的な定義は誰が作るのか。
私達市民も議論には参加するべきですが、素案を作るのは、私のような素人がやってはいけないほどの、真面目なものだと思っています。これは、専門家の仕事です。
いろいろな学者の方がいると思いますので、いろいろな定義が出てくるのでしょう。その中から、国民が考え、国民が議論し、国民に承認されたものが、たとえ完璧なものではないとしても、この国の定義になるものと思います。
日本の場合、定義をし、承認するだけで、多くの問題が解決の糸口を見つけられると思いますし、方向性も見つけることができると思います。「目から鱗」状態になるのではないでしょうか。結果、あらゆる分野に方向性を持たせてくれます。政治の分野でも、法律の分野でも、統治機構の分野でも、方向性が変わります。最終的には、経済の分野でも、世界をリードするような経済を作り上げることも夢ではありません。一番変わるのは、文化の分野ではないかと思います。その文化は、もしかすると、世界を救う文化になるかもしれません。日本人には、混沌に向かっている世界を変える可能性があると思っています。
この定義があれば、左の方も、右の方も、この土俵の上に立つことになります。なぜなら、この土俵の上に立たなければ、国民の選択肢から外れるからです。
空気ではなく、定義が判断基準になると、確かに、窮屈にはなります。でも、その窮屈さの犠牲になるのは国民ではありません。政治家や利権集団や官僚を含む権力取り巻き集団の皆さんです。
これも、構造改革の一つの手法なのだと思いますが、残念なことに、このような提案は、見たことも聞いたこともありません。もちろん、構造改革には、他のアプローチもあるでしょう。しかし、現実としては、成功している手法はありません。だったら、やってみる価値はあるのではないでしょうか。一番難しいのは、国民に参加してもらう方法だと思います。国民は封建制度に慣れ親しんでいますから、参加することに躊躇するでしょう。日本国民にとって、国家運営者は「お上」であり、自分達の外注先だとは思っていません。ですから、「お上」に逆らう不忠のようなものだと感じてしまいます。
しかし、出口のない袋小路に穴を開ける方法は、これしかないのでは、と思っています。
袋の中が、+20度から-20度だとすると、環境が厳しくなるに従い、冷気は次第に袋の中を支配しようとします。袋の中に閉じ込められた国民は、温度が下がることで活動が鈍り、餓死者が出始めます。その状況が、すぐ近くまで迫っているのです。早く気付けば、犠牲者の数は減らせます。さあ、国民の皆さんは、どういう選択をするのでしょう。私は、風穴を開けるほうに賛成してくれるような気がするのです。封建制度よりも、本能のほうが強いと信じたいです。

袋小路でもがいているこの国が、いや、多くの国が、その苦境を乗り越える方法は、何も、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義だけだとは思いません。「何か、他に、いい方法があるはずだ。ふむ、ふむ」という方もいるでしょう。でも、「いい方法」という選択肢を提示している方を、私は知りません。私が知らないだけなのかもしれませんので、「いい方法」があるのであれば、その方法でも構いません。でも、いつかは、誰かが、やらねばならないように思います。その時の「誰か」は、国民なのではないかと思います。他の「誰か」は想像もできません。もちろん、国民全員は無理ですから、せめて、5%くらいの国民が、その意識を持てば、動き出す可能性があります。ただ、5%と言っても、数百万人です。途方もない数字です。数百万人の人が、「人類を、この国を、少しでも多くの国民を、救おう」と考えるためには、どうすればいいのか。私には、その方法がわかりません。こんなブログを書いているだけでは駄目なことだけは、はっきりしています。しかし、残念ながら、私には、これしかできません。どうしたら、いいのでしょう。
結局、私達は、崩壊を待つことしか出来ないのかもしれません。
それも、選択肢の一つです。
いや、これ以外に選択肢はないのでしょう。
仕方ないことだと思います。


2019-11-02



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小池知事へのエール [評論]



衆議院選挙は自民党の圧勝で終わりました。
中途半端な投票率を無視すれば、多くの国民が自民党に投票したようです。
これは、現実です。
「仕方ないだろう」という声が聞こえてきそうです。
その通りです。
仕方ありません。
一票を託したいと思う政党も、この人に国家運営をしてもらいたいと思う政治家も存在しないのですから、どうすることもできません。
でも、国民の皆さん。
これでいいのでしょうか。
皆さんは、まだ、この国が危機的状況になっていないと思っているのではありませんか。
「何とかなる」と思っているのですか。
いや、「なるようにしか、ならない」と考えているのですか。
ほんとに、それで、大丈夫なのですか。
確かに、私の予測は悲観的です。それでも、半値八掛けだとしても、危機的状況であることは変わりません。今までの行動原理に従っていていいのでしょうか。今回も、国民は意思表示をしませんでした。いつものように「なあ、なあ」「まあ、まあ」でお茶を濁しました。国民は、誰もが将来不安を持っているのに、自分を守ろうとしなかったのです。これが、日本崩壊の大きな要因です。国民は、この国の責任者です。皆さんが、これまでのように、そして、今回のように、自民党を信認し、責任を放棄していれば、皆さんがその責任を取ることになるのです。
「じゃあ、どうすればよかったと言うのだ。選択肢なんてないじゃないか」
ほんとに、そうでしょうか。
投票所に行くことが、国民の責任の取り方なのですか。
違うと思います。
民主主義が機能している時は、それが責任の取り方になることもあるでしょう。
しかし、今は、違います。
民主主義が機能していないのであれば、政治が機能していないのであれば、危機的状況であるのでれば、私達にはボイコットという選択肢だってあるのではありませんか。多くの国民が選挙そのものをボイコットすれば、組織票だけで選挙の勝ち負けが決まります。自民党、公明党、共産党が票を分け合うのです。結果は、今の状況と同じです。選挙に行こうが、行くまいが、同じ結果になるのです。皆さんは「この党に、この人に、この国の運営をしてもらいたい」と思って投票しているわけではありませんよね。皆さんがやっていることに意味はあるのですか。皆さんは、儀式に参列していれば、救われるとでも思っているのですか。その考えは甘いと思います。だって、社会が壊れ始めている今の状況を、皆さんは知っているのです。だから、将来が不安なのです。皆さんも、現在の延長線上に皆さんの幸せがないことに、気付いているのです。
だったら、政治そのものに不信任の意思表示をすべきなのではありませんか。
政権選択選挙である衆議院選挙の投票率が、50%や60%では、中途半端、まさに曖昧の領域にあります。投票率のグラフは、短期的に上下し、全体としては右肩下がりになっていますが、選挙が意味を持たないほどは下がっていません。実に、中途半端な場所にあります。この投票率を支えているのは、「ふむ、ふむ」年配の皆さんです。一見すると、良いことをしているように見えますが、これは老害だと思います。もしも、投票率が20%や30%になったら、多くの方が疑問に思うでしょう。「何か変だな」と思います。これは、与党とか野党という問題ではなく、政治そのものに問題があることを表面化することになりませんか。回りくどい手法ですが、他の選択肢がなければ、自分達を守ろうとするのであれば、藁に過ぎないかもしれませんが、そんな藁でもすがるべきなのではありませんか。この国が崩壊すれば、いや、必ず崩壊しますが、皆さんが、国民の皆さんが、責任を負わねばなりません。私には、国民の皆さんが墓穴を掘っているようにしかみえないのです。なぜ、抵抗しようとしないのですか。私には理解できません。

ある自民党の方が「自民党圧勝の功労者は、前原さんと小池さんだった」と言ったそうです。これは、多くの方が感じています。
小池知事の自爆が自民党を圧勝させたことは、正しい判断なのでしょう。
ここにも、不幸の連鎖があります。
不幸の連鎖を小池さんにバトンタッチした安倍さんは、ほっとしているでしょう。ほんとに、何が起きるか、わかったもんじゃありません。先月、投票日に台風というヨタ話を書きましたが、そんなヨタ話が現実となり、台風も安倍さんを助けてくれました。でも、国民が選んだこの現状維持は、もう少し広い視野で見ると、日本が不幸の連鎖にあるということです。
国民の中には「選挙に参加することは、国民の義務だ」と信じている方が大勢います。そういう方は、傘を差してでも投票所に行きます。私が言う「ふむ、ふむ」族の皆さんです。
でも、現在の選挙制度は、国民の意志を反映しているとは言えません。もしも、国民の意志が国家運営に反映されているのであれば、投票所に行くことが国民の務めかもしれません。しかし、そうはなっていません。国民の意志表示が、中途半端や曖昧では、自分の首を絞めることになります。私達は、皆で、「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやってきました。しかし、今は、曖昧文化に頼る時ではありません。国民生活も、社会も、経済も、壊れ始めています。これが現実です。このままで、「何とかなる」と考えるのは、甘いのではありませんか。
以前に何度も書きましたが、選挙と国家運営はリンクしていません。確かに、因果関係はありますが、選挙は選挙、国家運営は国家運営でお互いに分断・独立しています。選挙が終われば、何をやってもいいのです。別の見方をすれば、選挙は表看板であり、国家運営は裏稼業なのです。表と裏はつながっているように見えて、つながっていないのです。この国民と国会の分断は、この国を疲弊させてきました。こんなこと、いつまで続けるのでしょう。国民の皆さんは、諦めているのでしょうが、いっそ、絶望してみてはどうでしょうか。
でも、まあ、お互いに助平根性が前提になっていますので、これも仕方ありません。
政治家は、美辞麗句や餌をぶらさげ、国民は、何もせずに果実だけを求める。どっちもどっちなのですから、これでいいのかもしれません。結局、国民の意識レベルが変わらなければ、何も変わらないのでしょう。もっとも、石田も、何もせずに、こんな御託を並べているだけなのですから、これも助平根性です。
日本崩壊は、必然だということです。
皆で、赤信号に、突っ込むしかありません。
また、日本崩壊へ一歩近づきました。

朝日新聞は「立憲民主党、大躍進」と書いていたそうですが、50や60で大躍進の称号を与えるのはいかがなものかと思います。目糞鼻糞に焦点を当てるやり方は感心しませんが、朝日新聞ですから、仕方ありません。
個人的には、福島原発事故の時の枝野氏の対応を見ていますので、私は彼が信頼に値する人物だとは思っていません。確かに、人間は変わることもありますが、基本部分は変わらないと思っています。でも、作り立ての新党で、ここまで議席を伸ばしたことは、国政という視点ではなく、枝野氏個人にとっては大躍進だったかもしれません。しかし、このままでは政権政党にはなれません。枝野さんが勘違いしなければ、もう少し風は吹くかもしれませんが、時間が答えを出します。なぜ、野党選挙協力をしなければならないのか。その答えを見つけなければ、野党は野党で終わります。これは、既存の政治潮流の中で生まれた姑息な手段に過ぎないのです。共産党の金と組織力に依存している限り、左方向へ向かわざるを得ません。それは、政党消滅へ続く道です。共産党は、地方組織がしっかりしていますので、簡単には消滅しませんが、擦り寄っていく政党は犠牲になります。共産党は、市民連合との共闘という看板も掲げていますが、その市民連合も共産党の資金に頼っているのです。
ま、何をするにも先立つものは金ですから仕方ありませんが、この泥沼の中に身を置いていたのでは、立憲民主党は政権を獲れません。なぜなら、大半の国民は共産主義の国になりたいとは思っていないからです。
今の判官びいきは、風にすぎません。そのことは承知していると思いますが、新しい政党の形を国民に示すことが出来るのでしょうか。重箱の隅をつつき、反対、反対の連呼をしていれば国民の理解が得られると思っているようですが、それは間違いです。森友・加計問題があったにも拘わらず、国会論戦では森友・加計問題ばかりやっていたにも拘わらず、選挙では自民党が大勝しました。これが現実であり、これまでのやり方では国民の理解が得られなかったという証明なのではありませんか。やらねばならないことは、森友・加計問題の追及ではないことを学習しなければなりません。安保法制も共謀罪も秘密保護法も過去のことです。立憲民主党がやらねばならないのは、新しい論点を作ることです。ワイドショー好みの論点や流行を追う論点では、国民を引き付けることが出来ません。そんな時には、原点に戻るしかないのです。もちろん、言葉だけ原点に戻ったのでは、国民は無視します。中身のある言葉を国民の前に示すことが必要になります。
立憲民主党は、立憲主義、民主主義、国民という言葉を前面に押し出していますが、その定義が見えてきません。ま、自民党が言葉だけで勝負しているのだから、立憲民主党が言葉で勝負することを批判するのはフェアではありませんが、これでは、自民党も立憲民主党も、国民のための政党になることはできないという現状は変えられません。国民のための政党でないのであれば「どちらが、ましか」という判定をされ、古い常識が優位になります。もちろん、言葉が不要だと言っているのではありません。政権転覆には大きなエネルギーが必要であり、政権党を倒すためには、言葉だって必要です。しかし、野党の場合は、その言葉に中身を詰めなくては、発信力で与党に負けてしまうのです。
確かに、言葉の定義は両刃の刃です。でも、野党は、失うものがないのですから、定義を前面に出してもいいように思いますが、残念ながら、それに気付く政治家も、それを実行する政治家もいません。
立憲民主党の選挙公約の前文を読む限りでは、その言葉だけであれば、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義の近くまで来ているのですが、あと一歩がありません。この一歩は大きいです。定義のない言葉では、いくら並べても、曖昧という空気に慣れ親しんだ国民の心には届きません。
もしも、立憲民主党が言葉の定義に気付けば、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義を主張すれば、自民党に対抗する政党になることが出来ます。これからの4年間は、憲法論議もしなければなりません。また、言葉の定義をすれば、国の基本である国軍を保持しなければなりません。国民を守るためには、核兵器の保持も必要になります。9条の3項に自衛隊という文字を書き込むような姑息なやり方では、国民を守ることはできません。憲法も明治憲法を引きずるような憲法では、定義から外れます。そんなことが、立憲民主党に出来るとは思えないのです。左寄りの議員が大半ですし、彼等が既存の流れを否定するだけの見識を持っているようには思えないのです。
憲法改定の肝は、国民投票です。言葉の定義を示すことで、その定義を憲法に書きこむことで、国民への働きかけは強いものになります。これまでの自民党政治は、国も、国民も、民主主義も曖昧にすることで、そこから生まれる利益を利権集団に配分してきたのです。その曖昧な部分を明確に定義すれば、国民の理解は得られます。これまでの野党がやってきたように、ふわふわと宙に浮いた「反対、反対」だけでは、自民党の憲法草案が国民の賛成を勝ち取るための応援団になるしかありません。「どっちも駄目だけど、どっちが、ましか」判定になれば、野党は勝てません。
他党に頼るのではなく、堂々と自民党候補者より多くの票を獲得するしかないのです。言葉の定義は、そんな力を与えてくれる魔法の杖なのかもしれません。
立憲民主党が、そんな新しい政党になることが出来るのでしょうか。
私は、無理だと思いますが、頑張ってください。

枝野さんも、小池さんも、新しい政党の形(国民のための国家運営を請け負う政党)の近くに立っています。まだ、お二人とも気付いていないと思いますが、新しい一歩が何なのかは見えていないのでしょうが、見つける可能性だけは持っています。ただ、自民党も馬鹿ではありませんので、野党が動き出したら同じ方向へと動くでしょう。でも、自民党にはどうしても外せない鎖があります。それは、利権集団への利益配分と天皇制です。口先の言葉ではなく、本気で国民を前面に出せば、立憲民主党も希望の党も、政権与党になる可能性は持っているのです。なぜなら、利権集団の構成員と尊皇派の構成員は、少数派であり、一般国民の数には対抗できません。一票を投じてくれるのは、その一般国民なのです。「ふむ、ふむ」派の国民であっても、選択肢さえあれば、何も自民党に投票する必要はありません。自民党を支持する国民が30%いるとされていますが、彼等は、いとも簡単に、手の平を返すことができる「ふむ、ふむ」族です。仕方なく、惰性で、自民党に投票しているだけです。
あくまでも、可能性に過ぎませんが、共産党や社民党や公明党には、その可能性がありませんので、立憲民主党も希望の党も、今のところ前途洋々と言ってもいいのでしょう。もちろん、「今のところ」です。

ただ。
言葉の定義なんて簡単なことなのですが、簡単なことほど気付きにくいのが世の常です。

小池さんは、「踏み絵」や「排除」で批判されていますが、これも、選挙と政治が分断されている現状に影響されている弊害にすぎません。マスコミが視野狭窄に陥り、選挙しか見ていませんので、「踏み絵」や「排除」に目くじらを立てますが、国家運営を行う場合は「踏み絵」や「排除」は不可避です。たとえ連立政権を作るためだとしても、数合わせだけでは短命になります。党内に異分子がゴロゴロいたのでは、何も決められません。その実験をしたのが民進党です。その実験の結果が、今の状況なのですから、「丸呑み」は政治家としてはやってはいけないことだと思います。
ま、確かに、小池さんが陣頭に立たなかったことは、大きな誤算になりました。
でも、ここは、小池さんのお蔭で、結果的に、民進党が分党できたことを喜ぶべきだと思います。
ただ、小池さんにはポテンシャルがありますが、若狭さんや細野さんでは、希望の党は消滅するしかありません。なぜ、小池さんにはポテンシャルがあるのか。それは、一種の嗅覚みたいなものを持っていると思うからです。どのボタンを押せばいいのかを、嗅ぎ分ける力です。もちろん、間違うこともありますが、その嗅覚を持っているか、持ってないかの差は大きいです。これは、誰にでも備わっている能力ではありません。人は、皆、平等と言いたいところですが、やはり、個人の能力には差があることのほうが現実です。

人は誰でも「好き嫌い」の感情を持っていますので、私も私情を挟みます。
私は、枝野さんより小池さんのほうが好きです。頭脳明晰という点では枝野さんのほうが優れていると思いますが、なぜか、山師のような小池さんのほうが好きです。それは、頭脳明晰な人では気付かないことに、山師なら気付く可能性があるからです。今必要とされていることは何か、に気付いて欲しいと願っています。小池さんも希望の党も、地に堕ちてしまいましたが、是非、頑張って欲しいと思っています。
ごく簡単なことに気付けば、「国とは、国民とは、民主主義とは」を定義することに気付けば、道は見えてきます。そして、その定義に基づいた理念を生み出せば、今いる有象無象の国会議員でも役に立つことがあります。いつの時代でも、有象無象はいるものです。そんなことに目くじらを立てても意味がありません。
今は批判の矢面に立たされていますが、言葉の定義をするだけで、大きく変身することが可能なのです。ただ、それが出来るのは、希望の党の中では、小池さんだけなのかもしれません。日本国民は左翼政権を望んでいません。ですから、立憲民主党には限界があります。その点で、希望の党には、まだ希望があるのです。
そもそも、国民のために国家が存在しているのですから、国家運営は国民のためにすることが基本であるはずです。しかし、利権集団のための政党は存在しますが、国民のための政党は存在していません。政治家のための選挙制度はありますが、国民のための選挙制度はありません。これって「何か、変」じゃないですか。そのことに気付くだけで、大きく変わります。ここは、中国でもなく、北朝鮮でもありません。今は、まだ看板だけに過ぎませんが、この国は民主主義国家なのです。
私達は、未だに、「お代官様と越後屋」の世界にいます。「お代官様と森友屋」や「お代官様と加計屋」をいくら追及しても、問題は解決しません。森友や加計は氷山の一角であり、小物にすぎません。トカゲの尻尾切りに血道をあげるのは徒労です。根っ子は、民主主義風王政並立封建制度という国体にあるのです。野党の皆さんがやらねばならないのは、この封建制度から抜け出すことです。その出発点になるのが、言葉の定義なのです。
難しいとは思いますが、頑張ってください。


2017-11-01



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資産保全 [評論]



最近、ハイパーインフレという文字を見ることが増えました。
「そうなの ?」
もちろん、世間一般の話ではありません。日本財政や日本経済の市民ウォッチャーとしての私の目に触れることが多くなったという意味です。多分、国民の皆さんの目には触れていないものと思います。
今日は、ハイパーインフレに対応する方法を、簡単に、ただし、いい加減に、書いてみました。参考にはならないと思いますが、何かのきっかけになれば嬉しいです。

いつから、金利上昇が始まるのかは、わかりません。
でも、どこかの時点で、金利は上昇します。それは、明日かもしれませんし、1年後かもしれませんし、5年後かもしれません。
金利上昇から、金利負担の上昇、国家予算の膨張、歳出の大幅削減、国債の発行不能という道程は、それなりに時間がかかります。
ですから、ハイパーインフレのほうが、現実的な崩壊過程になるのではないかと考えられます。ハイパーインフレであれば、数年で、1,000倍の物価上昇が可能ですし、物価が1,000倍になるということは、貨幣価値が1/1000になるということですし、貨幣価値が1/1000になるということは、借金も金利負担も1/1000になるということです。ハイパーインフレは、構造改革や経済政策は必要ではなく、勝手に財政再建が出来てしまう優れものなのです。自然界だけではなく、経済でも「平衡」現象は起きるのです。
多分、多くの皆さんは、貨幣価値が1/1000になると言われても、実感は湧かないと思います。「ふむ、ふむ」と頷くだけになるでしょう。
虎の子の貯金が、1,000万円あったとしましょう。その貯金は1万円の価値になります。物価は1,000倍ですから、お米は、300万円になります。この現実に気付くには、まだまだ、時間が必要なのでしょうが、気付いた方は、何とかしたいと思うでしょう。自分の身は自分で守る。どんな時代でも、どんな国でも、これは鉄則です。
私は、随分前に、日本崩壊から自分を守る方法は、海外移住しかない、と書きました。それは、回復のしようがない崩壊になった時のことです。
崩壊することは、もう避けられませんが、その崩壊がどこかで止まることも、もしかすると、あるかもしれません。いや、あって欲しいと思っています。どんなメカニズムで崩壊が止まるのかは、私には想像できませんが、そういう可能性はゼロではないと思います。
今回は、崩壊度数が25%で止まった時、50%で止まった時を念頭に想像してみます。50%~100%崩壊してしまった時は、過去の予想を参照してください。
何を根拠に25%とか50%とか100%の数字を出しているのかについてですが、申し訳ありませんが、その根拠は、全くありません。ですから、大、中、小の区分という大雑把なものと思ってください。そもそも、未来を予測するのですから、何の根拠もなく、どんな結果になるのかなど、誰にもわかりません。それでも、無理にでも想像しないと、対策がとれませんので、ここはゴリ押しをするしかないと思っています。ですから、全く信用していただかなくても問題はありません。
無理を重ねますが、崩壊の度合いを犠牲者の数で、推測してみます。
犠牲者の数を縦軸にとり、崩壊度数を横軸にとった時、人間以外の動物の場合は、直線グラフになるのでしょうが、人間の場合は、それなりに対応しますので、そのグラフは放物線グラフになると思います。これも、勝手な憶測ですが、50%を越えると、その角度は急勾配になると思います。それは、力尽きる人が多くなるからです。100%は、1億2,000万人、全人口の消滅を意味します。
ここで、何の根拠もなく、50%の崩壊度数は3,000万人の犠牲者を意味すると決めつけてしまいます。その時、25%の崩壊度数では500万人になると仮定してみます。これ、いいかげんな数字です。最初は、皆さんが頑張って耐え忍びますから、犠牲者の数は、それほど多くはなりません。でも、忍耐にも限度がありますので、崩壊度数が上昇すれば、対策を持っていなかった人達が、精魂尽き果てて犠牲になります。崩壊度数が倍になっただけですが、犠牲者の数は6倍になるのは仕方ないと思います。もっとも、500万人でも、3,000万人でも、想像を絶するような犠牲者の数ですが、1億2,000万人の犠牲者と比べてみれば、まだ、少ないとも言えます。
乱暴な想像ですが、ご容赦ください。
多分、50%以上崩壊した時は、個人の対策では手の施しようがないと思いますので、今回は、50%以内の崩壊を想像してみます。
50%って、どのぐらいの崩壊なのか、という明確な線引きは困難です。それでも、崩壊の対策をしていた人の中に助かった人が多かったという結果分析はできるかもしれません。これは、その時が来ないとわかりません。
さて、無茶で、乱暴な条件ですが、こんな馬鹿なことができるのは、素人だけですから、下手な小説を読んでいるつもりで、充分に、たっぷりと眉に唾を付けて読んでください。

私達のターゲットは、ハイパーインフレです。
資産保全という観点から対策を考えますが、最初は、現金と預金です。
これは、最悪の選択です。
ハイパーインフレとは、貨幣価値が下落するという現象が起きるのですから、現預金、特に日本円を持っていると、ハイパーインフレの餌食になるということです。
日頃は、現預金という流動資産は使い勝手が良くて好まれますが、ハイパーインフレの場合は、最悪の資産になります。
ただし、ハイパーインフレは国内事情ですから、預金であっても、外貨預金は、ある程度の崩壊度数まで大丈夫だと思います。何パーセントの度数まで大丈夫なのかは不明です。

では、土地や建物という固定資産は、ハイパーインフレの影響を受けないのか。
残念ながら、現預金よりも最悪な資産になります。
貨幣価値の下落という点では、影響は受けません。でも、売買が成り立ちませんので、価格は下がります。問題は、価格が下がったとしても売れない状態が続くことです。つまり、食料を購入するための現金が手に入らなければ、宝の持ち腐れです。購買意欲はあっても、ハイパーインフレ進行中に、不動産を買うような物好きは少ないと思います。だって、明日ならば、来月ならば、来年ならば、もっと安くなると思えば、誰でも待ちます。
ハイパーインフレにならない場合でも、中長期的に見ると、土地・建物は下落すると思われます。それは、需要と供給のバランスが崩れるからです。余程条件の良い物件でなければ売れない時代が来ます。既に、空き家は増加していますが、人口減少時代に入り、今後、ますます、不動産が売れない時代がやって来るからです。持ち家に住んでおられる方は、当然、家を資産と考えていると思いますが、売れなければ資産としての価値はありません。いつまでに売れば、元が取れるか。それは、わかりませんが、少なくとも、今から土地・建物を購入するのは冒険になりますのでお勧めできません。ましてや、アパート経営のために資産を使うなんて、愚の骨頂です。

では、地金はどうでしょう。
国内で、為替や商品や債券の交換機能が維持されていれば、地金は影響を受けません。
交換機能は、崩壊度数50%くらいまで、持ちこたえてくれるのではないかと期待しています。期待ですから、そうならないかもしれません。
ドルやユーロを持っている方。いないとは思いますが、石油や穀物を持っている方。外国債券(アメリカ国債等)を持っている方。これらの人は影響を受けません。
つまり、世界規模で取引をされている資産は、日本という一地方で発生したハイパーインフレの影響は受けません。
地金も、国際商品ですから、影響を受けません。
昨今、地金の価格が上昇し、地金の取引が増えているのは、世界的な傾向ですが、特に中国の爆買いが影響していると言う方もいますが、日本でも地金は注目され始めたと思っています。ここでの目的は、あくまでも資産保全です。金価格が更に高騰すれば、資産形成も可能でしょうが、そこは海のものとも山のものとも言えませんので、投機になる可能性もあります。しかし、ハイパーインフレをターゲットとした資産保全という意味では、地金という資産もあり得る選択です。地金の中には、銀やプラチナも含みます。

ドルやユーロといった海外貨幣は、どうでしょう。
為替市場も世界市場での取引ですが、日本円は暴落しますから、日本円を持ったままだと、ハイパーインフレの影響は直接受けます。FXをやっておられる方は、日本円ではなく、他国通貨で資金を持ち、取引の都度、日本円に交換して取引することをお勧めします。

株は、どうでしょう。
日本株は暴落すると言われています。誰もが欲しがるのは食料購入のための現金ですから、多くの人が株を売って現金化したいと思いますので、株価が下がるだけではなく、買い手がいなければ売買が成立しません。一方通行で株価は下落します。ただし、海外株式を持っておられる方は影響されません。
逆に、どこかの時点で崩壊が止まるとすると、下がり切った株を底値で買えば、大金持ちになります。海外投資家は、その資金をドルやユーロや元で持っていますので、日本が持ち直してくれると思えば、いつでも、好きな値段で買うことが出来ます。外貨預金を持っている日本人、地金を持っている日本人にも同じことが言えます。ただし、その時は、日本が持ち直してくれなければなりません。それでも、チャンスであることは間違いないでしょう。

多分、50%を越える崩壊の場合は、国内での交換機能が失われると思いますので、どんな資産を持っていても役に立ちません。資産そのものに意味はなく、食料という現物だけが意味を持つ世界になります。貨幣が信頼できなければ、物々交換経済になるしかありません。

もう一つ、崩壊の初期では、別の交換機能も大きな影響を持ちます。
皆さんが持っている預金通帳の残高は、ただの数字にすぎません。預金は現金を引き出せて、初めて意味を持つ数字です。預金の現金化も交換機能です。
また、1,000万円までの預金は保全されていると信じていると思いますが、それは、崩壊前のお約束にすぎません。金融機関がどの時点まで耐えられるのか、大変疑問があります。一つや二つの銀行が倒産した程度では、問題はありませんが、数十行の銀行が倒産した場合は、皆さんの預金は保全されません。預金保険機構には、そんな大金がないからです。国にも資金はありませんので、個人が泣くしかありません。
仮に、外貨預金を持っていたとしても、取引銀行が倒産してしまえば、ゼロになります。
もしかすると、金融機関の大量倒産がハイパーインフレの引き金になるという事態もあるのではないでしょうか。皆さんは、大慌てで銀行に走ることになりますが、銀行としては、シャッターを閉めるしかありません。政府は、一日の引き出し限度額を設定するでしょう。
最近、金庫の売れ行きが良いという話もありますが、タンス預金のためだけの金庫ではないのかもしれません。地金の現物を自宅の金庫で保管する人もいるのでしょう。多分、世の中には、先のことが見えている人がいるのです。念のためですが、現金を自宅の金庫に入れていても、ハイパーインフレになれば、何の役にも立ちませんのでご注意ください。貨幣価値が下がるだけではなく、新円切り替えや資産課税で、紙屑になるかもしれません。


ここで、ハイパーインフレ対策の順位を見てみます。
海外移住。
農作。
地金。
海外通貨。
海外債券。
外貨預金。
現預金。
不動産。
インフレとハイパーインフレは、異質なものですから、不動産を最下位にしました。不動産の場合は、一度売却して現金化し、その現金で食料を買うことになりますので、手間がかかります。また、不動産が売れなければ、現金は入ってきません。土地や建物だけではなく、国内市場でのみ取引される資産は、資産としての役割を果たせません。
ハイパーインフレで直接影響を受けるのは、皆さんが、今現在、資産だと思い込んでいる現預金と不動産です。多分、95%以上の国民が、ハイパーインフレの犠牲になります。

崩壊度数が小さく、まだ、交換機能が維持されている場合は、地金、通貨、債券、外貨預金が対策になります。ただ、外貨預金の場合は、金融機関の倒産がないという条件です。

崩壊度数が50%を越えるようになると、自分で自分の食料が確保できる農民になるか、日本から脱出することです。ただし、農作は、原発が管理不能となり、放射能で汚染された時は、諦めてもらうしかありません。
海外移住は、どこの国でも通用するスキルを持っている方か、莫大な資産を持っている方に限定されますので、万人向きとは言えません。

ハイパーインフレの対策を考えてみると、私達の一番の願いは、崩壊が、どこかの時点で止まってくれることです。できるだけ、崩壊度数が小さい状況で止まって欲しいと願うしかありません。もちろん、願いが叶うかどうかは、天に任せることになりますが、何もしないで天に任せるか、対策をして天に任せるかでは違う結果が出てくるものと思います。
ほとんどの方が、ハイパーインフレなんて「俺には関係ねぇ」と思っていますので、対策が必要になるという発想もありません。それは、それで仕方ありません。

では、なぜ、こんな対策が必要なのでしょう。
それは、私達には「毎日、餌を必要とする動物」という絶対条件があるからです。
何も食べずに生きていけるのであれば、ハイパーインフレもそれほど怖いものではありません。日常生活が、多少、不便になる程度です。でも、そんな人間は存在しません。

申し訳ありません。
こんな話、ど素人の、いい加減な与太話ですから、信じてはいけません。
でも、ご自分で考えるきっかけになってくれたら、大変嬉しいです。
どうか、ご自分の身は、ご自分で守ってください。


2017-10-03



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開戦 [評論]



北朝鮮問題が煮詰まってきました。
私は、国際政治の専門家ではありません。
いや、何の専門家でもありません。
素人であり、しかも「じじい」です。
そんな私が世界情勢を論じても意味はありませんが、専門家の皆さんの視点に、どこか納得の出来ない部分があって、ストレスになっています。ですから、これは、愚痴だと思って読んでください。これは、与太話の類ですから、信用しないように願います。
専門家の皆さんの主張は論理的だと思いますが、「人間」という視点が忘れられているのではないかと思っています。私は、世界情勢は人間の「欲」の結果だと思っていて、論理的な思考の結果ではないと思っています。これまでも、今も、これからも、人類が存続する限り、この現実は、揺るぎない鉄則だと思います。それが現実であり、そんな人間が世界を動かしているとすると、人間という視点を無視するのは、少し無理があるように思うのです。
北朝鮮問題では、アメリカと北朝鮮の動向が目立っていますが、韓国の動向次第では、全く違う局面が出てくると思いますので、今日はそのことを書きます。
今回も、最悪の想定をしてみます。いつも、最悪ばかりで、ごめんなさい。

さて。
アメリカは北朝鮮に対する軍事行動に踏み切るのか、という議論が続いています。
マスコミは危機を煽ることで視聴率が稼げますから、今にも軍事行動が起きるような騒ぎ方をします。これは無視することにしましょう。
専門家の間では、軍事行動には踏み切らないという意見が多いようです。
それは、余りにも犠牲が大きいこと、世界大戦になる可能性があること、アメリカの国益が失われること、政権の体制が不備であること、等々が指摘されています。世界大戦に火をつけ、国益を失うほどアメリカは愚かではない、という理由で、「戦争は起きない」という主張が一般的です。中には、100%あり得ない、と主張する方もいます。
いかにも説得力のありそうな根拠なのですが、ほんとに、そうなのでしょうか。
軍事行動は、アメリカにとって何の利益にもならない。
私も、その通りだと思います。
ただし、それは、短期的に見た時です。軍事行動を先送りした時、アメリカの中長期的な利益は、どうなるのでしょう。その答えは、10年前と今を見ることでわかります。10年前に軍事行動を先送りした結果が、今です。この先、5年、10年、忍耐の外交を続けて、展望が開けるとは思えません。10年後に軍事行動を起こすことのデメリットは、今よりもはるかに大きなものになると思います。
なぜなら、北朝鮮は核開発もミサイル開発も諦めないからです。北朝鮮が、このまま開発を進め、ワシントンを直撃する核ミサイルを配備すれば、アメリカは、将来、自国の国益が大きく毀損される事態を受け入れなくてはならなくなるからです。
その原因は、その国の国体によるものだと思います。中国も北朝鮮も、国民よりも国体を優先させます。でも、アメリカは国民を優先させなければなりません。国民の犠牲は仕方ないと考える国と、そうではない国が利害関係を争えば、前者のほうが有利です。アメリカは、アメリカ国民を人質に取られるのです。そうなれば、アメリカの国益は、加速度的に毀損される事態を招きます。残念ですが、正義や理想よりも、暴力のほうがはるかに強いのです。それは、アメリカが、武力を背景として世界制覇をしてきたことで証明されています。
選択肢の背景は、+1と-1の比較ではなく、-1と-1の比較です。今、軍事行動を選択した時の損失と、10年後に選択した時と、どちらが、損失が大きいかという比較です。日本であれば、躊躇なく10年後を選択すると思いますが、アメリカが同じだとは限りません。どんな選択をしても、アメリカの国益は守れないとすると、軍事行動はないという今の一般論は宙に浮きます。これが、現実だと思います。
アメリカ一強支配の時代は終わったのです。アメリカの選択は、その衰退を、国益の損失を、どの程度に抑えられるかしかありません。明らかに、万々歳、順風満帆、上り坂、という選択肢は、もうないのです。
どちらに転んでもアメリカの国益が損なわれるとすると、「どちらが得か」の判断に委ねられるとすると、開戦の可能性は五分五分だと思わなくてはなりません。
ここで、時間というファクターを加味すると、開戦の可能性が高くなる可能性があります。
今は、中国よりも、北朝鮮よりも、アメリカの軍事力のほうが上だと思います。アメリカも努力するでしょうが、10年後の軍事力は未知数です。今、叩いておくほうが、アメリカにとって有利だと判断すれば、軍事力行使は魅力的に見えます。いや、アメリカにとって、今が最後のチャンスなのかもしれません。
もう一つ、不確定要素があります。軍事行動は、残念ながら、リーダーという名の人間の胸三寸に委せるしかありません。
ところが、リーダーは神ではありません。人間の判断なのですから、論理的な判断が優先するとは限りません。人間の判断は、感情で、どのようにでも変わります。
ここで、問題になるのは、アメリカのリーダーも北朝鮮のリーダーも、感情の起伏では誰にも負けない、特別な二人なのです。しかも、二人とも、強気です。いや、強気と言うより、無茶苦茶という言葉や支離滅裂という言葉が近いのかもしれません。そんな、二人に正論を当てはめても、意味はないように思うのです。
ですから、開戦の可能性は、五分五分だと思わねばなりません。

トランプ大統領の発言で、驚きの発言がありました。もう、驚きの発言には慣れましたが、他人事ではない発言なので、あらためて、驚いてしまいました。それは、「被害は、こちらではなく、向こうで起きる」という発言です。私には、トランプの本音発言に聞こえました。軍事行動をとっても、戦争はアメリカ本土で起きるわけではなく、朝鮮半島とその周辺で起きるのだから、アメリカ本土の白人労働者には犠牲が出ない、という意味です。トランプに票を入れてくれた白人労働者は守るけど、それ以外の人々は、俺に責任はないと言わんばかりの発言です。在韓米軍や在日米軍の兵士も、守る対象ではなく、ましてや、韓国人や日本人は、トランプに一票たりとも入れてくれていない、という意味でもあります。韓国国民や日本国民には、数百万人の犠牲が出ると試算されています。米軍兵士にも、数万人の犠牲が出るとされています。それでも、それは、トランプが守らなければならない人々ではない、と言うのです。「俺は、ピッツバーグの白人労働者を守るために大統領になった」と言っています。
口実さえあれば、トランプが軍事力行使に踏み切る確率は低くないと思わねばなりません。トランプ政権の中枢にいる人達がトランプを説得できる可能性も高くはありません。トランプは、自分が王様になったつもりですし、王様状態が大好きです。閣僚に向かって「大統領に、この俺に、忠誠を尽くすと誓え」と強要するような人です。

戦争のきっかけなんて、予測不能です。
また、戦争は、一瞬では終わりません。
アメリカが、総力を出せば、一瞬で、北朝鮮を焦土にすることは可能でしょう。しかし、その時は、民間人も全員犠牲になります。世界が終わる時であれば、可能なのでしょうが、人道問題を旗印にしてきたアメリカが、虐殺国家として生きていかなければならなくなります。そんなことは、できません。戦争終結後のことを考えると、アメリカは金正恩と同じことはできないのです。数か月か、数年かはわかりませんが、一度始まった戦争は、すぐには終わりません。その間、お互いに攻撃をするのです。世界戦争になる可能性もあります。いや、間違いなく、世界戦争になります。中国は、川を挟んでアメリカ軍が駐屯する状況を受け入れられません。肉眼でも見える場所にアメリカのレーダー基地ができるのを、座して見ていることなどできません。ロシアも同じです。中国もロシアも、北朝鮮を守るという選択肢しか残されていないのです。
では、それ以外の国がアメリカに協力して戦争に参加するのでしょうか。トランプは世界中の国に喧嘩を売っていますので、そう簡単には参戦してくれないと思います。日本は、ポチですから、自動的に参戦することになりますが、日本以外の国は、自国の国益との相談になります。
そもそも、韓国がアメリカ連合に参加するかどうかも不明です。文政権は、「韓国の了解なしに、朝鮮半島での戦争は起きない」と断言しています。アメリカが勝手に戦争を始めたら、韓国は、韓米同盟を破棄する覚悟がなければ、こんな強硬発言はできません。文大統領は、北朝鮮と戦争をしたくないと本気で思っているようです。それは、彼の出自に由来すると解説する方もいますが、それが的を射ているのかどうかは別にして、戦いたくないと思っていることは、その発言の端々に出ています。これは、彼が弱虫だからではありません。自国の国民に数百万人の犠牲者が出ることを認めるリーダーなど存在しません。ただ、アメリカは、韓国が反対したからといって、開戦を断念することはないと思います。なぜなら、この開戦はソウルを守るためではなく、ワシントンを守るために行われるからです。当然、中国からの調略もあるでしょうから、韓国がアメリカ連合として参戦する可能性は低いのではないでしょうか。韓国は、中立を保つことが国益を守ることになりますが、そんな美味しい選択は、許されないでしょう。
もしも、韓国が自国の国益を守るために、中ロ連合軍に参加したとしたら、この戦争はどうなるのでしょう。
そうです、主戦場は、アメリカの最前線基地である日本になります。
こんなことは、誰も想定していません。
これは、荒唐無稽な想像にすぎないのでしょうか。
どこの国も「どっちが得か」で判断するのです。何があっても不思議ではありません。この第三次世界大戦は、資本主義対共産主義の戦いではありません。「どっちが得か」の戦いです。アメリカファーストを旗印に掲げたアメリカが、「どっちが得か」の先頭を走っているのです。どこの国も「自国ファースト」を主張するでしょう。北東アジア以外の地域の国にとっては、不参加が一番理に適っています。
日本とアメリカの連合軍と中国、ロシア、北朝鮮、韓国の連合軍の戦いになるのでしょう。
日本列島と朝鮮半島が主戦場になります。
日本国民は、そんな状況を想像もしていません。今は、明治でも、大正でも、昭和でもありません。国民の理解なしに、日本は戦争当事国になれるのでしょうか。
多分、「そんな、馬鹿な」と言う方が大半でしょう。
でも、そんなことにはならない、と断言できる人がいるのでしょうか。
ここまで、極論だと言われても仕方のないレアケースを想定しました。
それは、国際関係とは、信義や相互尊重が求められているのではなく、利益が最優先される関係を指すからです。「何でもあり」が現実なのですから、危機管理は最悪のケースを想定しなければなりません。

全体像を離れ、局地的な想像をしてみます。
政府は、二言目には「日米韓の緊密な連携により」という言葉を多発します。
では、日米韓は一枚岩なのでしょうか。
違うと思います。連携を強調しなければならないということは、連携出来ない時は、それがアキレス腱になることを認めているということです。
私は、日米韓の連携には、無理があると思っています。それは、韓国の犠牲が突出して大きいからです。アメリカの国防長官が「韓国の犠牲を最小限におさえる軍事オプションはある」と発言していますが、軍事専門家は首をひねっています。ソウルの2,000万人の市民が人質になっていることを、韓国の被害が大きいことがアキレス腱であることを、認めてしまった発言なのではないかと思えてなりません。
韓国には、犠牲者を減らす方法はないのでしょうか。あります。アメリカ陣地に立つのではなく、中国陣地に立てばいいのです。
北朝鮮は、「ソウルを火の海にする」と言っていますし、米韓の分析でも、ソウルを中心に数百万人の犠牲が出るとされています。数百万人で済むのかどうかもわかりません。韓国は、国の命運を決めるような戦争をしなくてはなりません。人的な被害も甚大ですが、経済的な被害は韓国経済を破壊します。韓国は、そんな事態を受け入れられるのでしょうか。いいえ、他の選択肢を捜すのは当然のことだと思います。韓国では、朝鮮半島で戦争は起きない、と思っている人が、約6割いるそうです。なぜなら、韓国人の心配事の第一位は、北朝鮮ではなく、自分の生活だからです。中国の経済制裁が、徐々に深刻度を増していて、真綿で首を絞められている状況ですから、庶民の関心は経済です。このまま、中国と敵対し、北朝鮮と戦争にでもなれば、踏んだり蹴ったりです。我が国は既定路線でいいのか、韓国は最悪の選択をしようとしているのではないか、という疑問を持つ方は、既に、いると思います。別の選択肢を考えるべき時にあるのです。特に、文政権であれば、その可能性は高くなります。でも、文大統領は間違っていないと思います。戦争が終わったら、困難が待ち構えていますが、とりあえず、国民の犠牲は最小限にすべきです。国の基本は、国民だからです。
日本を敵とした場合、中国と北朝鮮と韓国が手を結ぶことは、それほど困難なことではありません。世界で、反日を掲げている国は3ケ国あります。その中国と韓国と北朝鮮が手を結ぶことは自然な成り行きでもあります。
韓国の動向次第で、日本にとっての戦争は大きく変わります。
ですから、ここでは、日本が主戦場になるという想定で見てみます。
「きみい~ そんなのは、小説の世界の話じゃよ」
そうかもしれません。
では、小説のプロットとして見てみましょう。
この戦争は、朝鮮戦争の延長戦ではありません。北朝鮮とアメリカの戦争でもありません。この戦争は、米中戦争です。戦場という視点で見れば、アメリカの前線基地である日本列島と、中国の緩衝地帯である朝鮮半島の戦いです。
先ずは、日本で、工作員による破壊工作が激しくなるのではないでしょうか。
日本に、北朝鮮の工作員は、数万人いるとされています。中国の工作員も、韓国の情報機関員も、ロシアの工作員も、数えきれないほど存在していると考えなければなりません。テロ等準備罪という法案を無理してでも通さなければならなかったのは、日本がスパイ天国と呼ばれていたからです。
問題は、工作員による破壊工作が本国の指令によって行われたことを証明しなければなりませんが、それが至難の業で、反撃の口実にはなり難いのです。中国人も、韓国人も、北朝鮮人も、日本人も、明確な区別はつきません。工作に失敗して、逮捕されたとしても、黙秘を続ければ、国籍さえわかりません。もし、国籍が分かったとしても、個人の意思でやったのだと主張すれば、国家の責任は問えません。
破壊工作を効果の面から見てみると、インフラに対する破壊工作が有効です。20世紀に行われていた破壊工作の効果より、はるかに大きな成果を得られます。電力、ガス、水道、運輸、通信、道路等々、攻撃の対象になるインフラは多岐にわたります。たとえば、全国の道路を監視することは不可能です。人気のない道路を破壊すれば、孤立する地域が簡単に作れます。トンネルや橋の爆破も有効でしょう。鉄道の線路の破壊、高速道路の破壊、ガス管の破壊、水道管の破壊、新幹線の爆破。中でも一番効果があるのは、送電線の破壊なのではないかと思います。人間や軍事基地を標的にする必要はありません。警備が厳重な原子力発電所を標的にする必要もありません。原発の爆破は、後に行われるミサイル攻撃に任せればいいのです。誰もいない山の中に立っている送電用鉄塔を爆破するだけで、多くの地域を停電にすることが可能ですし、復旧には時間もかかります。送電用の鉄塔は、日本中に無数に存在しています。電力の供給が断たれたら、21世紀の社会は成り立ちません。
破壊工作に失敗する工作員や、逮捕される工作員もいるでしょう。でも、一網打尽にすることは不可能です。左翼の日本人は、戦争阻止のためという大義を掲げ、工作員を支援するかもしれません。工作活動に参加する日本人も出てくるでしょう。
何が起きるのでしょう。
そうです。スパイ狩りが始まります。
警察は、収容施設を新設してでも、片っ端から逮捕しなければなりません。もちろん、スパイだけが逮捕されるのではなく、多くの日本人も逮捕されるでしょう。当然、拷問に近い尋問が行われます。冤罪、などという主張は無視されます。
密告も奨励されるでしょう。流言飛語も増えます。
それでも、破壊工作は続きます。
これは、戦争なのですから、仕方ありません。
政府は、戒厳令を出し、言論弾圧もします。
では、そんな状況の日本社会を想像してみてください。
不安と不満と閉塞感で、社会は壊れ、上手に誘導されれば、どんな方向へも動きます。
新聞は、過去に、政府の御用新聞になったことがあります。この国には、民主主義もジャーナリズムも存在していませんので、メディアは政府の広報機関に変身できるのです。
「政府は、何をやっているんだ。北朝鮮を攻撃しろ」という声に、国民が賛同しても不思議ではありません。日本人は、付和雷同が好きです。
開戦の火ぶたを切るのは、日米連合軍になる可能性が高いと思います。中国もロシアも古い歴史を持つ国ですから、戦略には長けています。逸る北朝鮮を抑え、日米連合軍の攻撃を待つほうが有利だと思うでしょう。
中ロ連合軍は、「先に攻撃したのはアメリカで、我々は自衛のために立ち上がる」と宣言し、国際世論を味方につけます。
この戦争は、朝鮮半島を制圧するか、日本列島を制圧するか、という戦いです。
日本海を隔てて、ミサイル戦争が始まるのです。
アメリカの過去の戦略は、日米韓の連合軍が前提でした。ですから、これまでに想定された戦略は役に立ちません。日本海に、空母やイージス艦を並べる戦いは出来ないのです。いや、これまでの戦略は朝鮮戦争の延長戦という想定で作られてきましたが、これは延長戦ではありません。北にロシア軍が張り出し、南に中国軍が展開し、西に朝鮮半島軍が布陣している戦場で、狭い日本海に艦船を展開すれば、袋のネズミになってしまいます。
そして、日本には、ミサイルがありません。
中ロ連合軍の先鋒は北朝鮮です。
北朝鮮から、数千発のミサイルが撃ち込まれます。日本を攻撃するのであれば、ICBMは必要ありません。
あらゆるシステムが、電力供給を前提に作られていますので、インフラが破壊されれば、既存のシステムは機能しません。Jアラートも鳴りません。原子力発電所の燃料貯蔵プールに直撃弾が落ちれば、放射能汚染も起こります。道路も寸断されますので、流通インフラが機能しません。それは、食料や燃料や水の供給が出来なくなるということです。都会ほど、その影響は大きくなります。
もちろん、ミサイルによる直接の犠牲者も出ます。百万人単位の犠牲者で済むかどうかはわかりません。先月も書きましたが、北朝鮮は、化学兵器、生物兵器、核兵器、通常兵器、とあらゆる武器を持っています。
自衛隊は、救援活動で手一杯です。
止めを刺すために、核兵器が投入されるかもしれません。アメリカ軍は、アメリカ本土への核攻撃ではありませんので、核兵器による報復をしないかもしれません。なぜなら、アメリカが核兵器を使用すれば、その報復という名目でワシントンに中国の核ミサイルが飛んでくるかもしれないからです。アメリカは、前線基地の日本列島を諦めて、前線をグアムとハワイに下げれば、とりあえず、アメリカ本土は戦火を免れます。トランプが指摘したように、被害は、アメリカから見て、「向こう」で生じるのです。
中ロ連合軍は、深追いはしないと思います。中国には、勢いに乗ってアメリカ本土を攻めるほどの力は、まだありません。
日本は占領され、中ロ連合の管理下に置かれることになります。
第三次世界大戦でも、原爆被爆国になるのは日本だけという残念な結果になるかもしれません。非核三原則を掲げていた国が、二度目の被曝をするという皮肉な結果になります。
もちろん、こんな戦争をすれば、中国も無傷ではすみません。中国の経済基盤は、決して、強いとは言えません。日本、アメリカとの経済関係が途切れることで、中国経済もダメージを受けます。経済が国の基本であることは、共産主義の国でも同じです。また、北朝鮮のような凶暴な国を支援し、日本を叩き潰した結果、多くの国が中国を恐れるようになります。表面的な友好は維持しても、深入りはしたくないと思うでしょう。いつ、自分の国が日本のようになるかわかりません。そのほうが、中国経済に大きなダメージを与える可能性もあります。日本でも構造改革はできませんでしたが、中国の構造改革は日本よりも難しいと思います。アメリカは日本という前線基地を失いましたが、それほど大きな傷ではありません。ロシアもそれほどのダメージは受けないでしょう。多分、日本と中国が貧乏籤を引くことになります。北朝鮮は、既に、貧乏籤を引いていますので、それほど変わりはありません。韓国は、賢明な判断をして、国益の損失を最小限に抑えることになります。

悲惨なプロットになってしまいましたが、笑っていただいて構いません。
でも、荒唐無稽な絵空事で片付けられるのでしょうか。
世界を動かしているのは、「正義や信義が優先する」という条件がプログラミングされたコンピューターではありません。
個人でも、国でも、「どっちが得か」で動いているのです。
「何でもあり」のほうが現実なのです。

最悪の想定をしましたが、もちろん、想定が現実になるとは限りません。可能性がゼロではない、というだけです。ただ、こんなことになると、大変だと思います。
しかし、政府は、「日米安保、日米安保」と連呼するだけです。
「戦争反対、安保反対」と叫んでいた左翼の方と同じことをやっています。
「なんか、へんだな」と思うべきなのではありませんか。
政府は、「国民の生命と財産を守る」と言います。
でも、政府は、「全ての国民を守る」とは言っていません。
もちろん、そんなことは、不可能ですが、そのことは伏せています。
極論ですが、1億2,000万人の国民が犠牲になっても、1人の国民を守れば、国民を守ったことになるのです。
国民の皆さんは、「国民の生命と財産を守る」と言われると、自分も守られているように思うかもしれませんが、それは勘違いです。
犠牲者は、必ず、出ます。
それが、戦争なのです。
政府の「国民の生命と財産を守る」という意味は、「可能な限り、国民の皆さんを守る、努力はします。それ以上のことはできません。言葉だけにすぎませんが、何もないよりは、少しは落ち着けると思うのです。だって、全ての国民を守ることなんて、誰にも出来ませんから」という意味です。努力目標なのですから、どんな目標でもいいのでしょう。
ところが、国民を守るのは、日本政府ではなく、自衛隊でもなく、アメリカ軍です。
アメリカ軍兵士が、なぜ、自分の命をかけて日本人を守る必要があるのでしょう。彼等は、正義の味方なのですか。白馬の騎士なのですか。違うと思います。
日本政府には、国民を守る力がありません。
「アメリカが、きっと、守ってくれる。そう信じましょう」と願っているだけで、本当に、国民は守れるのでしょうか。
「日米安保さえあれば、我々は守られる」のであれば、左翼の方が言う「日本憲法さえあれば、9条さえあれば、戦争は避けられる」という論理と、他力本願という意味では同じです。どちらも、信義が優先すると思い込んでいます。信義を信じているのは、日本人くらいです。
驚くほどの論理の飛躍なのですが、国民は、「ふむ、ふむ」と頷くだけです。
まさに、夢見る少女状態です。
もしも、本当に戦争になったら、その責任の大半は、国民にあります。
なぜなら、この国の責任者は国民だからです。
その自覚を持てなかった国民の責任なのです。
国も国民も、どっちもどっちです。私達国民から選ばれた人達が国家の運営をしているのですから、その意識レベルは一緒なのですから、仕方のないことです。せめて、定義が存在していれば、少しは変わっていたかもしれません。

もちろん、こんな小説のプロットのような未来は要りません。
戦争なんて、ご免です。
確かに、これは、与太話の類ですが、その確率はゼロなのでしょうか。ゼロであって欲しいとは思います。
だからと言って、願いが叶うとは限りません。


2017-10-02



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小池旋風再び [評論]



小池東京都知事が、国政政党「希望の党」を立ち上げました。
安倍総理の解散会見の直前に発表するという、サプライズも用意されていました。
凄い人ですね。
半年前に、「希望の党」という政党名を商標登録していたのですから、確信犯です。
新党設立の準備をしていた若狭氏や細野氏は、使い走りにすぎず、いとも簡単にリセットされてしまいましたが、これも、予定の行動だったのでしょう。
凄い人です。
役者の違いを見せつけられました。
ところが、それだけではなく、既に、発表前に、民進党の前原代表、連合の神津会長とも会談をしていて、合流の約束も取り付けていたのです。
民進党は、今回の選挙では公認候補を立てないそうです。離党して、希望の党の公認を貰ってください、と言っています。余りにも滅茶苦茶で、余りにも突然で、唖然とするか、拍手するかの二択しかなかったのでしょう。満場一致で決まってしまいました。もう、これは政党ではありませんが、民進党には参議院議員も地方議員もいますので、苦肉の策だったのでしょうが、民進党の苦悩がにじみ出ているようで、気の毒な気持ちになりました。小池知事は、「合流」は考えていない、と言っています。民進党出身の方であろうと、他の政党の方であろうと、希望の党から出馬したいと応募してきた人は、個別に面談をして決める、と言っています。それは、断る場合もある、ということです。それでも、前原氏は小池氏の提案を受け入れました。小池提案の丸呑みです。私達が感じていたよりも、民進党は窮地に立っていたのでしょう。ただ、前原さんの判断基準は、民進党の議員が、国会議員であり続けるためには、どうすればいいか、にあるように見えます。つまり、「国会議員さえよければ」が判断基準です。そこに、国民という視点は入る余地がありません。別に、前原さん個人を批判しているのではありません。彼の周辺にいる人達は、皆さん、そういう判断基準で動いていますので、あの世界では常識なのでしょう。
それにしても、凄い。
もちろん、小池さんが、です。
これだけの絵が描ける政治家は見当たりません。
前原さんは、その「ヘタレ」ぶりが際立ってしまいました。
国政選挙に関してだけですが、小池さんは、金もなく、組織もなく、候補者も揃えられない、ただのおばさんです。無手勝流の実験です。それを、風にしてしまうのですから、凄いと褒めるしかありません。これは、才能です。
まだ、新党立ち上げ直後ですから、この先、紆余曲折はあるものと思いますが、着実に国民の支持は上がっています。ある世論調査によると、自民の29%に対して、希望18%という数字も出ています。これまで、野党で2桁の数字を出した政党はありません。国民が求めているのは、第2自民党だと以前に書いたことがあります。左翼に投票する勇気はないけど、自民党には投票したくないと思っている国民が多くいることは、東京都知事選挙や東京都議選挙で立証されました。国政選挙でも、小池旋風が吹き始めています。
まかり間違って、若者や女性が投票所に行き、投票率が高くなってしまうと、波乱が起きる可能性があります。また、お年寄りが、特に選挙に関心がなかったお年寄りが、消費税だけを判断基準とした場合は、自民党は不利になります。できるだけ、今まで通り、若者や女性や老人は、眠っていて欲しいと願うしかありません。10月22日が台風で大荒れになり、投票率が50%を切ってくれたら、自民党にとっては、万々歳です。
多分、自民党は「しまった」と臍を噛んでいるのではないでしょうか。小池さんのために総選挙というお膳立てをしてしまって、まんまと利用されてしまった感があります。
ただ、希望の党の人材不足は否めません。
でも、お国の役には立ちそうにもない人でも、当選してしまえば、国会で一票を投ずることができます。優等生でも劣等生でも、一票の価値に変わりはないのです。小池さんは、そんなこと、百も承知で勝負に出たと思います。
凄ッ。
私には、あの太々しい笑顔が、百戦錬磨の狸の顔に見えてしまいます。
選挙は水物と言われ、中々予測が難しいと言われますが、大荒れの選挙になる、と多くの方が予想しています。希望の党の出現で、一番困っているのは共産党ではないでしょうか。相手が民進党であれば、手の中で転がせますが、小池さんを転がすことはできません。
また、民進党の左派議員の皆さんは、困っていると思います。新党を立ち上げるしか選択肢はありませんが、準備不足で、それも難しいと思いますし、社民党の衰退を見ているのですから、バリバリの左翼政党を立ち上げることには抵抗があるでしょう。今になると、左派議員の皆さんにとっては、民進党が理想的な居場所だったのではないかと思ってしまいます。どうするのでしょう。お気の毒、としか言えません。

ただ、国民目線で見ると、自民党も希望の党も50歩100歩に見えます。
政策が似ているという意味ではありません。
小池氏は、リセットという言葉を強調していましたが、多分、自分にとって都合の良いリセットだけを思い描いているのでしょう。国民のためのリセットが、どこに組み込まれているのかは見えてきませんでした。
国民は、小池旋風という騒ぎには巻き込まれますが、時間が経過すれば、元の木阿弥になるしかありません。
国民の皆さんも、慣れていますので、期待することはないと思いますが、少しでも夢を見ると、その分失望が大きくなりますのでご注意ください。
希望の党は、同じ穴の狢にすぎません。確かに、小池氏の希望が叶う可能性はゼロではありません。でも、国民の希望が叶うことはありません。
源流を見てください。希望の党も、これまでの政治の流れの延長線上にいるのです。国民が主役になる国家運営ができる政治集団ではありません。
それは、「国とは、国民とは、民主主義とは」という原点の定義に、全く、触れていないからです。日本の未来を変えたいのであれば、原点に戻るしかないのです。今の延長線上に未来がないことくらい、政治家であれば、わかっているはずです。
自民党は、小池氏の言うとおり「しがらみ」がありますから、現状維持をしなければなりません。野党は、本当に「しがらみ」が無いのであれば、国民を味方につけたいのであれば、原点に戻れるはずです。しかし、同じ流れの中で、流れに竿を差しても、どうすることもできません。結局、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で乗り切ろうとします。少しは波が立つかもしれませんが、すぐに、元の流れに戻ります。
政治家が、従来の発想とは違う動きをすれば、時代を変える可能性はあります。これは、政治家にしかできないことです。もしも、国家存立の原点に戻ることができれば、政治家の政治家による政治家のための選挙制度が、国民のための選挙制度に変わる可能性もあります。「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義をしている政治家であれば、先ず、何よりも先に、選挙制度を変えることになります。選挙制度は民主主義の土台ですから、土台を作ることから始めるしかないのです。しかし、政治家は、誰一人、選挙制度に言及しません。それは、政治家が国会議員という既得権益を守る前提で動いているからです。こんなこと、政治家の皆さんが、気付いていないとは思えません。もしも、目先の利益を争う選挙になるのであれば、与党も野党も、自分達の既得権益だけは、お互いに守ろうという暗黙の了解があるとしか思えません。結局、食い物にされるのは、国民だということなのでしょう。
今までと、何も、変わりはないのです。
これは、ただの、権力闘争にすぎません。
どちらが、国民を食い物にする権利を獲得するか、という闘いの場である投票所に足を運ぶ私達国民は、一体、何者なのでしょう。どちらの領主様を選んでも、領主様は領主様の利益を優先するのであれば、選ぶ意味があるのでしょうか。それとも、「選べるだけでも、感謝しろ」ということなのでしょうか。封建制度であれば、そうなります。いや、封建制度ですから、それが正しい答えなのでしょう。

自民党にとっては、厄介な風が吹き始めましたが、今のところ支持が逆転しているわけではありません。確かに、無党派層の多い都市部では苦戦するでしょうが、100万票で当選しても、10万票で当選しても、国会では一票の重さしかありません。地方で勝てばいいのです。
希望の党は、頑張っても、立候補者数は150だとすると、全員当選しても第一党にはなれません。政権交代はできないのです。
安倍総理は、解散会見で消費税の使途について時間を取って説明していましたが、希望の党が、消費税凍結を主張してしまったので、消費税を争点にすることを避けるために、北朝鮮情勢を前面に出す戦法に変えたようです。これは、正しい判断だと思います。消費税を最大の争点にすれば、勝てる選挙も勝てなくなります。また、安倍総理は、街頭演説で「子供達の未来を守る」と声を大にして訴えていました。いつものことですが、言葉選びや短文の作成については、中身は伴わないとしても、お見事です。「子供達の未来を」一番守っていない人達が、堂々と「子供達の未来を守る」と言うのですから、その厚顔無恥も芸術の域に達しています。これは、政治ですから、選挙ですから、何を言ってもいいのです。野党の皆さんも、見習うべきだと思いました。更に、北朝鮮のミサイルとJアラートのおかげで、自民党は、一定の支持は得られています。
まだまだ、自民党のほうが優勢です。
森友加計問題は氷山の一角であり、自民党は、元来、利権集団のための政党ですから、国民のための政治をする集団ではありません。それでも、なぜか「他よりも、ましだから」と考える国民のおかげで政権を維持しています。この投票動機は、まだ生きています。長い時間騙されていると、人間は、その環境の中に幸せを見つける力を持っています。自分達が騙されていることは忘れてしまうのです。
安倍総理は解散会見で、全世代型社会保障と大見得を切りましたが、単なるバラマキ公約でしかありませんので、一時的なものでしかなく、日銀の政策と同じで、副作用だけが後に残るものになると思います。公約は、国民の心を動かしていません。特に重要な選挙区になる地方の老人にとっては、幼児教育無償化なんて他人事です。自民党勝利で選挙が終われば、消費税増税が現実になりますし、老人向けの社会保障の削減が現実になります。しかし、老人の皆さんに、その実感は余りないように見受けられます。皆さん、大丈夫ですか。
自民党の公約は、自民党政治の真骨頂である、税金を使うだけ使って、後は野となれ山となれ方式ですから、現在の国民だけではなく、将来の国民の首を絞めるものになります。それでも、自民党の最大の利点は、「他よりも、ましだから」という投票動機です。この動機は、曖昧なだけに、なくなりません。
多くの方が、まだまだ「他よりも、ましだから」という理由にもならない理由で、自民党に投票します。愚かと言うしかありません。国民は、いつまで、こんなことを続けるのでしょう。国民は、自分達に選択肢がないことに気付かなくてはなりません。念のため書きますが、希望の党は、別の選択肢ではありません。
国民は、何が選択肢なのかを知らねばなりません。それが、国民の義務です。民主主義の定義がないことと、政治家のための選挙制度しか存在していないことが問題なのです。国民のための選挙制度が存在しないのですから、政治家は国民のために働く必要がないのです。選挙の時だけ、頭を下げればいい。それは、自民党でも希望の党でも、条件は同じです。権力闘争に勝てばいいのです。別に、国民のための政治をしなければならない、という制約はどこにもありません。風であろうが、美辞麗句であろうが、国民を騙したほうが勝つのです。「おれおれ詐欺」と同じようなものです。善良な老人ほど騙されます。そして、この国の老人は、大半が善良な老人です。この国の国民は、皆、いい人ばかりですから、政治家の騙しも、おれおれ詐欺も、悲しいことですが、なくなりません。
それでも、何度でも書きます。この国の責任者は国民です。ですから、たとえ、知らなかったとしても、騙されていたとしても、責任は国民にあります。国民は、知る努力をしなくてはなりません。それを怠った国民が責任を取るのは、仕方のないことです。何も、私は国民が左団扇で生活できる仕組みを作れ、と言っているのではありません。国は国の責任を、国民は国民の責任を果たし、大人達は最大限の努力をし、できるだけ豊かな生活を子供達に渡せる大人の国になるべきだと思っているのです。

それにしても、あのJアラートの選挙効果は大きいです。役に立たないJアラートを鳴らす必要はなかったと思いますが、選挙戦略であったのであれば、これは絶妙な選挙対策になりました。国が、政府が、自衛隊が、国民を守ってくれるわけではありませんが、少しでも太い藁を掴もうとするのは、人情として、仕方ありません。
安倍総理は「いつ、解散するか」「どうすれば、自民党が勝てるか」をずっと考えていたと思います。まさか、小池旋風が再び吹くとは思っていなかったでしょうから、今の状況は想定外だったでしょうが、安倍さんのブレーンに優秀な方がいて、北朝鮮情勢を利用し、国民に恐怖心を持たせることが出来れば、集票できると考えてJアラート案を提案したのであれば、称賛に値します。いや、それ以外にJアラートの意味はないのかもしれません。そうであれば、納得できます。「なんか、変だな」という現象には、必ず、裏があるということを忘れていました。私は、Jアラートに苦情を書いていましたが、反省しなければなりません。
私達は、私も、砂上の楼閣の上で右往左往しているのです。ただ、楼閣の上にいると、それが見えません。

何一つ変わらない権力闘争をしていていいのでしょうか。
いつになったら、国民のための政治が始まるのでしょう。
多分、そんな日は来ないのだろう、と思うしかありません。


2017-10-01



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二択 [評論]



最近、文章が長くなって、ご迷惑かけてます。申し訳ありません。
今日の話は、ほんの少し、短いです。ほんの少し、です。
以前にも、Jアラートのことは書きましたが、今日も、その話です。
Jアラートについては、いろいろな意見があるようで、驚いています。善意に満ちた方は、何もしなしより「良い」と言います。多分、この国では、こういう評価が、大人の対応だと褒められるのでしょう。でも、この「大人の対応」がこの国を駄目にしていることに気付いて欲しいと思います。

8月29日に、北朝鮮ミサイルが、北海道上空を通過し、太平洋上に落下しました。
もしも、上空通過ではなく、陸地に着弾したとすると、Jアラートが鳴ってから4分後に着弾していた計算になるそうです。今回は東北、北海道上空でしたが、ミサイルの標的が横須賀の米軍基地だとすると、4分の余裕はなかったでしょう。この数分の時間で、私達に何ができたのでしょう。政府は、いつもの、「情報収集と分析」で一件落着のつもりなのでしょうが、私には、Jアラートは、アリバイ・アラートに見えてなりません。「国民の皆さんには、ちゃんと、お知らせしましたよね」というアリバイです。
ある方が、政府のやり方を「口先安全保障」と言っていましたが、その通りだと思います。ただ、「口先」が通用してしまうこの国も、そして従順に従う国民も、皆でおとぎの世界に住んでいるとしか思えません。国民は、なぜ、声を出さないのですか。野党は、なぜ、国民の声を結集するような活動をしないのですか。そうです。これが、ぬるま湯です。
ミサイルの弾頭にどんな兵器が搭載されているのかは、着弾するまでわかりません。勝手な想像ですが、確率の高い順番に並べてみましょう。一番確率が高いのは、化学兵器、次に生物兵器、その次に通常爆弾、最後に核兵器なのではないかと思います。
政府は、地下空間への避難が最善の策だと考えているようですが、今回、Jアラートが鳴った地域の子供連れの主婦の方が「この辺には、地下なんてありませんよ。どこへ逃げればいいのですか」と質問していました。誰だって、一番安全な場所へ避難したいと思います。
では、大阪でJアラートが鳴ったと仮定して、私が、積極的に避難行動を取ったとして、私の避難行動を想像してみましょう。確かに、近くに地下鉄の駅はあります。通常の時であれば、10分あれば駅まで歩いて行けます。しかし、ここは古い団地で、エレベーターの速度も遅く、Jアラートの場合だと、利用者が多すぎてエレベーターは使えないかもしれません。階段で6階から降りることになります。私は老人ですから、途中で一度は息継ぎをします。一気に駆け下りたら、足がもつれて倒れるだけです
この辺は住民も多く、それも、老人ばかりですし、道路は人で溢れるでしょうし、老人ですから避難速度は速くはありません。ニュース番組で、学校での避難訓練の様子が流れますが、子供達は全力疾走しているわけではありませんが、私達老人には、あの程度のスピードさえ出せません。
それでも、何とか、駅に辿り着いたとしましょう。階段は人で溢れ、躓く老人もいて、大変危険な状態になることが予想できます。さて、ホームまで着いたとしましょう。想像もできませんが、地下鉄のホームに、何人の人が収容できるのでしょう。仮に、1,000人が収容できるとしたとしても、近隣住民の数は、軽く1,000人を越えています。座り込む老人や、倒れて横になる老人もいるでしょうから、その分、狭くなります。線路に降りるしかないとしましょう。絶対に電車は来ないと言えるのでしょうか。何が起きるのかなんて、誰にもわかりません。いや、その前に、老人がホームから線路に降りることができるのでしょうか。「えい、やー」と飛び降りるとすると、怪我人が続出する可能性が非常に高くなります。老人は、自宅で転んでも、すぐに骨折します。特に、私の近くの地下鉄のホームには、転落防護柵があり、その防護柵を乗り越えて飛び降りるとなると、3メートルくらいの高さから飛び降りることになります。どう考えても、老人には無理です。人は、次から次へと押し寄せてきます。圧死する人が出るかもしれません。階段で将棋倒しになった人がホームの人の上に降って来るかもしれません。
仮に、近くにミサイルが着弾したとして、それが化学兵器だとして、地下構内に流れ込んできたら、どうなるのでしょう。何千人もの住民が、地下空間に閉じ込められたまま、あの世に行くかもしれません。即死であれば嬉しいのですが、きっと、悶え苦しみながら死を迎えることになるような気がします。地獄絵図です。
国民の生命と財産を守ると言っていた国が、これで、こんなアリバイ工作のJアラートで、「お知らせしましたよ」と言うだけで、責任を果たしたことになるのでしょうか。
もちろん、私は、数分では地下鉄の駅に到達できませんので、地下構内で犠牲になるという不運は避けられますが、道路上で化学兵器に殺されることになります。どちらがいいかという選択肢、死ぬ時は、地下と道路のどちらがお好きですかという選択肢では、ちょっと、辛いです。
ま、Jアラートが鳴ったとしても、この先、それほど長生きできるわけでもない私は、
多分、部屋を出ませんので、生き延びることができるのかもしれません。それは、私だけの選択肢ではなく、多くの皆さんが選択することになるのでしょう。政府の指示に従わなかったほうが生き延びたのでは、洒落になりません。

ここで、Jアラートと避難の問題から離れて、戦争状態になった国としての対応の問題を想像してみましょう。
日本国内の数か所にミサイルが着弾したとしましょう。明らかに、これは、戦争です。日本は専守防衛ですから、ミサイルを撃ち落とすことはできます。北朝鮮の軍艦が日本の領海に入ってきたら、その船を撃沈することもできます。北朝鮮戦闘機が領空侵犯をすれば、その戦闘機を撃墜することも可能です。もっとも、北朝鮮には軍艦もありませんし、戦闘機は古いものしかありませんので、出撃してこないでしょう。
でも、日本に出来ることは、盾の部分の専守防衛だけです。矛の役割は米軍が持っているのですから、アメリカ大統領は「100%日本を守る」言っているのですから、アメリカが北朝鮮を攻撃してくれると、私達は信じています。
では、もしも、ミサイルが、米軍基地を避けて撃ち込まれた場合、在日米軍に被害が出なかった場合、アメリカは北朝鮮を攻撃するのでしょうか。北朝鮮にとっては、あえて、在韓米軍や在日米軍の基地を狙わないという選択肢だってあります。今回も、グゥワムではなく、北海道の上空を通過する道を選択しました。チキンゲームであれば、アメリカを直接刺激する必要はありません。アメリカを孤立させるのも、立派な戦術です。
また、アメリカが、北朝鮮を攻撃するのであれば、中国もロシアも朝鮮半島の戦争に介入すると宣言したら、どうするのでしょう。
時を同じくして、中東で、イランがアメリカ海軍を攻撃するかもしれません。
更に、ロシアが、アフガニスタンに侵攻するかもしれません。
台湾海峡や東シナ海に中国海軍が展開するかもしれません。
さあ、アメリカは日本を守ってくれるのでしょうか。
イラクもアフガニスタンも、相手が弱小軍隊だったから、攻撃できたのです。
アメリカは、中国、ロシア、北朝鮮、イランを相手にする世界大戦の導火線に火をつけることができるのでしょうか。しかも、在韓米軍にも在日米軍にも被害がない状態で、です。
中東にも、アフガニスタンにも、朝鮮半島にも、日本にも、多数のアメリカ軍兵士が展開しています。犠牲が出ているのは、中東のアメリカ艦船だけです。
アメリカ国民を助けるのか、在日米軍兵士には被害が出ていないけど、日本国民を助けるのか、という二者択一を迫られたら、アメリカ大統領は、どう判断するのでしょう。被害が出ている中東を優先するほうが自然です。トランプだけがアメリカファーストなのではありません。アメリカ人は、基本的にアメリカファーストなのです。でも、これは、何も変なことではありません。どこの国でも、自国の国民の生命と財産が優先するのです。

「日本が攻撃されたのだから、日本が反撃するのが筋というものだ。同盟国として後方支援は約束しよう」と言われたら、日本政府は、どうするのでしょう。日本が得意とする後方支援を先に米軍から言われたら、日本政府の頭は真っ白になってしまうでしょう。
「いや、あの、その、日本は憲法で制約されていまして、はい、反撃とか、出来ないのです」
「それは、日本の事情であり、我々の問題ではない」と言われるでしょう。
散発的ではありますが、北朝鮮ミサイルは米軍基地を避けて飛来したとします。
その都度、日本国民の犠牲者は増えていきます。
日本は、白旗を挙げるしかないのではありませんか。
北朝鮮は、日米韓の分断に成功し、しかも、アメリカは武力行使を諦めることになります。
それとも、また、神風特攻隊を編成しますか。
船に爆弾を積んで、北朝鮮の港に自爆攻撃をしかけますか。
特攻や自爆で、北朝鮮のミサイル攻撃力を無力化することはできません。ひょっとすると、蚊に刺された程度の被害しか与えられないかもしれません。特攻も自爆も無駄死です。
これまでのように、「お国のために」という説得材料で、自衛隊員が、承知するでしょうか。
他人の命よりも、自分の命のほうが大切です。これ、当たり前のことです。自衛隊員だって人間です。無駄死とわかっていても、命を捨てるためだけに出撃できるのでしょうか。
負け戦であっても、自分の命をかけようとするなら、そこには大義らしきものが必要になります。「アッラーのために」「アッラーは偉大なり」のような盲信も、その一つです。明治大正昭和の時代であれば、「天皇陛下、万歳」がありました。でも、今の日本人は、天皇陛下のために自分の命を捨てるような馬鹿なことは出来ません。

そう考えると、今の日本政府がやっていることは、ただの茶番劇に過ぎないとしか思えないのです。
情報の収集と分析と言うのであれば、今回のJアラートで、何人の住民が、何分で、どこに避難したのかという情報を収集し、分析して、発表してもらいたいものです。
ミサイルの分析をしても、この国には反撃能力がありませんので、意味がありません。
Jアラートをミサイル発射と同時に鳴らしても、4分が10分になるだけで、何の効果もありません。
つまり、国は、何の対応もしていないのです。
平和ボケした官僚が、机上の空論に基づいて作った対応策を、何の危機意識も持たずに発表するだけの政府に、存在意義はあるのでしょうか。日本国民は、屁のツッパリにもならないような指示であっても従ってしまいます。この国は、民主主義風王政並立封建制度の国ですから、「お上」の指示には、無条件で従わねばなりません。
でも、これでは、国民は救われません。
確かに、日本国民は、私を除いて「いい人」ばかりです。だからこそ、政府は国民を守らなければならないのではありませんか。

「国とは」という定義がないということは、ほんとに、楽なことです。
定型文を読み上げ、アリバイを作る儀式をすれば、責任を果たしたことにできます。
政治家は、一度やったらやめられない、と言われる意味が、よくわかります。
民間人のほうが、たとえ小さな責任であっても、自分で背負っているように見えるのですが、これは、私の僻みなのでしょうか。

最後に、実現の可能性は、全く、ありませんが、少しだけ、対応策も書いておきます。
笑っていただければ幸いです。

日米安全保障条約を改訂し、他国の攻撃で、日本国民に犠牲者が出た時は、米国はミサイルを撃ち込んだ国の攻撃力を無力化しなければならない、という一文を入れてみたら、少しは安心できるかもしれません。もっとも、米国がその条約を守るという保証はありません。

先進国の中で、地下シェルターが最も少ない国が日本だと言われているそうです。
第二次大戦のときは、至る所に防空壕があったと聞きます。もちろん、簡単な防空壕でしたから、直撃弾が落ちれば全員死亡という悲劇もありました。それでも、防空壕に逃げ込んで助かった人もいたと思います。建築基準法を改正し、地下室を義務化すれば、時間はかかりますが、シェルターを増やすことができます。既存の住宅の場合は、1分程度で駆け込める場所に、近隣住民共用地下室を作る法律を作り、補助金を出してはどうでしょう。そうすれば、Jアラートだって少しは役に立ちます。

憲法を改訂、いや、全く新しい憲法を作ってはどうでしょう。
民主国家に相応しい憲法を作れば、国民を守るために、国がやることが明確になります。
近くに、中国や北朝鮮やロシアという国があるのですから、相手国の善意に頼るだけでは国民を守ることはできません。抑止力として有効になる程度の軍事力は備えなければなりません。そのためには、中距離弾道ミサイルも必要ですし、巡航ミサイルも必要ですし、爆撃機や空母も必要です。もちろん、核兵器も必要です。
そして、それらの軍事力を、いかにして使わないようにするのかの規定が必要です。軍事力は、専守防衛のためでもなく、相手の国を攻撃するためのものでもなく、抑止力として備えるためのものだからです。


2017-09-04



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記念日 [評論]



今年も、終戦記念日がやってきました。
戦争に勝った国では、文句なく「戦勝記念日」と呼べますが、戦争に負けた国には複雑な想いがありますので、終戦と呼ぶのか、敗戦と呼ぶのか、全く別の名前を使うのか、いろいろな議論があったのだと思います。
第二次世界大戦の欧州戦線での戦争終結は、5月8日とされ、ドイツもその日を記念日にしているようです。
第二次世界大戦の太平洋戦線での戦争終結は、9月2日とされています。日本が正式にポツダム宣言を受諾し、その文書に調印した日です。
では、8月15日の終戦記念日と呼ばれている日は何の日なのでしょう。
昭和天皇が玉音放送をした日だそうです。
終戦記念日が公的なものになったのが、終戦から12年後だとすると、憲法は制定されていましたし、国民は日本が天皇制から民主主義国家へ変わったことを知っていたと思います。民主主義の国として歩き始めた。そんな時代だったのだと思います。しかし、民主主義では不都合だと考えていた人達が、天皇制という国体で利益を得られる人達が、国家運営者の中に一定程度いたのでしょう。天皇を象徴という立場に祭り上げることに成功した彼等に、民主主義風王政並立封建制度という明確な青写真があったのかどうかはわかりませんが、漠然と、方向性は決まっていたのではないでしょうか。「なあに、見た目、民主主義に見えればいいんだ」と思っていたかどうかはわかりませんが、本音は、多分、その辺にあったのではないかと思います。そうだとすると、8月15日を記念日にする意味はありました。天皇制は、まだ生きているぞ、という意図があったのだと思います。当時の国民は、今の国民もそうですが、玉音放送にも記念日の制定にも関与できませんので、「お上」から下されたものを頂くしかありません。
それでも、日本が、本気で民主主義国家になろうとしていたのであれば、どこかの時点で、9月2日を終戦記念日にしていたかもしれません。でも、そうはなりませんでした。「まあ、まあ、そんな固いことは言いなさんな」ということなのかもしれません。
もちろん、記念日がいつか、なんて、些細なことです。でも、空気を醸成するためには、この些細なことが数多く必要になりますし、この些細なことの積み上げ作業こそが、国家運営者にとっては必須条件だと思います。そういう意味では、民主主義風王政並立封建制度信奉者は、細部に気を配り、よくやったと思います。

少し歴史を遡りますが、私は歴史の専門家ではありませんので、いいかげんな話だと思ってください。
天皇が、名実ともに権力を掌握し、国を統治していたのは神武天皇の時代だけだと思っています。その後も、天皇の意志が国家運営に反映された時はありましたが、天皇の権力は徐々に減少し、戦国時代になれば、天皇は利用される統治ツールとしての価値しかなくなりました。少なくとも、500年から1,000年、天皇は利用され続けてきました。これが、否定しようのない日本の歴史です。1,000年続けば、もう、立派な文化です。その文化は、今でも脈々と続いています。天皇家は国家統治の道具として利用されてきたのが日本の歴史であり文化なのです。明治天皇でさえ実権はありませんでした。ましてや、大正天皇や昭和天皇には、実権の欠片もありませんでした。現在の平成天皇も、緩やかになりましたが、利用されていることに変わりはありません。では、何のためにそんなことが続けられているのでしょうか。理由は単純です。そのほうが為政者にとって利益があったからです。自分の利益にならないことをやる為政者はいません。為政者だけではなく、自分の利益にならないことをする人間はいません。天皇が望んでいるかどうかに関係なく、「陛下のおんために」と言っておけば、どんなことでも出来てしまう。こんな美味しいツールを一度手にすると、手放せません。
皆さんの中には、為政者は「国家、国民のために働いている」と思っている方がいるかもしれません。我々「下々」とは違うと思っているかもしれません。「いい人達」ばかりですから、そう信じていても不思議ではありません。でも、ほんとに、そうなのでしょうか。「この、ハゲー」と叫んでいる国会議員だっているのです。彼女が「国家、国民のために働いている」、意識の高い人間だとは、誰も、思いませんよね。「あんなのは、例外だ」という人もいるのでしょうが、いえいえ、私達は、人間なのですから、同じなのです。ただ、確かに、我々「下々」と違う部分はあります。でも、勘違いしないでください。彼等が我々「下々」と違うところは、彼等は我々よりも、数倍、欲深いという部分です。欲のない人間では、国家運営集団に参加することなどできません。これが、現実です。
私は、天皇制を否定的に書いた文章を、あまり見たことがありません。一方、天皇制に復古したいという文章は、よく見ます。でも、国民の皆さんは、ほんとに、それを望んでいるのでしょうか。そうは、思えません。天皇のためであれば、国民は無条件で犠牲になることを正義とする国体です。今の日本人には、そんなこと、できません。あなたは、親を捨て、妻を捨て、子供を捨てて、「天皇陛下、万歳」を叫びながら弾幕の中へ飛び込む勇気はありますか。私には、ありません。
日本は、民主国家だという建前はありますが、まだまだ、国民が天皇を語るのはタブーのようです。どうして、タブーなのでしょう。畏れ多いからなのでしょうか。では、どうして、畏れ多いのでしょう。「畏れ多いから、畏れ多いのだ」という答えが返って来そうです。この辺が、とても曖昧です。
天皇が実権を持つかどうかは別にして、天皇制という国体は封建制度そのものです。民主主義とは水と油の関係です。その二つを混ぜ合わせて作り出されたのが民主主義風王政並立封建制度です。現在の民主主義風王政並立封建制度では、天皇に実権はありません。もちろん、国民にも実権はありません。国家運営者になった政治家や官僚が自由に動かせる国体です。天皇も国民も主権者のように見えて主権者ではないという曖昧を作り出した手腕は見事なものです。国家運営者には、何の縛りもありません。選挙があるじゃないか、と言う方もいるでしょう。だったら、なぜ、大半の国民が無党派なのですか。投票率が低いのは、なぜなのですか。現在の選挙制度では、国民の選択肢がないということなのではありませんか。それ以前に、「国とは、国民とは」という定義もなしに、国民はどうやって自分達の代理人を選出できるのでしょう。そこにあるのは、曖昧な空気だけです。しかも、官僚には選挙すらありません。彼等は、好き勝手に、この国を動かせるのです。これでは、独裁国家なのではないでしょうか。しかし、特定の個人が権力者ではありませんので、独裁国家ではないという言い訳もできる優れものの国体であり、権力者集団独裁主義という言葉も存在しませんし、権力者の皆さんにとって、実に美味しい国体です。
ただし、この国体は、どう転んでも、封建制度です。
ただ、誰も、そのことに言及しません。
悲しいことに、この国は、民主国家だと、国民は信じ込んでいます。「民主主義とは」という定義もないのに、信じ込むことができるのは、国民の皆さんが、封建制度に慣れ親しんできた「いい人」ばかりだからです。これは、「耐えて、耐えて、蔑ろにされても、それでも耐えて、どこまでも信じて」という演歌の世界です。犠牲になるのは、本人だけではありません。子供達も犠牲になるのです。
白色と黒色を混ぜ合わせれば灰色です。その灰色に安住しているのが、日本人です。誰一人、自分が責任者であるという意識がありません。これでは、競争に勝てません。競争に勝つ必要なんて無い、という人もいるでしょう。それは、辛酸を舐めていないから言えるのではないでしょうか。少なくとも、経済競争には勝たねばなりません。なぜなら、私達の生活がかかっているからです。私は、封建制度よりも民主制度のほうが好きですが、白黒を明確にして、責任者を明確にするのであれば、どちらになっても、現在の中途半端よりはいいと思います。中途半端、曖昧、ぬるま湯では国力を消耗するだけです。現在の国体は、一部の国家運営者にとって、目先の利益がありますが、国として衰退していったのでは、彼等にも利益はありません。未来の国民にとっては、なおさら、利益はありません。「自分さえよければ」「今さえよければ」で、ほんとに、いいのでしょうか。
確かに、これまでは、過渡期の国体として、民主主義風王政並立封建制度は、役に立ってきたかもしれませんが、賞味期限は過ぎています。それは、日本の国力が衰退していることが証明しています。
今は、この民主主義風王政並立封建制度が、この国に引導を渡す仕組みになろうとしています。盤石だと言われていた徳川幕府だって潰れました。永遠に続く制度など存在しないのです。このことは、是非、知っておいて欲しいと思います。
国のあり方を変えなければ、私達がドツボにはまります。
国民が主権者となり、責任は全部自分達が取るという覚悟を持つしか方法はないのです。どう転んでも、「嫌だ!!」と言っても、上手く立ち回って自分だけ逃れようとしても、無理なのです。大金持ちの方には選択肢がありますが、少なくとも、私達庶民は、全員で、最終責任は取らなければならないのです。だったら、そのことを自覚し、覚悟を持てば済む話なのではありませんか。不条理だと言う方もいるでしょう。「俺は、責任者に任命されていない」と言う方もいるでしょう。では、皆さんは、生まれてくることを拒否する権利は持っているのですか。そんな権利、ありませんよね。それと同じで、皆さんは、生まれた時に、自動的に、責任者のレッテルを貼られているのです。皆さんは、そのレッテルに気付いていないだけなのです。確かに、不条理ですが、仕方ありません。
安全保障に関するタブーは、随分、緩やかになりました。天皇制タブーが緩やかにならないと、民主主義は始まらないのかもしれません。
もちろん、私は天皇家を大切に思っていますし、陛下のことは尊敬しています。人格という点では、歴代の総理大臣が束になっても、陛下には勝てません。しかし、天皇が国体に関与している限り、国民が主権者になることはありません。陛下は、そんなことは望んでいないのではないかと思っています。陛下は、私達よりも、はるかに、国民を大切だと思っているように見えてなりません。天皇家が、国体に関与することなく、日本の誇るべき「文化」として国民に敬愛され、皇族の皆さんが、国民と共に伸び伸びと生きていける日が来ることを祈っています。そろそろ、解放してあげてはどうでしょう。

国家運営者にとって、理想の統治方法は独裁です。逆に、国家運営者にとって一番面倒な統治方法は民主主義です。ですから、国家運営者は、出来る限り、民主主義を薄めなくてはなりません。権力をふるいたいと願う指導者が出てくると、民主主義を薄める方向に走るのは、ごく、自然なことなのでしょう。最近では、トルコ、アメリカ、ベネズエラで、そういう動きがあります。でも、古くから、そのことに成功しているのが、日本の国体です。実に上手にできています。天皇を利用し、日本人が好きな儀式を随所に取り入れ、正面から見れば、民主主義という統治体制に見える国体を作り上げている。でも、実際には、主権者を主権者とも思わない封建制度が続いていて、しかも、国民は「ふむ、ふむ」と頷くだけです。これは、この国体を設計した官僚達が、優秀だったということなのでしょう。でも、時の流れは、時代とともに高速化しています。今の70年は、昔の700年に相当するかもしれません。制度疲労が起きるのは致し方のないことだと思います。

終戦記念日には、鎮魂の気持ちも大切です。
不戦の誓いも大切です。
でも、出来ることであれば、あれだけの大惨事を体験したのですから、国体を見直す日にしていただければ、未来の国民の利益になると思うのです。国民の生活を守る、未来の国民の生活も守る、そんな記念日であれば嬉しいです。そんな記念日にしても罰は当たらないと思います。
民主主義風王政並立封建制度は限界を迎えています。昨日、構造改革の話を書きましたが、この統治構造の改革も、文化構造改革の次に重要な構造改革だと思います。
経済の構造改革をやるためには、多くの分野の構造改革を成功させなければなりません。
もちろん、国家の最終目標は経済の構造改革です。
それがなければ、国民一人一人の生活を保証できません。
私達は、食べなければ生きていけないという絶対条件を持った動物なのです。
分業が進んだ人間社会で、食べることとは、経済のことです。
経済構造が破綻すれば、私達は生きていけません。
それが、私達の宿命なのですから、あらゆることに優先します。

終戦記念日になると「戦争反対」の声が高まります。
私も、戦争は反対です。
いや、絶対に反対です。
ただ、戦争反対と国防とは別のものです。
確かに重複する部分はあるでしょう。でも、定義さえ確立していれば、共に不可欠であることが理解しやすくなります。
チベットやウイグルやイラクやアフガニスタンやウクライナになってはいけません。
ですから、戦争には反対しなければなりません。それでも、国を守るためには、国民を守るためには、国防は避けて通れませんので、安全保障の構造改革も必要です。安全保障の一手段としての軍事同盟も欠かせません。ただし、軍事同盟は主従関係であってはなりません。その基本は「自分の国は自分で守る」という国民の覚悟です。
私達は、定義のない曖昧文化というお湯の中で生きていますので、あらゆることが、ごちゃまぜになっています。これでは、進むべき道は見えてきません。

共産党は、戦争反対を叫び、自衛隊の解体を主張します。では、共産党政権が誕生して、日本共産党は自衛隊を解体するのでしょうか。出来ません。自衛隊という名称はなくなるでしょうが、軍隊は解散できません。なぜなら、軍には治安出動という任務があるからです。自民党が自衛隊という名称を作ったように、共産党も新しい名称を作り出し、軍隊ではないという詭弁を使うでしょう。権力とは、法と武力です。法と武力があれば、権力者はどんなこともできます。共産党が一党独裁をするためには、その独裁を守るためには、共産党の利益を守るためには、治安部隊が欠かせません。それは、ロシアや中国や北朝鮮を見れば一目瞭然です。ですから、共産党政権は、軍事力を削減するのではなく、増強することになります。中国の先兵になり、アメリカと戦争をすると言い出すかもしれません。自民党のための戦争には反対しますが、共産党のための戦争であれば、正義になるのです。共産党の「戦争反対」スローガンに同調している皆さんは、「馬鹿」の見本にされていることに気付かねばなりません。軍隊もなくなりませんし、戦争もなくなりません。それが、世界常識です。世界常識は伊達や酔狂で出来上がっているわけではないのです。

人間の歴史は、戦争の歴史でもあります。
人間が国家運営をしている限り、戦争はなくなりません。
ですから、不戦の誓いも軍事力も両立させるしか方法はないのです。どちらも、国民を守るために必要なのです。
戦争反対だけを叫ぶ人は、どうやって、国民を守るのでしょう。彼等は、その具体策を未だに、70年間も、提示できていません。それでも、戦争反対を主張できるこの国は、実に、平和です。いや、ぬるま湯です。彼等も、曖昧文化の上で胡坐をかいているにすぎません。まるで、子供のようです。
世界は平和なのですか。
人間は、話し合えば分かり合えるほど高尚な生き物なのですか。
違いますよね。世界には危険が溢れています。それは、人間が欲の塊だからです。他人の願いよりも、自分の欲のほうが、はるかに強いのです。そんなこと、自分の胸に手を当ててみれば簡単にわかることです。習近平だって、金正恩だって、皆さんの心の中に存在しているのです。彼等の立場に立てば、誰だって同じことをします。

権力に憧れる人達は、それぞれの思惑で終戦記念日を利用し、天皇をも利用し、自分の欲望のために必死です。ただ、多くの国民は無関心です。いや、「ふむ、ふむ」と言う方はいます。終戦記念日は、欲の亡者の祭典なのですか。
70年前に思いを馳せるのであれば、70年後にも関心を持ってもらいたいものです。国家改造をし、経済の構造改革に成功しなければ、70年後の私達の生活は成り立ちません。いや、10年後の生活も成り立ちません。
一人一人の国民の生活以上に重要なことなんてないのです。
「国とは」という定義は、まだ、ありませんが、国民の生活を、未来永劫、守ることが国の使命なのだと思っています。是非、「国とは」の定義をする時には、この使命を加えて欲しいと思います。
8月15日が玉音放送の日なのであれば、この日を、天皇制と決別する記念日とし、私達国民が、過去を振り返り、未来を想像し、現在を反省する記念日にしていただけると、何かが変わるかもしれません。「オーム」は共謀罪で裁けませんでしたが、「日本会議」は共謀罪で裁いて欲しいものです。自民党議員の半数以上が逮捕拘束されることになるでしょうが、なんとか、乗り越えなければなりません。右の旦那様も、左の旦那様も、日本会議に乗っ取られている自民党の旦那様も、自分達の利益ばかり望まずに、国民の利益を考えてください。お願いします。国は、国民のために存在しているのです。
ごめんなさい。私は「無いもの強請り」をしています。
でも、ほんとに、気付いて欲しい、と心から願っています。
この国は、国民のためにあるのです。


2017-09-03



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構造改革 [評論]



最初に、ニューズウィーク誌の記事を紹介します。
長文になります。このコラムを書かれた方はイギリス人ですが、この方だけではなく、私達日本人も、構造改革というものを勘違いしているのではないかと思うのです。

表題は、「日本の先進国陥落は間近、人口減少を前に成功体験を捨てよ」です。
筆者は、デービッド・アトキンソン(小西美術工藝社社長、元ゴールドマン・サックス金融調査室長)という方です。

<ニューズウィーク日本版8月8日発売号 は「2050 日本の未来予想図」特集。少子高齢化で迫りくる人口大減少。国際的な舞台で現在の影響力を維持できなくなった日本の未来像は中国の衛星国か? 近づく恐ろしい未来に日本人はどう立ち向かうべきか、「窮地に活路」を示す7つの未来予想をまとめた。この特集から、「もはやデフレや日本的資本主義は口実にできない」と説くデービッド・アトキンソン氏による寄稿を転載する>

先進国経済の中で、2050年の日本経済を予想することはとりわけ難しい。
他の先進国の場合、発展する中国経済の影響や欧米の金融危機などさまざまな苦難があっても、政府や学者、経営者などが対策を打ってきた。改革とイノベーションによって経済成長を持続させてきた実績があるため、エコノミストは過去のデータからの「延長線」を引っ張ることで予想が可能となる。
日本でも改革は昔から求められてきた。だが90年代に社会や経済の現状が固定化し、著しい低迷が続いている。92年から25年間ほとんど経済成長していない。ピーク時に日本のGDPはアメリカの70%だったのが、今では4分の1となった。イギリスと比べても、4・1倍から1・8倍に縮小。誰も日本のこうした姿を予想できなかった。
今後、2050年の日本経済をエコノミストが好む延長線予想でみると、人口激減による国の借金と社会保障の負担増大のため、先進国の地位から陥落する結論しか出ない。感情論を抜きにして、計算機をたたけば一目瞭然だ。
その結論から目を背けようと、誰もが日本経済のパラダイムシフトを予想に組み込もうとする。ただ、25年間もそうしたシフトを求めながら、デフレだの日本的資本主義だのと口実ばかりで、いまだに改革ができない。今さらパラダイムシフトを2050年の予想に入れるのは困難だ。
繁栄した最大の理由は人口
ただ人口激減を前に、これまで曖昧にしてきた大改革はもはや避けられない時期に入った。今までは適当にやり過ごしてきたかもしれないが、これからは復活か堕落しかなく、1つの大きな分かれ目となる。アメリカ以外のほとんどの先進国が大変な人口減少時代を迎えるなか、最も早くかつ極端に影響を受けるのが日本経済だ。
日本はGDPで見れば、世界第3位と優位に立っている。「日本には技術があり、日本人は勤勉だから」とよく言われる。それは基礎だが現実に今まで経済規模が大きかったのは、人口が多いという理由に尽きる。GDPは人口と生産性の掛け算だ。日本の人口は約1億2700万人と先進国の中では圧倒的に多く、アメリカに次ぐ2位だ。統計的にも、先進国のGDPは人口と極めて強い相関関係がある。感情論を捨てて客観的に見れば、日本経済が世界第3位の経済となっている最大の理由は人口だ。
イギリス人の筆者がこうした冷静な分析をすると日本をこき下ろしていると誤解され、「イギリスのGDPは日本の約半分。それはイギリスの労働者がいいかげんで、技術力は半分だから」と反発を受けがちだ。だが深く分析しなくても、人口約1億2700万人の日本と約6600万人のイギリスとで、経済規模はどうなるかは子供でも計算できる。「イギリスの技術力は日本の半分。日本のものづくりなくして、あなたの国は成り立たない」と言っても議論にならない。
戦後の日本の自国民人口成長率は先進国の中で断トツで、高度経済成長の1つの主因となった。そうした人口激増でできたさまざまな余裕から、日本の経済力や日本的経営を妄信し、「日本に普通の経済原則は通じない」との勘違いが生じたのではないだろうか。
ただこれからは、今まで日本経済の優位性をもたらした人口の規模や増加は、先進国の中で最も速いペースで逆行する。今までの働き方や稼ぎ方を維持しようとすれば、日本経済はどんどん縮小。1000兆円以上の借金と社会保障の負担によって崩壊するだろう。
ロボットには期待できない
GDPは人口と生産性で構成されているから、人口減少社会で経済を維持して高齢者を支えるためには、生産性向上で乗り切るしかない。まずは、デフレや日本的資本主義といった口実や妄想をいち早く捨てること。計算機をたたいて、生産性を軸に全ての経済常識を再検証し、生産性を高める方向に切り替える必要がある。
経済を量と質の両面から見ると、経済の質は生産性に当たる。日本の生産性は国民全体で見ると世界27位だが、労働者に限ればスペインやイタリアより低く、先進国で最下位レベル。日本の生産性の低さは労働者の質の問題ではなく、経営戦略の問題だ。経営者に生産性向上への意識が低く、経済の変化に賢く対応できない。経営的に最も安直な戦略である価格破壊をして、しわ寄せを労働者に押し付ける。非正規雇用問題や格差拡大、賃金低迷は全てここから始まっているのだ。
日本の生産性問題は、高品質の割に価格が低過ぎるといった理由も指摘できる。最近の宅配業界の問題はその典型だ。生産性とコストの意識がない経営者が何にでも耐える社員を苦しめて、誰が見てもおかしい戦略を継続してきた。経営者の独り善がりであのようなサービスを実施して、社員がもらうべき給料を払ってこなかった。調査すらせずに、「顧客はそれを求めているので変えられない」と言いながら、いざ継続できなくなるとすぐにやり方を変える。消費者側も何の文句も言わない。やはり経営の問題だ。
こうした高品質・低価格とは別の問題もある。今の経済からして付加価値が低過ぎて経済合理性がないのに、低価格によって何とか延命しようとしている商品だ。人口がこれから減少する以上、日本の生産性向上を阻んでいる経済活動をやめて、貴重な人口を生産性のより高い商品に振り向ける必要がある。昭和で役割を終えた商品を補助金で支えることもやめるべきだろう。
こういった問題は人工知能(AI)やロボットの活用ではごまかせない。既にネットの導入によって世界的に生産性が上がっているなかで、日本では生産性が低いまま。ロボット導入でもそんなにメリットなど期待できない。
日本社会が改革に弱いのは、特に60代以上の世代を中心に、戦後の成功をベースにした日本経済優越主義者が多いからだ。改革の必要性を感じていないどころか、否定ばかりする。日本経済の現実を冷静に分析し、それに基づく改革を着実に実行することが急務だ。
高齢者問題に対応するため、日本は世界一生産性の高い経済大国、最先進国となる必要がある。付加価値の高いものを徹底的に追求する、とにかくイノベーションを求める。人口が減る分だけとにかく稼ぐ。それだけだ。



この方の意見が正しい方向を向いているのかどうか、実現可能なのかどうかは脇に置くとしても、現実を直視する材料にはなります。なぜなら、失われた10年、失われた20年は実在しますし、このままでは、失われた30年を迎えることになります。人口減少も、私達の現実です。実に多くの方が、昭和病に感染しているのも、事実だと思います。
行動を起こさねばならないことは、はっきりしています。もちろん、これまでのような偽物の行動ではありません。「デフレ脱却」というスローガンで始まったアベノミクスが偽物の行動であったことは、多くの人の目に見えるようになってきました。私達がやらねばならなかったのは「デフレ脱却」ではなく、「構造改革」だったのです。そのことは、海外のメディアが、アベノミクス出発時点から伝えてくれていました。私も、その記事を紹介しましたが、日本では無視されました。デフレという結果を、無理矢理変えて物価を上昇させれば、過去の「機能不全になった構造の温存」という原因も変わるだろうというアベノミクス発想では、偽物になるしかありませんでした。
アベノミクス発表時には、多くの皆さんが拍手をしました。明らかに失敗するであろう政策に、どうして拍手するのか、私にはわかりませんでした。今でも、あの拍手の意味はわかりません。きっと、あの時、アベノミクスは失敗すると書いていた私は、「こいつ、なに、馬鹿なこと、言っているんだ」と笑われていたのでしょう。中には、アベノミクスは成功したと言う方もいます。先送り、現状維持が成功の部類に入るのであれば、成功と言えるかもしれません。でも、アトキンソン氏の指摘にあるように、この国の少子高齢化社会を乗り越えるためには、究極の経済成長が必要だったのです。そのために必要だったのが構造改革だったのですが、何も出来ませんでした。とても、成功とは言えません。
同じように、今、日本崩壊などという異端なことを書いている私は、また、馬鹿者だと笑われているのかもしれません。私は笑われても構いませんが、日本が崩壊する未来は変わりません。アトキンソン氏は「先進国から陥落する」と指摘していますが、どこまで陥落するのかは示していません。北朝鮮よりも、アフリカのどの国よりも貧しくなります。ただ、国土が豊かであることだけは救いです。もちろん、原子力発電所の処理に成功することが条件です。それに失敗すれば、この国の豊かな土は、汚染された土に変わります。

構造改革は叫ばれますが、その定義がないことで、何をしていいのかがわからず、この国は立ちすくんだままです。もっとも、10年も20年も立ちすくんでいると、立ちすくんでいることが常態になり、自分達が立ちすくんでいることにさえ気付きません。
この方の主張も、一つの構造改革論だと思います。ある程度、具体的な提案になっているように見えますが、私には、絵に描いた餅に見えてしまいます。ですから、この方の主張に忠実に従ったとしても、成功するかどうかはわかりません。いや、間違いなく、失敗すると思います。それは、日本の国家運営システムの中では、経済の構造改革は出来ない仕組みになっているという日本の実情を知らないからだと思います。外国の方に曖昧文化は理解できません。この国は、何かをやろうとしても、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で骨抜きにされてしまい、目的が達成されることはなく、「何となく」何かをやっているという姿勢を示せば、国民が納得してくれる不思議な国なのです。アベノミクスにだって拍手をします。
それでも、やはり、何かに挑戦する時であることは間違いありません。
構造改革という言葉は、大変曖昧です。定義がないことが大きな要因ですが、その範囲が余りにも広いことで、ぼやけてしまっています。その範囲は、構造改革の対象にならない分野は存在しないほど多岐にわたっています。ですから、どうしても、定義が必要なのだと思います。また、どの分野の構造も独立しているのではなく、相互に影響しあっているのですから、経済分野だけを切り取って改革を行うことは不可能だと思います。
国にとっても、国民にとっても、最も重要なのが経済です。構造改革の最終目標は、経済の構造改革です。そのためには、統治構造、政治構造、社会構造、利権構造だけではなく、文化構造の改革ができなければ、経済の構造改革に成功することはありません。日本の場合は、すべての分野の構造改革が必要なのですから、もう、国家改造のレベルなのだと思います。私達は、30年前に、50年前に、国家改造をする時代が来ていることを認め、受け入れるしかなかったのです。ぬるま湯に浸かっている場合ではなかったのです。もっとも、まだ、私達はぬるま湯に浸かっていますので、その現実には気付いていませんが、随分、時間を無駄にしてしまいましたが、もう取り返しはつきませんが、それでも、行動しなくてはなりません。
では、私達は、何をしなければならないのでしょう。
手始めに、私達は曖昧文化という構造を変えるところから出発しなくてはなりません。
出発点を間違えると、また、失敗します。
もちろん、文化構造の改革をすれば、薔薇色の未来が待っているわけではありませんが、成功の可能性が生まれます。「可能性だと」とご不満を感じる方もいるでしょう。でも、構造改革に一発逆転の妙手は存在しません。可能性を大事にしながら、根気よく、一歩一歩、前に進めるしか方法はないのです。
文化の構造改革の最初のページにあるのが、言葉の定義です。ここを曖昧にすれば、どんな構造改革をやっても成功することはありません。そして、最初に定義しなければならないのが「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義です。言葉の定義をし、その定義をオーソライズし、国民が同じ物差しで計ることができなければ、この難局を乗り切ることなどできません。この定義が出来れば、その先は見えてきます。
私達は当事者ですから、この国が、過去という怪物に飲みこまれていて、身動きが取れない状態にあることに気付きません。でも、何とかして、そのことに気付いて、行動を起こさねばならないのです。今回紹介したアトキンソン氏の指摘等が、そのきっかけになってくれると嬉しいです。では、なぜ、そんな面倒なことをするのか。それは、このままでは、私達庶民の生活が破壊されてしまうからです。
ここまで追いつめられると、人間とは何か、国とは何か、という原点に戻るしか方法はありません。言葉の定義は、そのために必要なのです。ただ、誰も、自分達が追いつめられているとは思っていませんので、実感がありません。これは、大変、危険なことです。
私達は慣れ親しんだ「なあ、なあ」「まあ、まあ」と決別しなくてはなりません。言葉で書けば簡単に見えますが、これは至難の業です。でも、敢えて、そこから出発しなければ、どんなことをしても無駄になってしまいます。
そのためには、この国が国家存立の危機に直面していることを、国家の危機は国民の危機であることを、国民が知らなければなりません。国民がその危機の実害に気付くことでしか、この国を救うことはできません。そこが、出発点なのです。
あらゆることが曖昧の中に埋もれていますので、国家運営者でさえ、危機を危機として認識できていないのです。そう考えると、日本の構造改革は、途方もない大事業になります。でも、この難局を避けて通る方法はありません。先送りで、その場を乗り切ってきたこの国の統治手法は限界を迎えていて、ついに、先送りという伝家の宝刀も使えない時代がやって来たのです。先送りには随分とお世話になりました。そろそろ、腹をくくる時です。

私は素人ですが、日本の金融危機について書き続けてきました。
実に、いい加減な評論ですが、的を外れているとは思っていません。
いろいろな言い訳やこじつけや騙し言葉は使われますが、借金は、所詮、借金なのです。どこかで、何らかの方法で辻褄を合わせるしか方法はないのです。確かに、最終責任は国民が取るしかないのですが、大量の、怖ろしいほどの国民の死で辻褄を合わせるのは、やはり、間違っています。
もちろん、統治機構も政治機構も社会構造も危機に瀕していますので、そのことも書いてきました。文化にしても、結果的に国を亡ぼすような文化は、文化として好ましいものではありませんので、そのことも指摘してきました。もっと穏やかな時代であれば、曖昧文化の良い面が生かされて、価値がありましたが、そんな時代は終わっています。正義も文化も時代とともに変化していくものです。古いものにしがみ付いたままでは、淘汰されるのが、正義や文化の持つ運命なのだと思います。
人口問題や社会保障問題や財政問題の負の側面が、具体的に迫ってきているのが少しずつ見えてきましたので、危機を予感する人は増えてきましたが、まだ、国民がどんな状況に直面するのかについて心配する人はいません。でも、一番、肝心なのは、国民生活です。もう、国が破産することは避けられませんが、国民が無事であれば、多くの国民が生き残ることができれば、国家再建は可能です。国家存続の一番の原点は、一人一人の国民の生活なのです。私達は、その原則に、未だに、気付いていません。その原則から、既に、落ちこぼれる人達が出始めていますが、国を守るということは、一人一人の国民の生活を守ることなのです。もちろん、いくら社会保障を手厚くしても、全ての国民を守ることはできません。全ての国民の生活を保証する経済構造を作ることが、国家の最終目標であり、そのためであれば、統治構造や政治構造や社会構造を変えていかねばなりません。いや、文化でさえ変えなくてはなりません。経済の構造改革ができないような、統治構造や政治構造や社会構造は本末転倒です。また、視野の狭さでは誰にも負けない安倍総理は、中国や北朝鮮から日本を守ることができれば「国民の生命と財産」を守ることになると勘違いしていますが、それだけで「国民の生命と財産」を守れるわけではありません。自滅という道だってあるのです。

国家の最優先事項は、一人一人の国民の生活を守る経済構造の構築なのです。

もちろん、国家運営に携わった人達の多くは、そのことを知っています。でも、それを前面に出せば自分達の利益に反しますので、誰も口にしません。政界で追いつめられた小沢一郎氏が「国民の生活が第一」というスローガンを掲げたのは、それだけ小沢氏が追いつめられていたことを示しただけで、なぜ「国民の生活が第一」なのかという理由を国民の心に届けることが出来ませんでした。だって、空気に洗脳された国民は、特に高齢者の皆さんは、まだ、昭和の夢の中に住んでいますから「国民の生活が一番」だとは思っていないのです。経済成長やデフレ脱却という言葉さえあれば、「ふむ、ふむ」と頷く人達です。自分の国が置かれている状況は、夢の中にいたのでは理解できません。
一方、この国には、まだ、「お国のために」という訳の分からないスローガンが残っています。とても使い勝手の良いスローガンです。国民は、このスローガンに、何となく反対出来ません。この国の方向は、そちらの方向へと誘導され始めたようで、とても気持ち悪いです。どうして「国民のために」というスローガンにならないのか不思議です。
「お国のために」という言葉の定義は、どこにあるのでしょう。
ありません。
天皇主権の国であれば、天皇のために命を捨てることが、徳川時代であれば、殿様のために命を捨てることが、「お国のため」になったかもしれませんが、今は違います。戦前の言葉が、定義のないまま、言葉だけが残り、とても曖昧なスローガンになりました。ですから、今では、ほとんど、信仰心みたいなものになっています。その信仰心は、特に、国家運営に携わっている人達に多く見受けられます。しかし、彼等は、自分達に都合がいい時だけ、「お国のため」という言葉を使っているように思えてなりません。言葉の定義がないと、簡単に洗脳されてしまうのが人間なのですから、仕方ありませんが、もう少し、自分のことだけではなく、子供達を大事にすべきなのではないでしょうか。およそ150年前から始まった、「お国のために」という馬鹿げたスローガンに洗脳された社会は、多くの若者を死地に追いやりました。今、振り返ってみれば、明らかに、当時の社会は社会全体で洗脳されていました。形は違いますが、私達老人(60歳以上の国民全員という意味です)は、また、同じ間違いを犯そうとしているのです。子供達を守ることが、子供達の未来を守ることが「お国のため」になることだと定義すれば、多くのことが明らかになります。子供達を死地に追いやることは、真逆の行為です。今、自殺や虐待で子供達が死んでいくのは、今のこのトレンドは、決して、国を守ることに繋がりませんし、「お国のため」にもなりません。どうしても「お国のため」という言葉を使いたいのであれば、その定義が必要だということです。このことは、先ず、文化構造の改革が必要だということを示しています。

若者は、将来、自分が年金で生活ができるという夢を持っていません。政府は、年金支給開始年齢を75歳にするための作業をしていると言われています。ですから、これは、正しい判断なのですが、それでも、生き延びることはできるだろうと漠然と思っています。とんでもありません。食料の確保が困難になる時代がやってくるのです。昭和の大人達が残したツケを支払うのは、今はまだ若者と呼ばれている平成の大人達です。もっとも、どんなことをしても生き残りたいと渇望する若者は少ないと言われていますので、私の心配も時代遅れなのかもしれません。でも、平成の大人達は苦しむと思います。残念ながら、平成の大人達は、自分達がどうしてこんなツケを支払っているのかについては理解できないと思います。それは、平成の大人達も曖昧文化の中で育ったからです。彼等も、昭和の大人達と同じで、この国には「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義が必要不可欠であることに気付くことはないでしょう。「へっ、なに、それ」と言われそうです。昭和の大人達は、早々に、あの世に旅立っていきますが、後に残された平成の大人達の苦しみは長く続きます。
崩壊すれば、嫌でも、「国民の生活が一番」だったことに直面することになりますが、崩壊してから気付いても、それは後悔の材料になるだけで、役に立つことはありません。もっとも、そのことに気付くかどうかも定かではありません。出口のない坩堝の中にどっぷりと浸かったまま、ずるずると地獄へ滑り落ちていくと、見えないかもしれません。
もしも、私の予測が当たっていた場合、この国は9年後に崩壊します。9年で、国家改造が出来るとは思えませんので、手遅れではありますが、それでも、抵抗はするべきだと思います。ひょっとすると、犠牲者の数を減らすことができるかもしれません。やる価値はあると思います。


2017-09-02



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出口なし [評論]



日銀の審議委員がどのように決められているのかを、私は知りません。ですから、退任した木内登英氏が、任期満了によるものか、再任されなかったのかはわかりません。黒田流に反対票を投じていたという印象がありますので、個人的には、「クビを切られた」と理解しています。これ、憶測です。後任には黒田派の方が選任されました。私には、よくわかりませんが、そこに何らかの意図を感じるのは、きっと、私が素直ではないことに起因しているのでしょう。
その木内氏が、退任後、ブルームバーグのインタビューに応じた記事がありました。審議委員の時はインタビューに答えられませんので、言いたいことがあったのだと思います。木内氏の主張が全面的に正しいと言うつもりはありませんが、耳を傾けておくべきだとは思います。
木内氏の発言を見てみましょう。
木内氏は「日銀は永久に長期国債を買い続けることはできない」と指摘しています。
当たり前のことですが、こういう発言をする方は少ないです。
あくまでも、木内氏の指摘は、技術論による主張です。彼の主張は、本質的な財政論でも金融論でもありませんが、日銀審議委員会では、このような技術的な議論もされていたということであり、至極当たり前のことであるにも拘わらず黒田総裁が一度もこのような見解を述べていないということからも、傾聴する価値はあると思います。
少し客観的なデータを見てみましょう。日銀の対GDP比バランスシートは91.33%、FRBのバランスシートは23.26%、ECBのバランスシートは37.60%です。日銀のバランスシートが突出しています。これは、いかに日銀が無茶な政策を実行してきたのかの証です。
ところが、FRBもECBも、出口へ向かい始めました。逆です。バランスシートの縮小政策を始めなければならないのは、日銀なのです。無茶を続けると、その無茶が常態となり、自分の立ち位置を見失います。客観的に見れば、日銀の金融政策は、とても、正常とは思えません。それでも、まだ、無茶を続けています。どうしてでしょう。それは、無茶を続ける以外に方法がないからだと思っています。ここからは、素人考えですが、日銀は自分で自分の首を絞めているように見えます。財政ファイナンスをすることが目的であれば、30兆円ほどの買い入れで可能だったと思います。しかし、財政ファイナンスであることを隠し、金融政策らしくするために、80兆円という購入枠を作ってしまいました。それでも、1年前であれば、出口政策と称して30兆円に減額する選択肢は、まだあったのです。しかし、いずれ長期金利が上昇することに備え、長期金利0%政策を打ち出してしまい、長期金利を0%にするためには、膨大な資金が必要であり、購入枠を減らすことが出来なくなってしまったのです。それが、購入に限界があることを認められない事情なのでしょう。これが、黒田総裁の立ち位置なのではないでしょうか。日銀は、自ら、出口を塞ぎました。市中にある国債は無限ではありません。どこかで限界点に達することのほうが自然な解釈です。
この国を破滅に追いやるあの金融緩和政策を決めたのは、日銀審議委員の人達です。木内氏は、その審議委員の一人でした。もちろん、合議制ですから、木内氏が一人で反対しても日銀の政策を変えることはできません。でも、他の審議委員を説得できなかったことは、木内氏に、ほんの少しだけですが、責任はあると思います。黒田さんを含めて、他の審議委員の皆さんも金融のプロなのですから、アベノミクスで成長戦略や構造改革が成功しなかった時に、黒田バズーカがどんな結果になるのかは承知していたと思います。しかも、アベノミクス発表時から、成長戦略や構造改革が成功しないことは、充分に予測できました。しかし、政府と財務省の強い要請に逆らうことはできないと判断したものと思います。いわゆる、大人の対応をしたのです。もちろん、保身の意識もあったでしょう。空気や流れに逆らえる人は、多くありません。仕方ないことだと思います。ただ、禁じ手と言われる、中央銀行による国債ファイナンスを実行してしまったのですから、しかも、「これは、ファイナンスではない」と嘘をついて国民を騙したのですから、卑劣であり、長期的視野や国民目線がなかったことは否定できないと思います。
「官邸の意向」というプレッシャーは、他の省庁でも有効に働きますし、日銀でも同じことが起きていたのです。明確な国家戦略を持たずに、絵に描いた餅を掲げ、強権を使った安倍総理の罪は、大変重いと思います。日銀の金融緩和策を批判する人は、この1年で増えましたが、当初は、専門家が、日銀の国債購入に限界があるという発言をすることは、それほど多くはありませんでした。いや、そのことに言及した記事を、少なくとも、私は見たことがありません。こんなに長く、こんなに多くの国債を購入することになるとは思わなかった、という言い訳は可能ですが、専門家としては「いかが」なものなのでしょうか。もちろん、限界はないという専門家もいませんでした。そこの部分を曖昧にすることで、アベノミクスは成り立っていたのです。善意に解釈すれば、これまでも、多くの専門家がやってきたように、無言という対応をしたものと思います。空気に逆らっても、何の利益もありませんから、多くの専門家の皆さんも流されました。仕方のないことです。
世間には「仕方のないこと」が多くあります。個人にとっては、空気に流されることが、最善の策になることは否定できません。空気に流された人達を非難することもできません。ただ、このことが、私達を追いつめていることも事実です。
木内氏は「日銀の国債購入は来年中ごろに限界に達する可能性がある」と言います。
木内氏がこのような発言をしたからといって、何かが変わるわけではありませんが、木内氏は、聞いて欲しかったのだと思います。
木内氏の主張によれば、日銀が買い入れを続けるには民間金融機関が保有長期国債を売らなければならないが、「全て放出するとは考えにくいため、買い入れの限界が近づいている」と述べ、日銀は買い入れ額をさらに減額せざるを得なくなるとみています。仮に長期金利に上昇圧力が加われば、目標の0%を維持するため買い入れ額を増やさなければならなくなり、「限界は来年中ごろより早くなるかもしれない」と述べています。
これは、木内氏の見解であり、その限界が、現実に、いつ、やって来るのかは未定です。
実際に、日銀の購入実績は減少しています。それは、国債を売る金融機関が少なくなってきたことを表しています。この傾向は、今後も続きます。どこかの時点で、新規発行の国債だけが購入対象になる日がやって来ます。民間金融機関は、財務省から国債を購入し、それを日銀に転売する。民間金融機関は、ペーパーカンパニー状態になります。
ただ、前FRB議長のバーナンキ氏も指摘していますが、世界的に債券市場はバブルだと言われています。日本の場合もバブル状態ですが、それは、日銀が巨額介入で市場を破壊しているために、他の国とは違い、日銀次第でバブルは弾けます。
いつ、バブルが弾けるかはわかりませんが、世界のファンドマネージャーは、その準備を始めたと言われています。バブルが終わり、各国の国債が下落し、長期金利が上昇すれば、日本国債にも影響し、日本の長期金利も引きずられることになります。日本の長期金利は0%近辺、アメリカの長期金利も2%台です。こんな低金利がいつまでも続くとは思えません。どこかで、長期金利は上昇を始めます。
日銀の国債購入に限界があることを認識するかどうかは、大変重要な事だと思います。限界があることなんて、当初からわかっていたはずです。金融の専門家なのに、日銀には「何とかなる」「総理の意向だ」という風が吹いていたのでしょう。余りにもお粗末だと思います。「忖度」という言葉が有名になりましたが、これこそ、曖昧文化です。
ただし、もっと深読みをすれば、これも予定の行動なのかもしれません。財務省の狙いはハイパーインフレですから、官邸や日銀に責任を押し付けて、「ふむ、ふむ」と思っているかもしれません。以前は、財務省の目的がハイパーインフレによる財政再建だろうという確信は、40%程度でしたが、今は80%くらいの確信があります。財務省にも、他の選択肢はないのでしょう。もっとも、私がそう思ったとしても、何の影響もありませんので、ここは、笑ってください。財務官僚は、ハイパーインフレになれば、「あの金融政策をやったのは官邸と日銀であって、財務省ではありません。それに、責任を取るのは、安倍政権を、アベノミクスを、支持した国民です。少なくとも、財務省には何の落ち度もありませんし、責任を取る必要もありません」と言うでしょう。財務省の「国民とは」という定義は、それ単独では間違っていません。ただ、「国とは」という定義がないことが残念です。
鍵を握るのが、長期金利です。以前に、「長期金利は怪物だ」と書いたことがあります。日銀は、長期金利の制御はできると自信を見せていますが、それを肯定する人は少ないのではないでしょうか。
長期金利が上昇することで、直接の影響が出るのは、借り入れをしている国や法人や個人に限定されますが、借金をしていない庶民には何の影響もないのでしょうか。
長期金利の上昇が、ハイパーインフレの起爆剤になることはないのでしょうか。
ハイパーインフレの発生メカニズムが解明されていないということが、大変不気味です。
もしも、仮に、猛烈なインフレが起これば、つまり、ハイパーインフレになれば、庶民の生活を直撃することになります。庶民にとっては、地獄の始まりです。
ただし、ハイパーインフレになれば、国の借金は相対的に減少しますので、国家財政にとっては大きな利益になります。もちろん、財務省は大喜びです。
仮に、1,000倍の物価上昇があれば、借金は、現在の貨幣価値に換算して、1兆円になります。ハイパーインフレは、借金を1/1,000にすることができる魔法の杖なのです。
その代わりに、10Kg3,000円の米が、3,000,000万円になります。
必死に貯金をしていた人にとっては、1,000万円の貯金が1万円になるということです。これでは、米を買えません。
最終責任は国民が取る、と何度も書いてきましたが、これも、インフレ税と呼ばれている増税の一種であり、財務省が得をし、国民が損をするという単純な構図です。もちろん、この構図は変です。財務省と国民は敵対関係にあるのではありません。財務省は、あくまでも、国民の外注先にすぎません。それなのに、結果的には敵対関係が生まれています。誰も「変だなあ」と思っていないところが、変なのです。
ただ、間違いなく、国民の生活は破壊されます。
しかし、国民生活に影響が出ることは、誰も口にしません。
ここが、不思議なところです。
だから、国民は、勝手に「俺には関係ねぇ」と思い込んでいます。
ほんとに、「可愛い」と言うべきか、「いい人」と言うべきか、「あほ」と言うべきかで迷いますが、手の施しようがありません。
でも、国民の皆さん、これは、皆さんの問題なのですよ。
「民主主義とは」という定義ありませんので仕方ないのでしょうが、民主国家で最大の責任を持っているのは、官邸でも財務省でも日銀でもありません。国家の最高責任者は国民なのです。だからこそ、最終責任は国民が取るのです。責任者が責任を取る。これ、当たり前のことです。政治家も官僚も、国民が国家運営を委託している先であり、安倍総理にしても単なる外注先の人間にすぎません。責任を取るのは、あくまでも、国家運営を外注している、主権者である国民なのですから、国民が責任を取ることに、何の不思議もありません。
木内氏は、2%の物価目標を「近い将来、達成するのは不可能だ」と指摘します。物価の基調は主に潜在成長率によって決まると考えられるが、これを引き上げる構造改革がにわかに実現するとは考えにくいため、目標としても「適切ではない」と述べています。また、過激な金融緩和策によって為替が円安となり、物価が上昇したとしても、「実質所得が減少して消費を冷やし、生活の質は低下する」とも指摘しています。
そして、木内氏は、日銀は早い時期に方向転換すべきだと主張しています。
審議委員の時代に何もできなかった木内氏が、民間で意見を述べたとしても、何も変わりませんが、木内氏としては、どうしても、「俺は、やれるだけのことを、やったんだ」と言っておきたかったのだと思います。いわゆる、ただのアリバイ工作にすぎません。木内氏の危機感も中途半端なものなのでしょう。いや、ここにも、「なあ、なあ」「まあ、まあ」という曖昧文化が介在しているのでしょう。本物の危機感があれば、日銀の金融政策が、どうしてこんなことになってしまったのかを伝えなくてはなりません。全部、木内氏が審議委員に在籍した時の政策です。内情は承知しているはずです。自分の身を守ることが悪いとは言いませんが、中途半端は感心しません。私には、出たがりの、ただの卑怯者にしか見えません。木内氏だって、もう、日銀が方向転換できないことくらい承知していると思います。外科手術の執刀医になれる立場にいるのが木内氏です。彼は、メスを握るのではなく、ブツブツと繰り言を並べている自分に気付いているのでしょうか。手術台に乗っているのは、この国です。これでは、病気は治せません。
庶民としては、貧困層が増えている今の状況で「実質所得が減少して、生活の質が低下する」のは困ります。一部の富裕層(政治家、公務員、大企業、権力に群がる魑魅魍魎)に恩恵があったとしても、それは目先のものでしかなく、国が崩壊すれば全ての国民が路頭に迷うことになるのです。今、国家運営者に求められているのは、長くて、広い、視野です。自分の目先の利益のために動くのではなく、国民の未来を守るために動く国家運営者が求められているのだと思います。財政破綻やハイパーインフレは、国民生活を直撃します。国民は、そのことを知りませんが、国家運営者の皆さんはプロなのですから、国民の未来を守ることが仕事なのです。もちろん、そのためには、国民がプレッシャーをかけ続けなければなりません。「お上」に丸投げでは、彼等も本気を出せません。自分の利益だけを優先させても、誰からも文句が出なければ、人間なんですから、易きに流れても仕方ありません。
では、日銀は軌道修正をすることができるのでしょうか。
出来ない、と思います。
安倍政権の信認が破壊され、ポスト安倍が話題になっています。
安倍さんにとって、不幸の連鎖が断ち切れていればいいのですが、流れは、次の総理大臣に移ろうとしています。野党再編の動きも出ています。小池都知事がどんな動きをするのかはわかりません。一部では、小泉進次郎や橋下徹を代表に据えて、国政に進出するという見方もあります。どこまで力を発揮できるかは未知数ですが、風になる可能性はゼロではありません。ただ、今現在の世評では、ポスト安倍のトップは石破さんのようです。もちろん、権力争いは始まったばかりですから、このまま、石破さんが次期総理になるかどうかはわかりません。
仮に、石破さんが総理になるとして、石破さんの経済運営はどのようになるのか、石破さんのインタビュー記事を書いている方がいました。
日銀の金融政策について、「金融政策は何のためにやるのか、物価を上げることが自己目的みたいになっているのは変ではないか」「人々の賃金が上がり、設備投資が増えることが目的であって、物価が上がることが目的ではない」と石破さんは言っているようです。では、今の金融政策を変更するのか、については明言しません。いや、「2%目標は維持する」と言っているようなので、変更するのではなく、説明の仕方を変えるだけなのかもしれません。日銀の国債購入を止めれば、その時点で、崩壊が始まりますので、そんな決断はできません。石破さんは馬鹿ではありませんので、そんなこと、わかっているはずです。
では、対抗馬と言われている岸田さんは、どんな経済政策を持っているのでしょう。
禅譲と言われているのですから、安倍さんの政策を引き継ぐことになります。金融政策の変更はありません。このまま、ずるずると続けることになります。
日銀は、今のまま、行き着くところまで行くしかありません。
では、その行き着く場所とは、どんな場所なのでしょう。
誰も語りませんが、行き着く場所は、地獄なのです。
怖ろしいことです。こんな肝心要のことを、誰一人、口にしません。

木内氏も、「構造改革が、にわかに、実現するとは考えにくい」と言っていましたが、日本の場合、構造改革をする以外に道はないように見えます。しかし、国家の中枢の政策を決める立場にいた木内氏のような人が、まるで他人事のように「実現するとは考えにくい」と発言しているのです。結局、彼は、審議委員の時も、辞めてからも、ただの評論家だったということなのでしょう。火中の栗を拾う人は一人もいません。木内氏だって、構造改革が必要なことは理解していると思います。少なくとも、国家運営に携わっている人であれば、構造改革などやらなくてもいい、と考えている人はいないでしょう。
でも、これが、とてつもなく、難しいのです。
誰もが、火中の栗は拾いたくないと思うくらい難しいのです。
どのくらい、難しいのか。
明治維新も、大規模な構造改造でしたが、多分、明治維新よりも難しいと思います。
まだ憶えている方もいると思いますが、かつての民主党は「国の仕組みを変える」と言って政権を獲ったのです。彼等が気付いていたかどうかは別にして、構造改革を旗印にし、国民も、そのことに気付くことなく、期待していました。でも、彼等は、何も出来ずに、自滅してしまいました。政権を獲得した時の「国の仕組みを変える」という国民との約束を忘れ、増税はしないという国民との約束を見事に破り、民主党政権は増税の道筋をつけるだけの政権でしかありませんでした。彼等だって、かなり本気で「国の仕組みを変える」つもりだったのでしょう。でも、「構造改革とは」という意味がわかっていなかったのです。別に生血を流す必要はありませんが、血を流すくらいの覚悟が必要だったのです。簡単なことではありません。
構造改革の最終目標は、経済の構造改革ですが、それを実現するためには、国家運営に関わるあらゆる分野の構造改革が必要不可欠です。仮に、これを、国家改造という言葉で表してみますと、最初に、国家改造をしなければ、経済の構造改革は成功しないということです。これまでも、経済の構造改革は叫ばれてきましたが、一度も成功したことがないという現実が、そのことを証明しています。現行の国家運営システムでは無理なのです。明治維新クラスの構造改革が必要だということです。
国家改造なんて、簡単にはできません。その理由は、現在のシステムを壊せば、現在の利権も壊れるということです。そんなこと、利権集団の皆さんが認めるわけがありません。どんな手段を使ってでも、国家改造を阻止するでしょう。彼等にとっては、例え、血を流してでも阻止するだけの価値があります。しかも、権力を握っているのは彼等のほうです。そんな、革命のようなことが、この平成日本でできるとは思えません。しかも、今の国家運営集団は、徳川幕府末期の将軍や老中より強力です。仮に、明治維新の時の薩摩と長州が、今の民進党と共産党だとしてみましょう。民進党や共産党に、そんな力量がありますか。ありませんよね。しかも、民進党や共産党は、国家改造が必要だとは思っていないのです。彼等は、構造改革の議論をするのではなく、森友問題や加計問題ばかり取り上げています。彼等には、方向性すら見えていません。
どう考えても、無理です。
それでも、私達の生活を守るためには、国家改造は、どうしても必要です。
国家改造ができる方法が一つだけあります。それは、大半の国民が国家改造を要求することです。数千万人の国民を獄につなぐことは不可能ですし、ましてや、処刑することなどできません。この方法であれば、無血改造も夢ではありません。ただ、国民が束になった時の強さは、最強なのですが、残念ながら、国民が束になることはないのでしょう。
もちろん、流血覚悟の革命も、私達にはできません。
だとすると。
そうです。
国家崩壊シナリオが一番現実的だということです。

ある構造改革の記事を紹介したいのですが、長文になりますので、明日にします。
さて、実現可能なのでしょうか。


2017-09-01



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お先真っ暗 [評論]



OECD発表の「国の信頼指数」と呼ばれる「図表で見る政府」によると、政府を信頼している日本国民の比率は、36%だったそうです。
この数字を、どう捉えるかは、その人の考え方によると思います。
「どうして、こんなに低いの?」と感じる人もいるでしょうし、「36%なんて、ありえない」と感じる人もいるでしょうし、「そんなもんだろう」と冷めた見方をする人もいるでしょう。
私は、36%は高すぎると思いますが、50%であっても不思議ではないと思っています。どんな調査をしたのか、調査対象者はどう選別したのかわかりませんので、他の国と比較してみるしかありません。
他国の「政府支持率」下記のようです。
・インド 73%
・カナダ 62%
・トルコ 58%
・ロシア 58%
・ドイツ 55%
・南アフリカ 48%
・オーストラリア 45%
・英国 41%
・日本 36%
・米国 30%
・スペイン 30%
・フランス 28%
・ブラジル 26%
・韓国 24%
・ギリシャ 13%

英国は、EU離脱問題を抱えています。アメリカは、トランプ政権発足時の数字だと思われます。スペインの政権は、いつも不安定なままです。フランスは、オランド政権の末期で、この後、マクロン政権がスタートしますので、もう少し数字は改善するでしょう。ブラジルは、大統領弾劾がありましたし、経済不況が続いています。韓国は、朴槿恵大統領時代の数字のようですから、低くなっています。ギリシャは財政再建の途上ですから仕方ありません。つまり、下位の国々は、政権不安を抱えている国です。日本は、世界でも有数の安定政権と言われていた時代の数字です。この数字は、加計学園問題や防衛大臣の失言や東京都議選の前の数字だと思いますので、今、調査をすれば、もっと低い数字になるものと思います。
シビアにみれば、一桁の支持率が正解だと思いますが、日本国民は優しいし、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の国ですから、50%でも驚きません。
ただ、なんらかの政治混乱がある国に近い数字だということは、決して喜ばしい状況ではありません。もしかすると、この36%は上限の数字なのかもしれません。もちろん、こんな数字が発表されても、日本政治が変わることはありません。そして、経済の衰退も続くものと思います。いつか、ギリシャを追い抜いて、世界一を手にするものと思いますが、これが、トレンドというものです。今は、その途中経過に過ぎないと考えると、末恐ろしい気がします。



もう一つ、別の数字を見てみましょう。
「定年退職に関する意識調査」で対象となった15カ国中、定年に向けた準備が最も整っていない国は日本であることがわかった、という記事がありました。
この調査はオランダの保険会社エイゴンが1万4400人の労働者の回答から、対象国の定年準備のレベルを6つの項目(個人の責任・意識レベル・金融知識・定年後の収入・老後用貯蓄・定年後の計画)を10点満点で採点したものだそうです。
■労働者が「定年退職の準備が整っていない」と感じている15カ国
15位 インド 7.6
14位 米国 6.9
13位 ブラジル 6.4
12位 中国 6.3
11位 英国 6.2
9位 オーストラリア 6.1
9位 カナダ 6.1
8位 ドイツ 6.0
7位 オランダ 5.8
6位 トルコ 5.5
5位 ポーランド 5.3
4位 フランス 5.2
2位 ハンガリー 5.1
2位 スペイン 5.1
1位 日本 4.7

見事に、世界一、金メダルです。
国の借金も世界一です。
この類の金メダルには、困ったものです。
この数字は、将来的に、社会不安の増大を示す数字になります。しかも、これは、国家衰退というトレンドを後押しする数字にもなります。この数字以外にも、老人の貧困問題は爆発的に増加するという数字が数多く存在しています。もちろん、自己責任ですから、誰かが貧困老人を救ってくれることはありません。もちろん、国には貧困老人を救済する財源はありません。10年後の貧困老人は、少なく見積もっても500万人(まさか!!)と予想されていますが、残念ながら、放置するしか方法はないのです。
私は、老人人口が2,500万人になった時の貧困老人の数は、2,000万人になると思っていますので、社会不安は、現在の予想の数倍になると思っています。皆さんの近所のスーパーでは、見かけない光景かもしれませんが、千円札を握りしめた老人が「これで、買えるだけ」という注文をレジでしていることがあります。レジのおねえさんは、選別作業をしなければなりません。「これは、外しますよ」と言われて、別のかごに入れられる商品を見ている老人の顔は正視できませんでした。私の住んでいる地域では、今でもこういう老人がいるのです。10年後を想像すると、暗澹たる気持ちになります。
収入のない、貯金のない、年金のない老人は、生き延びることができません。10年後に、生活保護制度が機能しているとは思えません。もちろん、葬式の費用などありません。いや、1万円の火葬料も残せないでしょう。もっと言えば、死亡の認知が出来るかどうかも心配です。戸籍制度が崩壊すれば、統治機構も機能しなくなります。
国が衰退すれば、当然、国民の生活は貧しくなります。国民は、「こんな筈ではなかった」と思うでしょう。国民が、その怒りの持って行き場がなくなれば、政府が悪いというキャンペーンを野党やマスコミが始め、空気に左右される国民は、国に対する不満を増幅させることになります。でも、国が国民に責任転嫁をしても、国民が国に責任転嫁をしても、何も解決しません。確かに、失敗の原因は国家運営者の不作為によるものですが、国家運営者の好きにやらせたのは国民自身なのです。国民は、主権者であると同時に、責任者でもあります。これも、定義不在による弊害の一つです。「国民とは」という定義があれば、その定義の中に、「最終責任は国民が負う」という一文があるはずです。
かつて、戦後間もなく、「民主国家の国民の権利と義務」という話題が盛んになった時代がありました。「俺達は、王様だ」「何をやっても、許されるのだ」という馬鹿げた主張もありました。その後、民主国家も、国民も、権利も、義務も、曖昧という荒野に溶け込み、議論が深まることはありませんでした。その延長線上に今日があります。もちろん、議論を深めないほうが、国家運営者にとって利益になったのですから、そう誘導されたのですが、国民は、その事にも気づきませんでした。
手遅れ状態にならないと騒がない場合は、騒がないほうが悪いと思います。それが出来るのは民主国家だけなのに、もったいないことです。
長期的な対応は、本来、国の仕事ですが、民主化を求めなかった国民の、民主主義の定義を知らなかった国民の責任です。これも、「民主主義とは」という定義が欠如していることの弊害です。
将来を予測できる数字は、いくらでもあります。国民は、その対応を政府に求めなければなりません。「国とは」という定義はありませんが、それが国の仕事だからです。一方、最終責任を取るのは国民であり、四の五の言っても、自分と自分の子供と孫の生活がかかっているのですから、事前に騒ぐことが国民の仕事なのです。
国が対応できなかった少子高齢化が、その一例です。20年前に、国民は騒ぎましたか。いいえ、国民は自分の守備範囲だと思っていませんでした。少子高齢化による悪影響は、これから、ますます、大きくなりますが、今となっては、打てる手はありません。「定義」の欠如が、国を亡ぼすという、民主国家では見られない現象が起きるのです。
公助、共助、自助という話を書いたことがありますが、政府は、自らの責任を転嫁するために、ますます、自助を強調するようになるでしょう。自助とは、「最終責任を取るのは、国民の皆さんですよ」という意味です。
社会保障費の削減も着実に進行しています。生活保護の次は介護でした。介護の次は医療になり、医療の次は年金になるでしょう。選挙との兼ね合いがありますので、時期は未定ですが、社会保障費は確実に削減されることになります。もちろん、削減は一回では終わりません。エンドレスで続きます。ない袖は振れないのですから、仕方ありません。でも、ここに不思議があります。政府も日銀も、国の借金を中央銀行が引き受けても問題はない、と言っているのですから、借金はいくらでもできる筈なのに、どうして、社会保障費の削減をする必要があるのでしょう。そうです。いくらでも借金ができるという言い分が偽物だからです。当たり前のことです。もしも、無尽蔵に借金が出来るのであれば、増税も社会保障費の削減も必要ありません。皆で、使いたいだけ使い、皆でハッピーになればよかったのです。「これでもか」という巨額の借金をし、増税をし、給付削減をする。国民にとって、いいことは何一つありません。それでも、国民は自民党に投票します。日本国民は、どこまで「いい人」なのでしょう。それでも、責任を取るのは、国民です。上の数字は、そんな社会がやって来ることを示している数字なのです。現実は着実に崩壊の方向を向いています。
また、「このままでは、日本の金融緩和政策はヤバいことになるぞ」という意見が増えてきました。国債の購入も、ETFの購入も、マイナス金利政策も、賛成しているのは政府と日銀だけになりそうです。だって、最終責任を取るのは、政府でも日銀でもないのですから、彼等は他人の褌で相撲を取っているのですから、こんな楽なことはありません。責任を取る必要がないのですから、好き放題に出来ます。ところが、今でも、金融緩和政策失敗の最終責任を取るのは国民であるということを、国民は知りません。誰も責任を取らず、誰もが幸せになる方法なんて存在しないのです。誰かが責任を取らねばなりません。責任を取るのは、国民の皆さんです。皆さんは不条理だと感じるかもしれません。「俺が、何か、悪いことをしたか」と思うかもしれません。でも、「国民とは」という定義があれば、簡単に納得できることなのです。
社会保障費を削減することは当然だという空気の醸成も進んでいます。いつか、年金を貰っていると「国賊」と言われる日が来るのかもしれません。醸成された空気が支配する国ですから、これも仕方ありません。
つまり、少し長い目で見れば「お先、真っ暗」状態になっているのです。
これでは、国民の不安が消えることはありません。
国民は、理屈では説明できなくても、直感で、その「お先、真っ暗」を感じています。
でも、定義が存在していませんので、騒ぐことすらできません。
ほんの少しだけ、想像してみてください。
貧困老人が、バタバタと死に絶える日がやって来るのです。いや、貧困老人だけではありません。必死に貯めた1,000万円の貯金に頼って生活をしていた老人は、ハイパーインフレのせいで貨幣価値が暴落し、1万円の価値になってしまったらどうするのでしょう。貯金なんて、何の価値もなくなるのです。中には、年金は物価スライドするから大丈夫だと思っている人がいるかもしれません。しかし、財源があったら、という前提条件が満たされなければ実現しません。多少の貯金がある老人も、多少の年金がある老人も、ハイパーインフレがくれば、即座に貧困老人になるのです。残念ながら、この国の財政は、ハイパーインフレでしか清算できない運命を背負っています。国の財政問題は、庶民には関係ないなんて話は、嘘八百にすぎません。国の財政は、庶民の生活に直結しているのです。
では、若者は、老人問題だから、自分には無縁の出来事だと思えるのでしょうか。そうは思えないでしょう。自分の将来を見ることになるのですから、不安になります。老人だけではなく、全世代の人達が不安の中で生活をしなければなりません。これでは、社会が正常に機能するとは思えません。そんな社会にしたくないのであれば、事前に騒ぐしか方法はないのです。それが、国民に課せられた責任なのですから、定義の不在は、怖ろしいことだと気付いて欲しいと思っています。
先ず、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義をすることから始めなくてはならないのが、私達国民の仕事です。確かに、もう、手遅れですが、何もしないより、何かをするべきなのではありませんか。



これは、些末なことかもしれませんが、「構造改革とは」という定義がないために、国会が、いつものように三文芝居で国費を浪費しています。
「構造改革」という言葉は盛んに使われますが、私も使いますが、その中身については千差万別の解釈があるように思っています。統治構造の改革、政治構造の改革、経済構造の改革、社会構造の改革、どれをとっても一筋縄で解決するような問題ではありません。しかし、構造改革しかこの国を救うことができないことも確かです。だったら、言葉の定義をして、本気で取り組むべきだと思うのです。今は、目的も手段も曖昧なままです。
私は、NHKと契約をしていませんので、友人の家で閉会中審査をみましたが、安倍総理は「岩盤規制に風穴を開けるために」と何度も答弁していました。安倍総理は「構造改革」という言葉も政治用語にしてしまったようです。政治家の先生方(これは、蔑称です)は、法律に違反していなければ、何をやっても良いという基本理念で活動していますから、金や票のやり取りは秘匿しても、言葉の意味を変えることなど、正当な行動だと考えています。
昨日も言葉による騙し政治のことを書きましたが、私には、日本語受難の時代に見えてなりません。利用できるものは何でも利用しよう、という下心が丸見えで、不快な気分になるのは私だけなのでしょうか。国対委員長も幹事長も官房長官も総理大臣も、「丁寧」という言葉を乱発しています。「丁寧」という言葉を口にすれば、丁寧に説明したことになると思っているようです。いや、実際に効果があるから、彼等は「丁寧」を使うのであり、言葉に騙される純な国民がいる限り、「ふむ、ふむ」と大人の対応をしている国民がいる限り、勘違い国民がいる限り、彼等は使い続けるでしょう。ですから、政府だけが悪いわけではありません。ただ、本質を隠し、言葉で騙すやり方は、国にとっても、国民にとっても、不幸なことだと思います。
話は脇道に逸れますが、重婚疑惑やストーカー疑惑のある議員が謝罪会見を開き、後援会の人達と握手をしている映像がありました。濃い化粧の高齢女性が多かったように思います。皆さん、それぞれ事情はあると思いますが、あの勘違い高齢者は「気持ち悪い」と感じてしまいました。多分、これは、私の偏見なのでしょう。でも、やはり、気持ち悪いです。できれば、もう少し薄い色の紅を使ってくれると嬉しいです。
総理、もしも、総理が高い理念で岩盤規制に挑戦しているのであれば、京都産業大学に獣医学部を新設したのであれば、総理の言葉でも説得力があったと思います。加計理事長は古くからの友人なのですから「ここは、辛抱してくれ」と頼めば、友人なのですから、親友なのですから、加計理事長も承知してくれたと思います。もしも、加計理事長が「ゴルフにも連れて行ったし、飯も食わしてやっただろう」と言うような人間ならば、友人にしてはいけません。なぜなら、総理は、国家国民のために働く人だからです。それとも、友人の便宜を叶えるために政治をやっているのですか。お願いですから、「そうだ」なんて言わないでくださいよ。ただ、「それの、どこが、悪いんだ。皆やってることだろう」と言われると、その通りですから反論はできませんが、せめて、一人くらい、そんな人がいて欲しいと思うのは、庶民のささやかな願いです。
世間では、愚かにも、安倍総理は、国家国民のために働いてくれていると信じている人がいるようですが、その評価を無駄にしてしまったことは、大変残念だと思います。
もっとも、私は、安倍総理を、日銀に国債ファイナンスをさせた戦後最大級の戦犯だと思っていますので、残念だとは思っていません。
ただ、好き嫌いの感情だけであれば、私は、安倍さんが嫌いではありません。「安倍さんと蓮舫さんの、どちらが好きですか」と問われれば、安倍さんのほうが好きだと答えます。私は、「トランプとヒラリーのどちらが好きか」と問われれば、トランプと答えるような変人ですから、国に損害を与えるかどうかという観点からは、落第です。個人的な好き嫌いは、できるだけ封印しているつもりですが、端々に見えているかもしれません。それは、謝らなくてはなりません。
一方、野党の皆さんにお願いしたいことがあります。
加計問題など、ごくごく、些細なことにすぎません。野党の皆さんは、完全に力配分を間違っています。特に、蓮舫さん。加計問題に必死になっている姿は、見苦しいと思います。そのような近視眼的な展望しかないから、代表辞任に追い込まれるのです。
どうか、国会で「構造改革とは」という議論をしてください。
構造改革とは、文科省の対応で見られるような、既得権益者擁護ではありません。
ましてや、内閣府がやっている、新しい利権集団を作ることでもありません。
加計問題を政治家と官僚の闘いにするのではなく、原点に戻すこと、「構造改革とは」という定義をすることから始めなくてはなりません。法律違反かどうかという議論は、国会の仕事ではないと思います。
特に、今の日本に必要なのは構造改革なのですから、そのことを議論すべきです。
定義がなくて、利益に走ってしまうのは、人間ですから、致し方ありません。
でも、定義があれば、その定義に沿うように動くのも人間なんです。
確かに、人間は、弱くて愚かな生き物ですが、他の動物にはない理性という素晴らしい一面も持っています。
だからこそ、人類は、まだ、生き残っているのです。


2017-08-02



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情報収集と分析 [評論]



東京都議選で自民党が大敗しました。
57議席が23議席になったのですから、6割減です。
自民党にとっては、かつて、民主党が政権を取った時の悪夢が、再現したと言っても過言ではありません。これは、後遺症として残ります。
菅官房長官も、流石に、今回は「たかが、地方選挙」という言い訳はできませんでした。
公明党の山口代表だけが、「たかが、地方選挙」という言い方をしていましたが、これは東京都政で自民党との連立を解消した罪滅ぼしの発言でしかないと思います。公明党にとって、東京都議選は、国政選挙クラスの重要選挙だと言われています。公明党は都議選で負けるわけにはいかなかったのです。その理屈は、私にはわかりません。不思議です。
東京都の公明党は、かなり早い時期に自民党との連立を解消しました。公明党の選挙参謀が優秀だったということなのでしょう。自民党は、公明党の動きに気付かずに、何の反応もできませんでした。国政での連立があるのだから、大丈夫だと思い込んでいたのでしょうか。もし、そうであれば、お粗末としか思えません。
落選した自民党都議は、「小池旋風よりも、公明党が痛かった」と語っていました。自民党は、創価学会票という下駄をはいた選挙をしてきたことを忘れていたのです。国政でも、自民党は、創価学会票という下駄を再確認することになります。ほんとに、宗教団体は強い。公明党は、イスラム教徒によるテロを否定すると思いますが、創価学会の信徒も、右向け右と言えば、全員が右を向きます。私には、大きな差はないように見えます。民主主義の対極にありますが、信教の自由は、民主主義では認められます。民主主義も、なかなか、辛いことがあります。できれば、信仰は、もう少し純粋であって欲しいと思いますが、宗教が権力と結託することは、太古の昔からの、世界規模での歴史なのですから、致し方ありません。これも、現実です。ですから、選挙に関しては、公明党の力は最強です。まあ、公明党の価値は、そこにしかありませんが、それも大きな価値です。これで、憲法改正も、少し難易度が上がったと思います。
ここまで、言葉による騙しが有効に効いていましたが、国民は、そのことに薄々気付き始めたのかもしれません。これで、得意の言葉騙しが通用しなくなる流れが生まれてしまう可能性があります。安倍総理は「真摯に反省して・・・・」と言っていますが、その会見が終了した足で、東京でも最高級といわれるフレンチレストランに行き、ワインを味わっていたのでは反省しているようにはみえません。恐怖は感じているかもしれませんが、反省はしていないと思います。国民は、白けています。軽々しい言葉と、虚言と、空気が支配するこの国の国民は、どうすれば、幸せになれるのでしょうか。
私は、森友問題で安倍政権打倒は難しいと書きました。しかし、いつものように、不幸は不幸を呼ぶという現象が起きています。加計学園、大臣発言、総理発言と目白押しです。どれも、無責任な言葉の洪水状態です。そのせいで、安倍政権の支持率は急降下しました。でも、政党支持率を見てみると、無党派層は増えましたが、自民党支持率はそれほど減っていません。自民党の支持率は30%あります。他の政党は、どこも、一桁の支持率しかありません。とても、自民党政治にストップをかけられるような状況ではありません。
実体の伴わない政治。この流れを大きくするものがあるとすれば、海外要因になると思います。アメリカの横車が押し寄せれば、更に、空しい言葉が溢れることになります。トランプ政権はハチャメチャ度を増幅させていますので、何としても「実績」が欲しいでしょう。G20でも、孤立というより、浮いているという表現が似合いそうでした。「G20の作業部会の所在なさげなトランプ氏」という写真が報道されていましたが、ポツンと一人で立っている姿がとても象徴的で、気の毒になりました。かなりの重症です。もう、事実上の「村八分」状態です。最後の写真撮影では、左端から2番目に並んでいました。中央の主催国のメルケルさんの隣に習近平さん、その隣にプーチンさんという並び方です。どうも、メルケルさんは、きつい人のようです。過去に、アメリカ大統領が中央から外れたことはなかったように思います。トランプ政権では、内政問題の解決も、進んでいません。そのことで、共和党が時間的な要因でデッドロックする可能性もあります。内政も外交も、次々と、トランプ自身が問題を作り出しているのですから、共和党も苦労します。トランプを他の誰かに変えれば、問題が片付く状態は、アメリカの不幸です。そんな中で、中国と全面対決するだけの体制は、まだありませんし、欧州は反旗を翻していますから、安易度から言えば、韓国、日本、カナダ、メキシコが候補になります。韓国が一番料理しやすいとは思いますが、北朝鮮が絡んできますから、北朝鮮が絡んでくるということは、中国やロシアも絡んできますから、面倒です。カナダもメキシコも、表面上は強気を維持していますから、消去法で選べば、日本に矛先を向けることが最善の策になります。トランプが、なりふり構わずに、成果を求めた場合、安倍さんは対応できるのでしょうか。自分から「わん、わん」とポチになった経緯がありますので、難しいのではないかと心配しています。

自民党が都議選で大敗した翌日、北朝鮮のミサイルが、日本の排他的経済水域に落下しました。北朝鮮は、都議選で自民党が大敗したことを祝って祝砲を打ったわけではなく、アメリカの独立記念日への贈り物と、G20へのメッセージとして発射したようです。成果があったかどうかは不明ですが、G20の共同声明では北朝鮮問題は取り上げられませんでした。北朝鮮とアメリカのチキンゲームは、どうやら、北朝鮮の勝利で終わるようです。後で振り返ってみれば、これも時代の曲がり角の出来事になるのでしょう。
ミサイルは9時39分に発射され、40分間飛んだそうです。アメリカも、ミサイルがICBMだと発表しました。ワシントンに届くミサイルが開発されるのも時間の問題だとされ、それも、近い将来、実現するだろうと言われています。もしも、北朝鮮が頑張って100発のミサイルを製造し、全弾、ワシントンに向けて発射したとして、アメリカは防衛できるのでしょうか。「窮鼠猫を噛む」という事態は、起こり得ます。仮に、半分のミサイルを打ち落としたとして、残りの50発がワシントンで爆発し、その中に、原子爆弾が含まれていたとすると、ワシントンは壊滅します。もちろん、アメリカは、即座に、報復をするでしょう。北朝鮮には、ミサイル防衛システムが存在していないと思いますので、アメリカのICBMは、全弾、標的を破壊するものと思います。それで、北朝鮮は白旗を挙げるのでしょうか。多分、そうはならないと思います。ミサイルとロケット弾が韓国に降り注ぎます。休戦ラインを越えて、陸上部隊も韓国になだれ込みます。心配なのは、北朝鮮軍が飢えているということです。食料補給が現地調達だとすると、これほど強い軍隊はありません。
過去のシミュレーションでは、在韓米軍に5万人の、韓国軍に50万人の犠牲者が出るとされています。民間人の犠牲者は、数百万人になる可能性があります。在日米軍の駐屯地に向けてもミサイルは発射されます。ついでに、東京にもミサイルが飛んでくるでしょう。その時の犠牲者は、400万人という予測もあるようです。
窮鼠が猫を噛む事態は防ぎようがありません。過去に、窮鼠状態だった日本が真珠湾攻撃をしたのと同じです。経済制裁で追いつめられている北朝鮮が、日本と同じことをしないという保証はありません。北朝鮮は、今、紛れもなく、窮鼠です。アメリカは、その窮鼠を更に追いつめようとしています。
アメリカは、北朝鮮のミサイルの射程距離が進化したことで、尻に火がついて焦っていますが、日本はどうするのでしょう。
防衛省がミサイル発射の第一報を発表したのが12分後の9時51分。ミサイルがノドンであれば、既に着弾した後です。菅官房長官が記者会見をしたのが、10時30分。その時点では着弾地点もミサイルの種類も判明していません。自治体は、この体制で、どうやって、住民を守るのでしょう。
いつものように「情報収集と分析を」と発表しましたが、着弾から10分後に、情報収集と分析をしていて、どうやって、国民を守るのでしょう。実際には、詳細が判明していて、軍事情報の保秘のために発表しなかったのであれば、いいのですが、優秀な菅官房長官の表情からは何もわかりませんでした。もしかすると、ミサイル発射の情報も、アメリカの監視システムから貰ったものかもしれません。本来であれば、着弾地点の延長線上にある、秋田県や北海道に、着弾前に、避難情報を出さなければならなかったのではないかと思います。このままでは、全国一斉の警報を出しておいて、政府は責任を果たしましたというアリバイ作りになってしまいそうです。これは、責任逃れの言葉遊びです。頻繁に警報が出て、ミサイルが落ちてこなければ、誰も避難しようとは思わなくなります。
安倍総理は、大臣の不祥事があると、稲田大臣の辞任の時も、「任命責任は私にあります」と堂々と言いますが、「責任を取る」とは言いません。ただ、「真摯に反省します」という常套句を、「反省しています」という顔で言うだけです。「責任」という言葉を、無害な言葉に変えてしまいました。
このような、実質的な行動の伴わない言葉が溢れています。もっとも、これは、今に始まったことではありませんので、「まあ、まあ」で決着するのでしょう。
でも、それでいいのでしょうか。
本気で、安全保障を考えるべきなのではありませんか。
実際に、有事が発生したら、政府は「想定外」で済ませばいいのですが、国民はたまったものではありません。
戦争は、相撲のように「よーい、はっけよい」で始まるとは限りません。先制攻撃を防ぐことはできません。ですから、国民に犠牲者が出ることは、防げません。そのことは、国民に伝えるべきです。一人の犠牲者も出さないような言い方は卑怯です。犠牲者は、必ず、出ます。その上で、被害を拡大させない行動を取ることが政府の責務です。「情報収集と分析」という定型発表は、何の意味もありません。国民は「情報収集と分析」という言葉で安心しているのかもしれませんが、「お上」は国民のために対応してくれていると思い込んでいるのかもしれませんが、ほんとに、そうなのでしょうか。毎回、毎回、判で押したように「情報収集」を口にしているのは、マニュアルによる発表なのではありませんか。
なし崩しで防衛力の強化をするのではなく、憲法改正をする前に、国防ビジョンを示し、国民投票をしてみては、どうでしょう。国民は、賛成してくれると思います。そうすれば、9条に自衛隊の文字を追加するような姑息なことをしなくても済みます。

東京都知事選挙で小池氏が勝った時も書きましたが、選択肢さえあれば、都民は自民党に「ノー」と言うだけの判断力を持っています。今回も、都民は、自民党東京都議団に「ノー」と言っただけではなく、自民党と安倍政権に「ノー」と言ったのです。都民は、森友や加計問題で自民党を見限ったのではありません。言葉で逃げようとした自民党の対応に、不安を持ったから、自民党に投票しなかったのです。ただ、これも、空気によるものです。理詰めで都民ファーストに投票したわけではありません。だって、定義がないのですから、理詰めをする原点がありません。空気に動かされた付和雷同状態に過ぎないのです。
「お上」が言葉騙しで何とかなっていた時代は終わっているのです。もちろん、国民はそのことに気付いていませんから、また、騙される状態に戻るのでしょう。国も国民も、時代に追い付いていませんから、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で時代遅れの安全地帯に戻り、安堵することになります。
国民は、漠然と、何となく、そのことに気付いているのかもしれませんが、原因が把握できていないのですから、また、空気で動きます。
それでも、選択肢さえあれば、いつでも、自民党は政権を失います。
それを証明したのが、前回の都知事選挙であり、今回の東京都議選です。
どうして、野党の政治家はそのことに気が付かないのでしょう。
専門的な情報収集や分析は必要ありません。金と票にしか関心がなく、感性と想像力を失ってしまった政治家は、直感も無くしてしまったのでしょうか。直感があれば、何をすればいいのか、簡単にわかるはずです。そうです、民進党ではなく、共産党でもなく、国民目線の第二自民党を作ればいいのです。業界団体の利益優先ではなく、一般国民の目線で政治が出来る集団を作ればいいのです。金がなければ選挙は戦えないと泣き言を言うかもしれません。ほんとに、そうなのでしょうか。仮に、そうであったとしたら、新しい集金システムの構築を全力でやるべきでしょう。新しいシステムの構築は、そう簡単にはできません。でも、それでも、しぼり出すしかないと思います。イデオロギーや過去の経緯は関係ありません。そんな屁のツッパリにもならない過去は、全部、捨てなくてはなりません。
もちろん、そのことをわかっていたとしても、今ある金と票を失う恐怖に勝たねばなりません。人間には、それが、できません。更に言えば、自民党に代わる受け皿集団ができると、金と票を求めて、信念なき政治家を呼び寄せてしまいます。民主主義には数が必要ですから、そんな有象無象も受け入れてしまいます。第2の民主党の誕生です。なかなか、うまくいきません。最終的には、国民意識でしか国の改造はできないことになります。でも、きっと、そこに突破口があるような気がします。
今は、どんな嘘をついても、政治家は選挙で選ばれます。政治家の都合で政治が行われるのではなく、政治家の生殺与奪権を握っているのが国民であれば、政治家は、常に、国民に視線を向けるしかありません。できれば、創価学会も、自主投票を第一義にしてくれるとありがたいものです。もっとも、これは、民主主義の定義がなくては、実現しないことですから、可能性はありませんが、それでも選挙制度の改革は必要だと思います。
過去に、度々、現行の選挙システムを変えるべきだと書いてきましたように、公職選挙法を大幅に変えることが必要ですが、それに取り組む政治家が出てきた時が、日本の民主主義の始まりなのかもしれません。以前にも書きましたが、選挙制度の改革というのは、一票の格差の問題や、中選挙区と小選挙区の問題でもありません。国民の本音の意志が反映できる新しい概念の制度が必要なのです。政治家の政治家による政治家のための選挙制度では、国民目線が生まれることはありません。
「国とは」の定義が、もしも、「国民の生命と財産を守る」ことであれば、国家運営者は、常に、国民目線で物事を見なければなりません。最近の風潮ですが、「国民の生命と財産を守る」と言う言葉からは安全保障を連想される方が多いかもしれません。安全保障も、その要素の一つですが、経済も、財政も、社会も、食料も、災害も、未来も、「国民の生命と財産を守る」ことです。
そのためには、政治家による、国民のための選挙制度にする必要があります。しかし、そのような発言はどこからも聞こえてきません。国民から聞こえてこないのですから、政治家から聞こえることはありません。国民次第で国は変われるのですが、定義のない曖昧国家の国民には、難しい注文なのでしょうか。この定義のない曖昧国家が、全ての元凶なのですから、国民が、先ず、そのことに気付く必要がありますが、そんな声も、聞こえてきません。小学校の頃から、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義について、子供達が議論することが定着すれば、国民の意識は変わってくるものと思います。ただ、50年くらいの時間は必要です。
このままでは、必ず、「あちゃー」と言う日が来ます。
間違えました。「あちゃー」を通り越して、阿鼻叫喚の日がやって来ます。
ただ、これは、起こるべくして起こることであり、自業自得なのですから、私達が助平根性を捨てられなかったのですから、諦めるしかありません。70年前にチャンスはありましたが、封建制度から民主制度に移行するためには、350万人の犠牲では少なかったようです。だから、数千万人の犠牲者を出し、新しい国造りをするための、国家崩壊がやってくるのです。次は、定義をすることから始めて欲しいものです。
もっとも、阿鼻叫喚の日々がやってきたら、「誰の責任か」なんて話をしても、意味がありませんし、そんなことやっているゆとりはありません。今日の食料を確保することが、それだけが、私達の仕事になります。


2017-08-01



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空気という疫病 [評論]



ある東大教授の方が、日本の意思決定プロセスは「東大病」に冒されているというコラムを書いています。

「 特定の、誰か、が暴走するのではなく、組織全体がいつの間にか暴走してしまう。だれも責任を取らず、異議も唱えない一方、巧みな言葉の“すり替え”でごまかしながら、コトをするっと進めてしまう。そうこうするうちに既成事実となって歯車が回り始め、誰にも止められなくなる。これこそが「東大病」の正体です」

東大卒のエリートが、この国を支配している。
確かに、それは現実です。
この方は、東大の教授ですから、「東大病」に見えているようですが、これは、決して、「東大病」などではありません。日本は、太古の昔から、こういう統治方式を採用してきた国なのです。そして、封建制度の結晶ともいえる伝統という美名のもとに、多くの若者を教育してきたのです。なぜなら、これは封建制度を維持するためには、実に、有効な方式だからです。日本という国が時代に追い付けずに、衰退しているのは、伝統という名で装飾された日本流の封建制度にしがみ付いているからだと思います。
これは、「東大病」などではなく「日本病」なのです。
この国が構造改革をできない理由もここにあります。日本流の封建制度という現状の構造を逸脱すれば、辻褄が合わなくなり、全体が壊れてしまうという意識があり、頑なに、しがみついているのです。国家運営に携わる多くの方が、これこそが、国家統治の大前提なのだと信じています。先月も曖昧文化について書きましたが、日本流の封建制度も、曖昧文化のおかげで実にうまく作られています。パッと見は封建制度に見えません。正面から見れば、民主主義に見えるように作られています。そのカギを握っているのが儀式です。この方式は一朝一夕にできたものではありません。2,000年という時間が作り上げた方式なのかもしれません。この方式で時代を乗り越えられれば、言うことなかったのですが、うまく機能しなくなってしまいました。それは、グローバル化という世界潮流のせいです。
国民の皆さんは、この国に身分制度などないと思い込んでいると思いますが、それは、皆さんが「下々」だからです。すみません。私も「下々」です。ただ、「選民」という身分があることを知っている「下々」です。中には、身分制度に薄々気付いていて、自分が「下々」であるにも拘わらず、「選民」になりきって、悦に入っている不思議な方もいます。
実際に「選民」と「下々」という身分制度を前提にした国家統治が行われていることを知っているのは、「選民」だけです。東大卒の人達だけが「選民」ではありません。国家運営集団に参加できた人は、自分は選民だと思ってしまいます。選民になってしまえば、もう、そこには、国民という視点はありません。
この方式の中には、多くの要素が巧みに織り込まれています。「忖度」もそうですし、「責任回避」もそうです。皆が悪くて、皆が悪くない。そこにあるのは、選民と選民の「なあ、なあ」なのです。時々、今回のように文科省と内閣府で齟齬をきたしますが、得意の「なあ、なあ」が機能しない時もありますが、それはご愛嬌みたいなものです。日本国民は、「いい人」ばかりですから、時間が経てば、忘れてくれます。
私は、以前に、国会議事堂を国立茶番劇場だと書いたことがあります。「なあ、なあ」だけでは軽く見られてしまいますので、権威付けのために儀式を行う場所なのです。ですから、出し物は、三文芝居でも四文芝居でもいいのです。今年の通常国会は二文芝居でしたが、それもご愛嬌です。
そこには、民主主義の欠片もありません。そんな国の国民は、いつまでも、「下々」にすぎません。
ところが、国民は、自分の国は民主国家だと信じています。
「お人よし」もここまでくると、「お上」にとっては宝物です。
民主主義の定義がないにもかかわらず、どうして、民主国家かどうかを判定しているのでしょう。そうです。「空気」です。日本の主権者は、人間ではなく「空気」なのです。ですから、空気を醸成することが、統治になるのです。そして、その空気を作っているのが「選民」なのですから、当然、空気は「選民」のための空気になります。これは、民主主義ではありません。空気さえ作れれば、どんな統治でも可能になります。最近の例で言えば、戦前の「戦争まっしぐら」という空気です。多くの国民が戦争に違和感を持ちませんでした。空気を介在させて封建制度を維持する、いわば、間接封建主義が、日本の国体なのです。私は、いつも、この国の国体は「民主主義風王政並立封建制度」だと書きます。それは、民主主義という風味を加え、天皇制という味を付け加えていますが、本質は封建制度です。封建制度の国では、私達は「下々」にすぎません。ですから、「下々」が数百万人犠牲になっても、何の問題もないのです。第一次大戦でも、第二次大戦でも、国民は消耗品として使われました。兵士よりも、戦艦や飛行機や銃器のほうが大切にされました。
この国では、他民族に蹂躙されたという歴史はありません。また、過去に、極悪非道の支配者も出ませんでした。極悪非道の支配者に痛めつけられた体験があれば、もっと違った視点が生まれていたでしょう。織田信長が、初めて、極悪非道の支配者になる予定でしたが、残念ながら、暗殺されました。戦国時代、天下統一後の日本を織田信長が統治していたら、今の日本は別のものになっていたと思います。この国では、常に、曖昧が、空気が、支配者だったのです。そして、今、その空気が、時代に適合できずに、病んでいるのです。
確かに、微妙な匙加減で運営する方式には、いい面もあります。四角四面では角が立つという意見も、もっともなことです。でも、それでは、封建制度を卒業することはできません。国民は、いつまでも、「下々」のままです。「俺達は、下々でもいい。なんとか、うまくやってくれ」という意見もあるでしょう。私も、大惨事がやってこないのであれば、それも選択肢の一つだと思います。最終責任を「お上」が取ってくれて、私達国民が無傷でいられるのであれば、願ったり叶ったりです。でも、そんなことは、夢物語です。どう転んでも、最終責任を取るのは、私達国民なのです。国民が、このことに気付かない限り、いつまでも「なあなあ」「まあまあ」が支配することになります。
人間は、つい、現状の延長線上に未来があると信じてしまう性癖があります。
でも、それは、勘違いです。
そんなうまい具合に事が運ぶことは、滅多にないのです。いや、あり得ないことなのです。歴史の年表を見ただけでも、それは明らかな事実です。

私は、いつも、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義が必要だと書きますが、これは、2,000年の歴史を否定しろ、と言っているに等しいことです。実に、無茶な話です。そんなこと、実現することはありません。ただ、大惨事の後に生き残った日本人が、新しい国を作る時に、もしも、この文章が残っていれば、もしかすると、誰かが気付けば、ひょっとして、参考にする半端者がいれば、役に立つかもしれない、という奇跡を期待しているにすぎません。



もう一つ、同じような趣旨のコラムを紹介しておきます。

あることを実行したいと思っている(実力)者が、最適だと思われる機関を利用して、自分の個人的な意思を巧妙に組織の意思に作り替えるのが「意思決定」だ。検討に必要な材料を揃え、いろいろな人が意思決定に参画した形式を整え、正当性を確保するだけなのだ。そのため、他の意見が入る余地は小さいし、シナリオ外の決定はほとんどない。いわば、「意思決定ロンダリング」と呼んでもいいだろう。
この手の「意思決定ロンダリング」は、国や自治体の意思決定プロセスでもよく用いられる。恣意性を排除するために、「衆知を集める」という名目で「委員会」を組織することが多いが、そこに「御用学者」や「御用財界人」が集められることになる。すでに明確な意思を持っている事務方にとって都合のいい意見を言って、追認してくれる人たちだ。
そこでは「お互いに空気を読み合って」「自分の範囲を越えず」「流れに沿って」「阿吽の呼吸で」話し合いをする技術が求められる。あまりに賛成一色だと困るので、あえて異論を述べてくれる少数の「反対派」は入れてあるものの、多数派はしっかりと押さえてある。
また、このような委員会は、あえて広い部屋で協議が行われ、そもそも話し合いが盛り上がらないような配慮さえなされている。100人は入れる部屋に10~15人人しかいなければ、当然出席者の席は離れる(事務方の傍聴者はやたら多い)。声が通りにくいから、話しづらい。よってマイクを使うので、さらによそよそしくなる。貴重なご意見を承りました。とはいうものの、本質的な問題提起があったときは、巧妙に話しをそらして深い議論はしない。……と、どこまでも事務方に支配されているのである。
このように極めて儀式的な会議体だが、それでも、公的機関が設立した委員会の委員になると、社会的信用度が上がるため、委員会の委員の成り手には困らない。反対派として頑張って意見を述べても、あまり話題になることはない。報告書において、「○○のような意見もあったが…」というわずかな痕跡が残るだけである。恣意性の強い委員会の運営に抗議して「こんな茶番(意思決定ロンダリング)に付き合わされてたまるか!」と途中で委員を辞任する人もたまにいるが、大勢に影響はない。
著名なコンサルティング会社や弁護士事務所などが、その任に当たることもある。事務方の設定した目的に沿って、必要な情報を集め、目的に沿うような理論構築をするのが仕事となる。各種の第三者委員会なども、実質的に外部者が主導する一部の委員会を除き、その多くは事前のシナリオに沿った方向にまとめられる。事務方の意思が、いつのまにか権威を持った外部の識者によってお墨付きを得た「錦の御旗」に仕立て直されるのである。
さらに、このロンダリングの仕組みは、なかなか使い勝手がよい優れものである。もしその答申にそって実施された結果が悪かったときには、その答申が悪かったことにできるのだ。すなわち第三者(なんとか先生や、なんとか会社)が悪いということにしてしまえるということである。もともとその答申は事務方の意見なのだが、形式的には外部の先生のご意見をまとめたものだし、行為の実行者は(間違った)答申に従っただけだ。誰にも責任はない。こんな風に、外部を使った意思決定ロンダリングは、責任逃れには最適だ。



まだまだ少ない方が、こんなやり方に疑問を持っています。でも、そのことが全国規模で問題になることはありません。それは、国民の勘違いが大きく影響しています。この国が民主国家だと信じ込まされていることです。現在の方式は、伝統のある匠の技として重宝され、上記のように、その手法に問題があるとする主張があれば、変人の戯言として、意識的に「お上」が無視することで維持されます。「お上」が無視すれば、国民は騒ぎません。なぜなら、この国の国民は「いい人達」ばかりですから。
そこで使用されるのは、伝統のほうが立派に決まっているという宝刀です。実に不思議です。私達が宝刀だと信じている刀は、封建制度を維持してきた刀なのです。その封建制度の宝刀が、民主制度でも宝刀になるという不思議を不思議とも思わない不思議です。その上、この時代錯誤を時代錯誤だと思わないで平然としていれるのは、曖昧文化のおかげです。どこかに、出口はあるのでしょうか。ありません。だから、ガラガラポンが起きるのです。伝統は文化として受け入れるべきであり、時代が変わっている場合は、統治システムに組み込むのは間違いだと思います。
以前は、現状分析すら出来ていなかったのですから、少しは前進したのではないかと思う方がいるかもしれません。しかし、残り時間が少ない今となっては、そんなことを言っていたのでは手遅れです。今は、現状認識と対策の立案と実行を、一気にやらねばならない時なのです。
もちろん、伝統と文化という巨大な壁があるのですから、可能性は微塵もありませんが、必要とされているのは、民主国家の樹立です。
もしも、この国が民主国家であれば、国家の仕事は「国民の生命と財産を守る」ことであれば、国は、国民に「これからの100年の、国民の皆さんの生命と財産は、こうやって守ることが出来ます」という数字を示さねばなりません。でも、そんな数字は、どこにもありません。逆に、国民の生命と財産は守れないという数字は沢山あります。例えば、50年後の借金は8,000兆円と予測されています。仮に、金利が5%だとすると、400兆円の利息を支払わねばなりません。50年後のGDPが300兆円だとすると、国民は全員、霞を食べて生きなくてはなりません。これで、どうやって、国民の生命と財産を守るのでしょう。
私達は、今日を生きることで精一杯です。仮に、将来を考えても。「来月は」「今年は」くらいのものです。10年先、50年先、100年先を考えるのは国の仕事です。国家運営者までが、今日のことや、過去の失敗で右往左往していたのでは、国民は救われません。定義が曖昧になっていることが、国の本来の仕事を曖昧にしています。国民こそ、この定義不在が大惨事を招くという想像力を持たねばなりません。ここで、百歩譲りましょう。政治家は銭勘定や票勘定に忙しく、庶民は毎日の生活に忙しいのであれば、問題提起や方向性を提示するのは有識者と呼ばれる人達の仕事です。でも、その有識者の皆さんは、各種の会議に招聘されることに腐心しています。私達の将来には、ポッカリと穴が開いたままです。野球に例えるなら、センターの野手がいない状態です。しかも、レフトの野手もライトの野手もカバーに入るつもりはありません。これは、大穴です。これでは、国が滅びます。
石田ごとき爺が、こんなブログを書いていることが、国家崩壊が始まっている証拠です。
漠然とではありますが、壊れかかっている様子は、国民の皆さんにも見えているはずです。日本のガラガラポンは必然的な結果であり、それは、もう、9年後に迫っています。自分や自分の家族を守らなくていいのですか。
多くの国民の皆さんだって、「なんか、変だなあ」と思っていますが、皆さん、いい人達ばかりですから、波風を立てようとはしません。いや、そのほうが、楽だと思っています。
こうして、日々、何事もなく、過ぎることを願っています。
でも、そんな都合の良い未来などありません。現実とは非情なものです。
多くの方が、破滅へ向かっている現実を見ようともせずに、作られた空気だけを信じていますので、何を言っても無駄ですが、そうは問屋が卸しません。
それでも、国民は、根拠もなく「きっと、何とかなる」と信じています。もう、これは宗教のレベルです。この信仰心は崩せません。
それでも、残念ですが、この国は、間違いなく、壊れます。
いや、既に、壊れ始めています。
もう、空気で統治できるような時代ではありません。
300年前であれば、崩壊することはありませんでした。
100年前でも、350万人の犠牲で済んだことを僥倖だと考えねばなりません。
でも、もう、無理です。
今度は、数千万人の犠牲者が出ます。
何度も書いてすみません。
最終責任を取るのは、国民の皆さん、あなたたちなのです。
それなのに、国民という視点が、どこを探してもありません。
「下々」は存在していますが、昔から「下々」は多少犠牲になってもいいのです。
数千万人は、多少の犠牲とは言えませんが、それは仕方のないことです。「下々」ですから。
中には、根っからの「いい人」もいるでしょう。でも、ほとんどの方が「いい人」を演じているだけです。
勝手に、自分には害が及ばないと思い込んでいるだけです。
そうじゃありません。
例外なく、誰の身にも降りかかるのです。
皆さんは、今なら、「いい人」ぶって、「仕方ないさ」と言うかもしれません。
国家運営なんて、自分の守備範囲ではないと思っていますから、そう言うのでしょう。
でも、本物の痛みや苦しみや飢餓がやってきても、「いい人」を通せるのですか。
無理だと思います。
恨み、泣き叫ぶことしか、私達にはできません。
なぜなら、それが人間の本性だからです。


2017-07-04



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